イエスはどのようなメシアか 2025年7月20日(日曜 朝の礼拝)

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イエスはどのようなメシアか

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 9章21節~27節

聖句のアイコン聖書の言葉

9:21 イエスは弟子たちを戒め、このことを誰にも話さないように命じ、
9:22 そして、言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」
9:23 それから、イエスは皆に言われた。「私に付いて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を負って、私に従いなさい。
9:24 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、私のために命を失う者はそれを救うのである。
9:25 人が全世界を手に入れても、自分自身を失い、損なうなら、何の得があるだろうか。
9:26 私と私の言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じるであろう。
9:27 確かに言っておく。ここに立っている人々の中には、神の国を見るまでは、決して死なない者がいる。」ルカによる福音書 9章21節~27節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、ペトロが弟子たちを代表して、イエス様に対して、「神のメシアです」と告白したことを学びました。イエス様こそ、ダビデ契約を実現するメシア、王であるのです。このペトロの信仰告白は、イエス様の弟子教育の賜物であり、イエス様の祈りによるものでありました。ペトロは、イエス様が何者であるかを正しく言い表したのです。しかし、イエス様は、弟子たちを戒め、このことを誰にも話さないようにお命じになりました。それは、イエス様が弟子たちの思い描いているようなメシア、王ではなかったからです。弟子たちが期待していたメシア、王とは、ダビデのようなメシア、王でありました。軍事力によって、イスラエルをローマ帝国の支配から解放するメシア、王を、弟子たちも人々も待ち望んでいたのです。紀元1世紀のイスラエルは、異邦人であるローマ帝国の支配のもとにありました。イスラエルの民は自分たちの王を持つことができず、ローマ皇帝を王としなければならなかったのです。そのような屈辱の中にあって、イスラエルの人々は、自分たちをローマ帝国の支配から解放し、神の国を打ち立てるメシア、王を待ち望んでいたのです。けれども、イエス様は、そのようなメシア、王ではないのです。ですから、イエス様は、ご自分が神のメシアであることを誰にも話さないように、弟子たちにお命じになったのです。そして、イエス様はご自分がどのようなメシアであるのかを弟子たちに教えられるのです。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」。「人の子」とは、イエス様がご自分を指して言うときの決まった言い回しです(ルカ5:24、6:5参照)。ですから、「私は」と読み替えてよいと思います。イエス様は、「私は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっているメシアである」と言われたのです。ここで、「必ず何々することになっている」と訳されている言葉(デイ)は、神のご計画、神の必然を表します。イエス様は、「多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することが、私に対する神のご計画である」と言われたのです。では、イエス様は、そのような神のご計画をどのようにして知ったのでしょうか。それは、神の言葉である聖書(旧約聖書)によってであります(マルコ9:2「人の子について、どのように書いてあるか。多くの苦しみを受け、蔑まれるとある」参照)。イエス様は、『ヨハネによる福音書』の第5章で、「聖書は私について証しをするものだ」と言われました(ヨハネ5:39)。また、『ルカによる福音書』の第24章で、復活されたイエス様は、エマオに向かう弟子たちにこう言われます。「ああ、愚かで心が鈍く、預言者たちの語ったことすべてを信じられない者たち、メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか」。そして、イエス様は、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書いてあることを解き明かされるのです。このように、イエス様は聖書を御自分と結びつけて、御自分のことを証しする書物として読まれたのです。では、人の子が必ず多くの苦しみを受けることは、どこに書いてあるのでしょうか。それは『イザヤ書』の第53章であります。旧約の1134ページです。第52章13節から第53章12節までをお読みします。

 見よ、わが僕は栄える。彼は高められ、上げられ、はるかに高くなる。多くの人が彼のことで驚いたように/その姿は損なわれ、人のようではなく/姿形は人の子らとは違っていた。そうして、彼は多くの国民を驚かせる。王たちは彼について口を閉ざす。彼らは、自分たちに告げられていなかったことを見/聞いていなかったことを悟るからだ。私たちが聞いたことを、誰が信じただろうか。主の腕は、誰に示されただろうか。この人は主の前で若枝のように/乾いた地から出た根のように育った。彼には見るべき麗しさも輝きもなく/望ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/痛みの人で、病を知っていた。人々から顔を背けられるほど軽蔑され/私たちも彼を尊ばなかった。彼が担ったのは私たちの病/彼が負ったのは私たちの痛みであった。しかし、私たちは思っていた。彼は病に冒され、神に打たれて/苦しめられたのだと。彼は私たちの背きのために刺し貫かれ/私たちの過ちのために打ち砕かれた。彼が受けた懲らしめによって/私たちに平安が与えられ/彼が受けた打ち傷によって私たちは癒やされた。私たちは皆、羊の群れのようにさまよい/それぞれ自らの道に向かって行った。その私たちすべての過ちを/主は彼に負わせられた。彼は虐げられ、苦しめられたが/口を開かなかった。屠り場に引かれて行く小羊のように/毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように/口を開かなかった。不法な裁きにより、彼は取り去られた。彼の時代の誰が思ったであろうか。私の民の背きのために彼が打たれ/生ける者の地から絶たれたのだと。彼は暴虐をなさず/口には偽りがなかったのに/その墓は悪人どもと共にされ/富める者と共に葬られた。主は彼を打ち砕くことを望まれ、病にかからせた。彼が自分の命を償いのいけにえとするなら/その子孫を見、長寿を得る。主の望みは彼の手によって成し遂げられる。彼は自分の魂の苦しみの後、光を見/それを知って満足する。私の正しき僕は多くの人を義とし/彼らの過ちを自ら背負う。それゆえ、私は多くの人を彼に分け与え/彼は強い者たちを戦利品として分け与える。彼が自分の命を死に至るまで注ぎ出し/背く者の一人に数えられたからだ。多くの人の罪を担い/背く者のために執り成しをしたのは/この人であった。

 ここには、多くの人の罪を担って苦難の死を遂げる主の僕の姿が記されています。さらには、主の望みを成し遂げて、死者の中から復活し、はるかに高められる主の僕の姿が記されています。小見出しに、「主の僕の苦難と栄光」とあるように、イザヤ書の第53章は、主の僕の苦難と死だけではなく、主の僕の復活と栄光をも記しているのです(11節の「光を」はギリシア語訳による補足である。新共同訳は「彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する」と訳す)。イエス様は、この主の僕とご自分を結びつけて、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」と言われたのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の121ページです。

 「長老、祭司長、律法学者たち」とは、ユダヤの最高法院(サンヘドリン)の議員たちのことです。イエス様は、ユダヤの最高法院において裁きを受け、メシア失格者(偽メシア)として退けられるのです。ここで「排斥される」と訳される言葉(アポドキマゾーは、「試験の上で退ける」という意味です。イエス様は最高法院において試験を受けたうえで、偽メシアとして退けられるのです。それは、イエス様が最高法院の議員たちが思い描いていたメシア、王ではなかったからです。このようにして、最高法院の議員たちは、知らずして、『イザヤ書』の預言を実現することになるのです。

 それからイエス様は皆にこう言われます。23節から26節までをお読みします。「私に付いて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を負って、私に従いなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、私のために命を失う者はそれを救うのである。人が全世界を手に入れても、自分自身を失い、損なうなら、何の得があるだろうか。私と私の言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じるであろう。」

 イエス様は、多くの苦しみを受け、最高法院の議員たちによって排斥されて殺され、三日目に復活するメシアとして、弟子たちにも相応しい服従を求められます。「私に付いて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を負って、私に従いなさい」とイエス様は言われます。ここで注意したいことは、このように言われたイエス様ご自身が自分を捨て、日々、自分の十字架を負って神様に従われたということです。イエス様は、自分を捨て、日々、自分の十字架を負って、神様に従われました。イエス様は自分の意志よりも神様の意志を重んじて、日々、神様に従われたのです(ルカ22:42「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください」参照)。そのイエス様に倣う弟子として、私たちも、自分の意志よりもイエス様の意志を重んじて、日々、自分に与えられている苦しみや困難を十字架として負い、イエス様に従うことが求められているのです。私たちにはそれぞれ、「これさえなければ」と思う苦しみや困難があると思います。その苦しみや困難を、神様から与えられた自分の十字架として、日々、負うことが求められているのです。いや、私たちはそれぞれの苦しみや困難を、神様から与えられた十字架として、日々、負うことができる者とされているのです。それは、イエス様が、私たちのために、日々、十字架を負って歩んでくださったからです。人は生まれれば必ず苦しみを受けます(新共同訳、ヨブ5:7参照)。イエス・キリストを信じても苦しみはあるのです。しかし、イエス・キリストを信じる者は、その苦しみを、イエス様の御手から与えられた、自分の十字架として負うことができるのです。人生の苦しみや困難を、祈りの中で、イエス様から与えられた自分の十字架として受け止めて、日々、負うことができるのです。それは何度も申しますように、イエス様が私たちのための苦しみを、日々、自分の十字架として負ってくださったからであるのです。

 続けてイエス様はこう言われます。「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、私のために命を失う者はそれを救うのである。人が全世界を手に入れても、自分自身を損なうなら、何の得があろうか」。自分の命を救おうと思って、イエス様とその言葉を恥じる者は地上の命を保つかも知れませんが、永遠の命を失ってしまいます。しかし、地上の命を失うことがあろうとも、イエス様とその言葉を恥じない者は、永遠の命を保つことができるのです。私たちが何より確保しなくてはならないのは、イエス・キリストにある永遠の命、イエス・キリストにある父なる神との親しい交わりであるのです。このように、イエス様が断言できるのは、イエス様が神様によって復活させられる御方であるからです。私たちは、「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、私のために命を失う者はそれを救うのである」という御言葉を、復活して、今も生きておられるイエス・キリストの御言葉として聞くべきであるのです。そのとき、私たちは、この御言葉が真実であることが分かるのです。

 続けてイエス様はこう言われます。「私と私の言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちと栄光に輝いて来るときに、その者を恥じるであろう」。このイエス様の御言葉の背景には、旧約の『ダニエル書』の第7章の御言葉があります。旧約の1373ページです。第7章13節と14節をお読みします。

 私は夜の幻を見ていた。見よ、人の子のような者が/天の雲に乗って来て/日の老いたる者のところに着き/その前に導かれた。この方に支配権、栄誉、王権が与えられ/諸民族、諸国民、諸言語の者たちすべては/この方に仕える。その支配は永遠の支配で、過ぎ去ることがなく/その統治は滅びることがない。

 ここには、神様から支配権、栄誉、王権を与えられた人の子の幻が記されています。イエス様は、この幻を背景にして、御自分が「父と聖なる天使たちと栄光に輝いて来る」ことお語りになったのです。イエス様は、『ダニエル書』の第7章の預言を背景にして、御自分の昇天と着座と再臨についてお語りになったのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の121ページです。

 イエス様は、27節でこう言われます。「確かに言っておく。ここに立っている人々の中には、神の国を見るまでは、決して死なない者がいる」。ここでの「神の国」は、イエス・キリストが聖霊と御言葉によって治める教会のことであります。『ルカによる福音書』の続編である『使徒言行録』の第2章には、五旬祭の日に約束の聖霊が弟子たちに注がれたこと。ペトロの説教によって、およそ3千人が、「イエスは主、またメシアである」と告白して、洗礼を受け、教会の仲間に加わったことが記されています。そのことを念頭に置いて、福音書記者ルカは、「神の国を見るまでは、決して死なない者がいる」というイエス様の御言葉を記しているのです(マルコ9:1「よく言っておく。ここに立っている人々の中には、神の国が力に溢れて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる」をルカは聖霊降臨による教会の誕生に結び付ける。ちなみに、マタイはイエス・キリストの再臨と結び付ける)。ですから、私たちは神の国を今すでに見ているのです。主イエス・キリストが聖霊と御言葉によって治めておられる教会の交わりに、私たちは神の国(神の王国、神の王的支配)を今すでに見ているのです。神の国は、主イエス・キリストにあってなされる神の命と恵みの支配であります(創立50周年「伝道の宣言」参照)。私たちは、教会の交わりに、イエス・キリストによる永遠の命と罪の赦しが実現していることを見ているのです。先程は、Kさんの成人洗礼式を執り行うことができました。私たちは、成人洗礼式を通して、神の国をあざやかに見ることができたのです。

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