イエスの弟子の謙遜と寛容 2025年8月17日(日曜 朝の礼拝)

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イエスの弟子の謙遜と寛容

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 9章46節~50節

聖句のアイコン聖書の言葉

9:46 弟子たちの間で、自分たちのうち誰がいちばん偉いかという議論が起きた。
9:47 イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子どもを引き寄せ、ご自分のそばに立たせて、
9:48 言われた。「私の名のために、この子どもを受け入れる者は、私を受け入れるのである。私を受け入れる者は、私をお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中でいちばん小さい者こそ偉いのである。」
9:49 ヨハネが答えて言った。「先生、あなたのお名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちと一緒に従って来ないので、やめさせました。」
9:50 イエスは言われた。「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである。」ルカによる福音書 9章46節~50節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『ルカによる福音書』の第9章46節から50節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 46節に、「弟子たちの間で、自分たちのうち誰がいちばん偉いかという議論が起きた」とあります。このことは、弟子たちが44節のイエス様の御言葉、「人の子は人々の手に渡されようとしている」という御言葉を理解することができなかったことを端的に表しています。少し遡りますが、第9章20節で、ペトロは弟子たちを代表して、イエス様のことを「神のメシアです」と言いました。しかし、イエス様は、弟子たちに、御自分が神のメシアであることを誰にも話さないようにお命じになりました。それは、弟子たちが思い描くメシアと、イエス様がかけ離れていたからです。弟子たちは、イスラエルの民をローマ帝国の支配から解放してくれる政治的・軍事的メシア、王を期待していました。そのようなメシアによって、神の国が来ると、弟子たちは信じていたのです。しかし、イエス様は、22節でこう言われます。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」。イエス様は、御自分が、最高法院の議員たちから排斥されて殺され、三日目に復活するメシアであると教えられました。また、イエス様は、26節でこう言われます。「私と私の言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じるであろう」。イエス様は、旧約聖書の『イザヤ書』第53章の「苦難の主の僕の預言」と、『ダニエル書』第7章の「栄光の人の子の預言」を背景にして、御自分が苦難の死を通して救いを成し遂げ、復活し、栄光に入るメシアであると言われたのです。そのことを、イエス様は、44節で、再び、弟子たちに予告されます。「この言葉を耳に収めておきなさい。人の子は人々の手に渡されようとしている」。しかし、弟子たちはその言葉の意味が分かりませんでした。彼らには隠されていて、理解することができなかったのです(神的受動態)。また、彼らは、怖くてその言葉について尋ねられませんでした。もっと言えば、彼らはイエス様の不吉な話に深入りしたくなかったのです。弟子たちは、自分たちが思い描くメシア像に捕らわれているのです。すなわち、イエス様がイスラエルの王となり、自分たちはその側近として、イスラエルを支配するようになるという期待を抱き続けているのです。そのような弟子たちの間で、自分たちのうち誰がいちばん偉いかという議論が起こったのです。このような議論が起こったきっかけは、イエス様が12人の中で、ペトロとヨハネとヤコブの三人を重んじていたことにあると考えられます。第8章に、イエス様がヤイロの一人娘を生き返らせたお話しが記されていました。そのとき、イエス様がヤイロの家に伴われたのは、ペトロとヨハネとヤコブの三人だけでした。また、第9章に、山の上でイエス様の御姿が光輝いた、いわゆる山上の変貌のお話しが記されていました。そのとき、イエス様が山の上に伴ったのも、ペトロとヨハネとヤコブの三人だけでした。そのようなことが発端となって、弟子たちの間で、自分たちのうち誰がいちばん偉いかという議論が起きたと考えられるのです。ちなみに、ここで「偉い」と訳されている言葉(メイゾーン、メガスの比較級。ここでは最上級の意味で用いられる)は直訳すると「大きい」となります。弟子たちは、自分たちのうちで誰がいちばん大きい者であるかを議論していたのです。

 イエス様は、そのような弟子たちの心の内を見抜かれました。つまり、イエス様は、弟子たちの「自分こそ大いなる者である」という思いを見抜かれたのです。弟子たちは、自分たちの内で誰が一番大いなる者であるかと議論をしているのですが、心の中では、それぞれが、自分こそ大いなる者だと考えていたのです。人間が集まって集団を作ると、互いを比較し合って、順位争いが始まるのですね。「自分たちのうち誰がいちばん偉いか」という議論は、幼稚な議論だと思う半面、難しい議論であると思います。誰が一番大いなる者かを決める判断材料、判断基準となると、難しいと思います。イエス様は、どうされたでしょうか。イエス様は、一人の子どもを引き寄せ、ご自分のそばに立たせて、こう言われます。「私の名のために、この子どもを受け入れる者は、私を受け入れるのである。私を受け入れる者は、私をお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがたの皆の中でいちばん小さい者こそ偉いのである」。当時、紀元1世紀のユダヤの社会において、子どもは小さい者、価値のない者と考えられていました。小さい者である子どもを、大の大人である弟子たちは受け入れるでしょうか。受け入れないと思います。小さい者である子どもは、弟子たちの「誰が一番偉いかという議論」から最も遠い者であるからです。しかし、イエス様は、「私の名のために、この子どもを受け入れる者は、私を受け入れるのである」と言われます。「受け入れる」と訳されている言葉(デコマイ)は「歓迎する」とも訳せます(ルカ9:53「サマリア人はイエスを歓迎しなかった」参照)。ですから、ここでの「受け入れる」は「大きい者として受け入れる」ことです。小さい者を、イエス様の名のために、大きい者として受け入れる人は、イエス様を大きい者として受け入れているのです。また、小さい者を、イエス様のために、大きい者として受け入れる人は、イエス様を遣わされた神様を大きい者として受け入れるのです。このように聞いて、気が付くことは、弟子たちの議論とイエス様の議論がかみ合っていないということです。弟子たちは、誰が大きい者として受け入れられるだろうかを議論していました。しかし、イエス様は、神様を大きい者として受け入れるのはどのような人かを教えられるのです。弟子たちの議論に引き寄せて言えば、イエス様は、弟子たちのうち誰が一番神様を大きい御方として受け入れているかについて教えられるのです。イエス様は、結論として、こう言われます。「あなたがた皆の中でいちばん小さい者こそ偉い(大きい)のである」。このイエス様の御言葉は、言葉を補わないと意味が通じないと思います。前の文との繋がりから言葉を補うとこうなります。「あなたがたの皆の中でいちばん小さい者〔を私の名のために受け入れる者〕こそ偉い(大きい)のである」。小さい者をイエス様の名のために大きい者として受け入れる人こそ大きい者である。イエス様はこのようにして、「自分たちのうち誰が一番偉いか」という弟子たちの議論に答えられたのです。

 ヨハネは、イエス様の「私の名のために」という言葉を受けて、49節で次のように言います。「先生、あなたのお名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちと一緒に従って来ないので、やめさせました」。ここでの「私たち」とは、「イエス様と12人」のことです。12人は、多くの弟子たちの中からイエス様によって選ばれた者たちでした。イエス様は、イスラエルの12部族にちなんで、弟子たちの中から12人を選んで、使徒と名付けられました(ルカ6:12~16参照)。また、イエス様は、12人に、あらゆる悪霊を追い出し、病気を癒やす力と権能を授けられていました(ルカ9:1参照)。その12人の一人であるヨハネが、イエス様のお名前を使って悪霊を追い出している者を見たときに、「やめさせた」と言うのです。イエス様のお名前を使って悪霊を追い出していた人は、イエス様の弟子です。この人は、イエス様が悪霊を追い出す力を持っていると信じて、イエス様の御名を唱えたのです。そして、イエス様の御名によって悪霊を追い出していたのです。ここで皮肉なことは、イエス様からあらゆる悪霊を追い出す権能を与えられた12人が、ある父親の一人息子から悪霊を追い出すことができなかったことです(ルカ9:40「お弟子たちに、この霊を追い出してくださるように頼みましたが、できませんでした」参照)。しかし、イエス様から権威を与えられていない弟子が、イエス様の御名によって悪霊を追い出していたのです。ヨハネは、それを見てやめさせたのです。理由は、「私たちと一緒に従って来ない」からでした。ここにあるのは、12人の排他的な特権意識です。ヨハネは、イエス様から悪霊を追い出す権能を与えられたのは、自分たち12人であって、そうではない弟子たちの悪霊追い出しを認めないのです。そのようなヨハネに、イエス様はこう言われます。「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである」。ここで注意したいことは、イエス様がご自分と12人を分けていることです(ヨハネは「私たち」と言うが、イエス様は「あなたがた」と言われる)。イエス様は、「あなたがたと一緒に従って来なくても、わたし(イエス)の名によって、悪霊を追い出しているのであれば、よいではないか」と言われるのです。日本のキリスト教界には、多くの教派(同一宗教の中の分派)があります。ローマ・カトリック教会とプロテスタント教会と大きく二つに分けることができます。プロテスタント教会について言えば、それこそ多くの教派があります。私たちは、日本キリスト改革派教会という教派に属していますが、他の教派に属する教会も、イエス・キリストの御名によって福音を宣べ伝えて、人々から悪霊を追い出しているのです(「イエスは主である」と告白する人は、悪霊の支配下ではなく、聖霊の支配下にある)。そうであれば、私たちは、自分たちの教派に属する教会だけではなく、他教派の教会の福音宣教のためにも祈り、その実りを喜ぶべきであります。私たちの教会がある埼玉県の羽生市には、福音伝道教団に属する羽生キリスト教会があります。私たち羽生栄光教会の創立メンバーたちは、もともとは羽生キリスト教会の教会員でした。羽生市における福音宣教において、私たちの方が新参者であるのです。羽生キリスト教会は、1927年から伝道を開始し、98年の歴史を持っています。それに対して、私たち羽生栄光教会は1980年から伝道を開始し、45年の歴史を持っているのです。その新参者である私たちの福音宣教を羽生キリスト教会の人たちは、やめさせようとはしなかった。むしろ、私たちのために祈ってくださったのです。ここで思い起こしたいのは、『フィリピの信徒への手紙』に記されている使徒パウロの言葉です。新約の353ページです。第1章12節から18節までを読みます。

 きょうだいたち、私の身に起こったことが、かえって福音の前進につながったことを、知っていただきたい。つまり、私が投獄されているのはキリストのためであると、兵営全体と、その他のすべての人に知れ渡り、主にあるきょうだいたちのうち多くの者が、私が投獄されたのを見て確信を得、恐れることなくますます大胆に、御言葉を語るようになったのです。キリストを宣べ伝えるのに、妬みと争いの念に駆られてする者もいれば、善意でする者もいます。一方は、私が福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、利己心により、獄中の私をいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。だが、それが何であろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、私はそれを喜んでいます。これからも喜びます。

 ここで、パウロは、福音宣教の動機を問題にしていません。問題は、イエス・キリストの福音が正しく宣べ伝えられているかどうかです。パウロは、「キリストが正しく告げ知らされているのであれば、私はそれを喜ぶし、これからも喜ぶであろう」と言うのです(異端、間違った教えは論外)。キリスト教会の他教派の福音宣教について考えるときも、私たちはこのパウロの姿勢にならうべきであると思います。そして、このパウロの姿勢は、今朝の主イエスの御言葉、「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである」にまで遡ることができるのです。

 今朝の説教題を、「イエスの弟子の謙遜と寛容」としました。「謙遜」とは「へりくだること」ですが、イエスの弟子である私たちには、イエスの御名のために、小さい者を大きい者として受け入れるへりくだり=謙遜が求められています。また、「寛容」とは「おおらかなこと」ですが、イエスの弟子である私たちには、イエスの名によって福音を宣べ伝えている他教派の教会に対してのおおらかさ=寛容が求められているのです。

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