イエスに聞き従え 2025年8月03日(日曜 朝の礼拝)

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イエスに聞き従え

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 9章28節~36節

聖句のアイコン聖書の言葉

9:28 この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために山に登られた。
9:29 祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、衣は白く光り輝いた。
9:30 見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。
9:31 二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後のことについて話していた。
9:32 ペトロと仲間は、眠りこけていたが、目を覚ますと、イエスの栄光と、一緒に立っている二人の人が見えた。
9:33 この二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、私たちがここにいるのは、すばらしいことです。幕屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのために。」ペトロは、自分でも何を言っているか、分からなかったのである。
9:34 ペトロがこう言っていると、雲が現れ、彼らを覆った。彼らが雲に包まれたので、弟子たちは恐れた。
9:35 すると、雲の中から、「これは私の子、私の選んだ者。これに聞け」と言う声がした。
9:36 この声がしたとき、イエスだけがそこにおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時、誰にも話さなかった。ルカによる福音書 9章28節~36節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『ルカによる福音書』の第9章28節から36節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 28節に、「この話をしてから八日ほどたったとき」とあります。「この話」とは、直前に記されている、イエス様がどのようなメシアであるかを弟子たちに教えられたお話しであります。メシアとはヘブライ語で「油を注がれた者」という意味です。メシアのギリシャ語訳は「キリスト」です。メシア、キリストは、油を注がれた王様、救い主を意味しています。イエス様は、「あなたは神のメシアです」と告白した弟子たちに、22節でこう言われました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」。このように、イエス様は、弟子たちに、御自分がどのようなメシアであるかを教えられるのです。イエス様は、必ず多くの苦しみを受け、最高法院の議員たちから排斥されて殺され、三日目に復活するメシアであるのです。それが、メシアであるイエス様に対する神様のご計画であるのです。また、イエス様は、26節でこう言われました。「私と私の言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じるであろう」。ここでイエス様は全世界を裁くために、天から再び来られる再臨について語っておられます。イエス様は、多くの苦しみを受け、最高法院の議員たちから裁かれて殺され、神様によって三日目に復活させられます。そして、天に昇って栄光をお受けになり、栄光の人の子として、天から再び来られるのです。そのような話をしてから八日ほどたったとき、イエス様は、ペトロとヨハネとヤコブを連れて、祈るために山に登られました。ペトロとヨハネとヤコブの三人は、これから山の上で起こることの証人、証し人であるのです。と言うのも、聖書には、二人または三人の一致した証言は真実であると記されているからです(申命19:15参照)。祈っているうちに、イエス様の顔の様子が変わり、衣は白く光輝きました。見ると、二人の人がイエス様と語り合っていました。その二人の人とはモーセとエリヤでした。二人は栄光に包まれて現れ、イエス様がエルサレムで遂げようとしておられる最後のことについて話していたのです。「モーセ」は律法を代表する人物です。また、「エリヤ」は「預言者」を代表する人物です。当時、聖書(旧約聖書)のことを「律法と預言者」と呼びました。ですから、モーセとエリヤが現れて、イエス様がエルサレムで遂げようとしている最後のことについて話していたことは、そのことが「律法と預言者」(聖書)に記されていることを教えています。前回(先々週)、私は説教の中で、イエス様の御言葉、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活になっている」という神のご計画が旧約聖書に記されていると申しました。そのことを今朝の御言葉は教えているのです。栄光の姿に変わったイエス様が、栄光に包まれたモーセとエリヤと、御自分がエルサレムで遂げる最後について話している。この光景は、イエス様がエルサレムで遂げる最後が律法と預言者(聖書)に記されている神のご計画であることを教えているのです。

 31節に、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後について話していた」とあります。ここで「最後」と訳されている言葉(エクソドス)は「出て行くこと」「出発」とも訳せます。ヘブライ語旧約聖書のギリシャ語訳では、『出エジプト記』の表題が「エクソドス」と付けられています。イエス様の最後は、罪の奴隷状態から御自分の民を天の国へと導き出す、出発でもあるのです。なぜなら、イエス様がエルサレムで成し遂げる最後は、死んで葬られて、復活させられ、天に上げられるまでに至るからです。イエス様は、私たちのメシア、王として、十字架の死と復活によって、悪魔に勝利し、私たちを罪と死の支配から贖い出してくださいました。そして、イエス様は私たちのメシア、王として、天に昇り、父なる神の右の座にお着きになったのです。それは、イエス・キリストの民である私たちの初穂であるのです。つまり、イエス・キリストの民である私たちも栄光の体で復活させられ、新しい天と新しい地を王として治めることになるのです。

 32節を見ると、「ペトロとその仲間は、眠りこけていた」とあります。ですから、ペトロたちはイエス様とモーセとエリヤの話し合いを聞いていなかったようです。ペトロたちが目を覚ますと、イエスの栄光と、一緒に立っている二人の人が見えました。この二人がイエス様から離れようとしたとき、ペトロはイエス様にこう言います。「先生、私たちがここにいるのは、すばらしいことです。幕屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのために」。ペトロは、「このすばらしい体験に少しでも長くあずかりたい」と願って、幕屋を三つ建てることを申し出ます。このペトロの発言について、福音書は地の文で、「ペトロは、自分が何を言っているのか、分からなかったのである」と解説しています。つまり、ペトロの発言は、見当違い、とんちんかんであったのです。かつてイエス様は、ペトロをはじめとする弟子たちに、こう言われていました。23節から26節まで読みます。「私に付いて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を負って、私に従いなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、私のために命を失う者はそれを救うのである。人が全世界を手に入れても、自分自身を失い、損なうなら、何の得があろうか。私と私の言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じるであろう」。ここでイエス様は、弟子たちに御自分に倣うことを求められました。イエス様が、自分を捨て、日々、自分の十字架を負って、父なる神に従われたように、弟子たちにも、自分を捨て、日々、自分の十字架を負って、私に従いなさいと言われたのです。イエス様は、栄光に至るには、苦難を経なくてはならないことを、弟子たちに教えられたのです(使徒14:22参照)。

しかし、ペトロは、苦難を経ることなく、目の前にある栄光に留まろうとするのです。また、ペトロは、イエス様とモーセとエリヤの三人を同等に扱いました。「幕屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのために」とイエス様とモーセとエリヤを同等にに扱うのです。このことも見当違い、とんちんかんなことであったのです。

 ペトロがこう言っていると、雲が現れ、彼らを覆いました。「雲」は神様の臨在を現しています(出エジプト40:34「会見の幕屋を雲が覆い、主の栄光が幕屋に満ちた」参照)。また、雲が覆った「彼ら」とは、イエス様とモーセとエリヤの三人のことです。イエス様とモーセとエリヤの三人が雲に包まれて見えなくなったので、弟子たちは恐れました。すると、雲の中から、「これは私の子、私の選んだ者。これに聞け」と言う声がしたのです。そして、この声がしたとき、イエス様だけがそこにおられたのです。モーセではなく、エリヤでもなく、イエス様こそ、神の子であり、神が選んだ者であるのです。また、弟子たちが聞くべき御方であるのです。神様は雲の中からペトロたちに、「これは私の子、私の選んだ者」と言われました。ここには、イエス様が天から聖霊を注がれて、メシアとして任職した際の天からの声がこだましています。第3章21節と22節を読みます。新約の105ページです。

 さて、民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のような姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」と言う声が天から聞こえた。

 この天からの声の背景には、三つの旧約聖書の御言葉があります。開きませんが、それは『詩編』の第2編と、『創世記』の第22章と、『イザヤ書』の第42章です。『詩編』の第2編は、メシア、王の即位の詩編です。そこには、「あなたは私の子。私は今日、あなたを生んだ」という王の即位の言葉が記されています。また、『創世記』の第22章には、「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい」というアブラハムに対する神の御言葉が記されています。また、『イザヤ書』の第42章は、主の僕の召命の歌であり、そこには「見よ、私が支える僕/私の心が喜びとする、私の選んだ者を」と記されています。このような旧約聖書の御言葉を背景にして、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という天からの声を聞くとき、イエス様が神の独り子であり、メシアであり、主の僕であることが分かるのです。この天からの声は、「あなたは」と言われているように、イエス様に対して言われた言葉です。イエス様は、この天からの声によって、御自分がどのようなメシアであるかを理解された(あるいは確認された)のです。その天からの声が、今朝の御言葉では、ペトロとヨハネとヤコブの三人に対して語られるのです。「これは私の子、私の選んだ者。これに聞け」と「これは」と指示代名詞で言われるのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の121ページです。

 35節の「これは私の子、私の選んだ者」の背景にも、『詩編』の第2編と『イザヤ書』の第42章の御言葉があります。イエス様は神のメシアであり、主の僕であるのです。ここでは、ペトロの信仰告白とイエス様のご自分がどのようなメシアであるかが天からの声によって確証されていると読むことができます。イエス様は、ペトロが告白したとおり、神のメシアであります。そして、イエス様が教えられたように、主の僕でもあるのです。そのイエス様に聞き従うことがペトロたちに、また私たちに命じられているのです。「これに聞け」。この御言葉の背景にも『申命記』の第18章15節の御言葉があります。「あなたの神、主は、あなたの中から、あなたの同胞の中から、私のような預言者をあなたのために立てられる。あなたがたは彼に聞き従わなければならない」。『申命記』はモーセの説教ですから、「私のような預言者」とは「モーセのような預言者」ということです。神の民であるイスラエルが聞き従わねばならない、モーセのような預言者こそ、イエス様であるのです。イエス様こそ、モーセにまさって私たちが聞き従わなければならない預言者、神の御子であるのです。神様は、モーセでもなく、エリヤでもなく、神の御子であり、主の僕であるイエスに聞き従えと言われるのです。

 神様が「これは私の子、私の選んだ者。これに聞け」と言われるとき、それは、モーセとエリヤに代表される旧約聖書に聞かなくてもよい、イエス様に代表される新約聖書だけに聞けばよいということではありません(これをやったのがマルキオン)。モーセとエリヤに代表される旧約聖書も私たちが聞き従うべき神の言葉であります。そのことは、イエス様が教えられたことでもあります。イエス様は、『マタイによる福音書』の第5章17節と18節でこう言われました。「私が来たのは、律法と預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。よく言っておく。天地が消え失せ、すべてが実現するまでは、律法から一点一画も消えうせることはない」。では、「これに聞け」とはどのような意味なのでしょうか。それは、モーセとエリヤに代表される旧約聖書をイエス・キリストを証しする書物として読みなさいということです(ヨハネ5:46「もし、あなたがたがモーセを信じているなら、私を信じたはずだ。モーセは、私について書いたからである」参照)。神様の御意志の最終的に、また究極的にイエス・キリストにおいて示されました(ヨハネ1章、ヘブライ1章参照)。それゆえ、私たちは、イエス・キリストの啓示の光の中で、旧約聖書を読むべきであるのです。このことをしてくれているのが新約聖書であり、特に、『ローマの信徒への手紙』(信仰義認)や『ヘブライ人への手紙』(新しい契約の締結者である大祭司イエス)であるのです。

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