不信仰でゆがんだ世代 2025年8月10日(日曜 朝の礼拝)

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不信仰でゆがんだ世代

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 9章37節~45節

聖句のアイコン聖書の言葉

9:37 翌日、一同が山を下りると、大勢の群衆がイエスを出迎えた。
9:38 すると、群衆の中から一人の男が叫んだ。「先生、どうか息子を見てやってください。一人息子です。
9:39 御覧ください。霊が取りつくと、この子は突然叫び出します。霊がこの子に痙攣を起こさせて泡を吹かせ、さんざん打ちのめして、なかなか離れません。
9:40 お弟子たちに、この霊を追い出してくださるように頼みましたが、できませんでした。」
9:41 イエスはお答えになった。「なんと不信仰で、ゆがんだ時代なのか。いつまで私は、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの息子をここに連れて来なさい。」
9:42 その子が来る途中でも、悪霊は投げ倒し、痙攣を起こさせた。イエスは汚れた霊を叱り、子どもを癒やして父親にお返しになった。
9:43 人々は皆、神の偉大さに心を打たれた。
9:43 イエスがなさったすべてのことに、皆が驚いていると、イエスは弟子たちに言われた。
9:44 「この言葉を耳に収めておきなさい。人の子は人々の手に渡されようとしている。」
9:45 弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには隠されていて、理解することができなかったのである。彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった。ルカによる福音書 9章37節~45節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、山の上で、イエス様の顔の様子が変わり、衣は白く光輝いたお話しを学びました。光り輝くイエス様は、栄光に包まれたモーセとエリヤと、エルサレムで遂げようとしておられる最後について話し合っていました。その光景は、ペトロが幕屋を三つ建てて、留まりたいと願ったほどに、すばらしい光景でした。しかし、そこで、神様から示されたことは、「モーセでもエリヤでもなく、イエス様に聞き従え」ということでした。イエス様こそ、私たちが聞き従うべき神の御子であり、主の僕であるのです。今朝の御言葉は、その翌日の出来事であります。

 翌日、イエス様とその弟子のペトロとヨハネとヤコブが山を下りると、大勢の群衆がイエス様を出迎えました。すると、群衆の中から一人の男がこう叫びます。「先生、どうか息子を見てやってください。一人息子です。御覧ください。霊が取りつくと、この子は突然叫び出します。霊がこの子に痙攣を起こさせて泡を吹かせ、さんざん打ちのめして、なかなか離れません。お弟子たちに、この霊を追い出してくださるように頼みましたが、できませんでした」。ここで、私たちの注意を引くのは、弟子たちが悪霊を追い出すことができなかったことです。と言いますのも、弟子たち(12人)は、イエス様からあらゆる悪霊を追い出し、病気を癒やす力と権能を授けられていたからです(ルカ9:1参照)。しかし、このとき、12人、より正確に言えば、ペトロとヨハネとヤコブの3人を除く9人は、悪霊を追い出すことができなかったのです。それで、父親は、イエス様が山から下りて来られるのを待っていたわけです。弟子たちには無理でも、その先生であるイエス様なら、自分の息子から悪霊を追い出すことができると信じて、待っていたのです。そして、イエス様に、「先生、どうか息子を見てやってください」と願うのです。この父親の言葉を受けて、イエス様はこうお答えになります。「なんと不信仰で、ゆがんだ時代なのか。いつまで私は、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか」。ここでイエス様は、「もううんざりだ」と言わんばかりに、嘆いておられます。「なんと不信仰で、ゆがんだ時代なのか」。ここで「時代」と訳されている言葉(ゲネア)は、「世代」とも訳せます(申命32:5「よこしまでまがった世代」参照)。「なんと不信仰で、ゆがんだ世代なのか」。このように、イエス様は言われたのです。このイエス様の御言葉は、悪霊によって苦しめられている人々に対して、また、悪霊を追い出すことのできない弟子たちに対して語られたと理解することができます。このように、イエス様が嘆かれたのは、やはり前日の山の上の栄光の体験とのギャップ(へだたり)によるものであったと思います。山の上において、イエス様は父なる神との祈りの時を持ちました。それは顔の様子が変わり、衣が白く光輝くほどの親しい交わりであったのです。また、光り輝くイエス様は栄光に包まれたモーセとエリヤと、エルサレムで遂げる最後について話し合いました。それはさながら天上の会議のようでありました。そして、翌日、山から下りて、イエス様を待っていたのは、群衆であり、悪霊に苦しめられている親子であったのです。しかも、あらゆる悪霊を追い出し、病気を癒やす力と権能を与えられたはずの弟子たちが、悪霊を追い出せなかったと言うのです。その山の上と山の下でのギャップ(へだたり)が、イエス様に、「なんと不信仰で、ゆがんだ世代なのか」という嘆きの言葉を語らせたのです。

 また、群衆は、イエス様がいつまでも自分たちと共にいてくれるかのように考えていたと思います。しかし、イエス様は、エルサレムで遂げる最後(エクソドス、出発)へと心を向けているのです。それゆえ、イエス様は、「いつまで私は、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか」と言われるのです。私たちは、このイエス様の御言葉から、完全な信仰を持ち、心のまっすぐなイエス様にとって、不信仰で心のゆがんだ人々と共に歩むことが、耐えがたい重荷であったことを教えられます。完全な信仰を持ち、心のまっすぐなイエス様にとって、不信仰で心のゆがんだ人々と共に歩むことは、「いつまで我慢しなければならないのか」と嘆いてしまうほどの重荷であったのです。しかし、イエス様は、その不信仰でゆがんだ世代を、見捨てられたわけではありません。イエス様は、「あなたの息子をここに連れて来なさい」と言われるのです。そのようにして完全な信仰を持ち、心のまっすぐなイエス様が、不信仰で、心のゆがんだ人々と共に歩んでくださるのです。かつて、荒れ野において、主なる神が、よこしまで曲がった世代であるイスラエルの民と共に歩まれたように、イエス様は不信仰で歪んだ世代と共に歩んでくださるのです(出エジプト33章参照)。

 その子が来る途中でも、悪霊は投げ出し、痙攣を起こさせました。悪霊はできる限りの抵抗を試みるのです。しかし、イエス様は、汚れた霊をお叱りになり、子どもを癒やして父親にお返しになりました。人々は皆、神の偉大さに心を打たれました。人々は、イエス様の御業に、神様の偉大な働きを見て、心を打たれたのです。

 イエス様がなさったすべてのことに、皆が驚いていると、イエス様は弟子たちにこう言われます。「この言葉を耳に収めておきなさい。人の子は人々の手に渡されようとしている」。これは、二回目の受難予告であります。「人の子」とは、イエス様のことです。また、「人々」とは、イエス様の悪霊追放の御業を見て、神の偉大さに心を打たれた人々のことです。「人の子は、人々の手に渡されようとしている」。この御言葉は、イエス様の御業を見て、神の偉大さに心を打たれた人々が、イエス様を十字架の死に引き渡すことを教えています。最初の受難予告で、イエス様はこう言われていました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」(ルカ9:22)。イエス様を排斥し殺すのは、長老、祭司長、律法学者たち、最高法院の議員たちです。では、人々はイエス様の死に無関係であるかと言えば、そうではありません。ローマの総督ポンテオ・ピラトが、イエス様を釈放しようと呼びかけると、人々は「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けたのです(ルカ23:21、23参照)。指導者たちだけではなく、人々の手によっても、イエス様は十字架の死に引き渡されるのです。イエス様の力ある業を見て、神の偉大さに心を打たれた人々が、イエス様を「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けるようになる。そのようにして、不信仰でゆがんだ世代の姿が端的に示されることになるのです。

 イエス様は、弟子たちに、「この言葉を耳に収めておきなさい」と言われました。イエス様は、弟子たちに、「今は理解できないだろうが覚えておきなさい」と言われたのです。「人の子は人々の手に渡されようとしている」。この言葉の意味が分かるのは、弟子たちが、人々の叫び、「十字架につけろ、十字架につけろ」という叫びを自分の耳で聞いて、イエス様が十字架の上で死なれ、復活された後です。復活されたイエス様にお会いして、心の目を開いていただいて、弟子たちは、ようやくイエス様の御言葉の意味が分かるようになるのです。福音書記者ルカが一つの資料とした『マルコによる福音書』は、弟子たちの無理解を強調していますが、『ルカによる福音書』は、神様によって隠されていたので、弟子たちは理解できなかったと記しています。受難のメシア。約束のメシア、王が苦難の死を遂げるというイエス様の教えは、神の秘義(ミステーリオン、奧義、秘密)であったのです。当時、約束のメシアと『イザヤ書』の第53章の「苦難の僕」を結びつける人はほとんどいませんでした。弟子たちも同じです。弟子たちは、怖くてその言葉について尋ねられませんでした。弟子たちは、不吉なことは聞きたくなかったのです。弟子たちは、自分たちが思い描く、栄光のメシア像から離れようとはしないのです。それゆえ、弟子たちは、次回学ぶことになる、46節以下で、「自分たちのうち誰がいちばん偉いか」と議論するのです。

 41節の「なんと不信仰で、ゆがんだ時代なのか。いつまで私は、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか」というイエス様の御言葉は、私たちに、『イザヤ書』の第46章の御言葉を思い起こさせます。旧約の1122ページです。第46章1節から4節までを読みます。

 ベルは身をかがめ、ネボは身を伏せる。彼らの偶像は獣と家畜に背負われる。あなたがたの運ぶものは荷物となり/疲れた動物の重荷となる。彼らは共に身を伏せ、身をかがめ/重荷を解くこともできない。彼ら自身が捕らわれの身となって行く。聞け、ヤコブよ/またイスラエルの家のすべての残りの者よ/母の胎を出た時から私に担われている者たちよ/腹を出た時から私に運ばれている者たちよ。あなたがたが年老いるまで、私は神。あなたがたが白髪になるまで、私は背負う。私が造った。私が担おう。私が背負って、救い出そう。

 ここには、動物によって担われるバビロンの偶像と、イスラエルの民を担う神様の姿が対照的に描かれています。神様は、「私が造った。私が担おう。私が背負って、救い出そう」と言われます。そのように言われた神様が、御子イエス・キリストを遣わしてくださったのです。「私が造った。私が担おう。私が背負って、救い出そう」。この御言葉を実現するために、神の御子であり、罪のない人であるイエス・キリストは、人々の手に引き渡されるのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の122ページです。

 「なんと不信仰で、ゆがんだ時代なのか。いつまで私は、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか」と嘆かれたイエス・キリストは、ご自分の民の不信仰とゆがんだ心の源にある罪を担って、十字架の死を死んでくださり、栄光の体で復活し、天に上げられました。イエス・キリストは、今、御言葉と聖霊において、ご自分の民である私たちと共にいてくださいます。私たちは、イエス・キリストによって、罪の奴隷状態から救われた者たちであります。私たちは、イエス・キリストによって聖霊を与えられ、「イエスは主である」と告白し、「天の父なる神様」と祈る者たちとされているのです(一コリント6:11「主イエス・キリストの名と私たちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされたのです」参照)。ですから、イエス様が、私たちに対して、「なんと不信仰で、ゆがんだ世代なのか」と嘆かれることはありません。もし、嘆かれるとすれば、それは、私たちが祈りを忘れてしまったとき、イエス・キリストへの信仰を失ってしまった時であるのです。『ルカによる福音書』は、なぜ、弟子たちが悪霊を追い出すことができなかったかについて記していません。しかし、『マルコによる福音書』の並行箇所にはこう記されています。「この種のものは、祈りによらなければ追い出すことはできないのだ」(マルコ9:29)。また、『マタイによる福音書』の並行箇所にはこう記されています。「信仰が薄いからだ。よく言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と言えば、移るだろう。あなたがたにできないことは何もない」(マタイ17:20)。なぜ、弟子たちは、悪霊を追い出すことができなかったのか。それは弟子たちが祈りを忘れており、弟子たちの信仰が薄かったからです。そのようなとき、私たちは、イエス・キリストの十字架の血潮によって、信仰を与えられ、心のまっすぐな者とされておりながら、信仰のない、心のゆがんだ世代となってしまうのです。そのとき、私たちは、「いつまで私は、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか」というイエス様の嘆きを、自分たちに対する嘆きとして聞かなければならないのです。しかし、そこで思い起こしたいことは、このように嘆かれたイエス様が、「人の子は人々の手に渡されようとしている」と苦難の死を予告されたことです。祈りを忘れる、信仰の薄い私たちのために、イエス様は、十字架の苦難の死を死んでくださったのです。この主のもとに、私たちは今朝も立ち帰りたいと願います。

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