イエスとは何者か 2025年7月13日(日曜 朝の礼拝)
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イエスとは何者か
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- 村田寿和 牧師
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ルカによる福音書 9章18節~20節
聖書の言葉
9:18 イエスが独りで祈っておられたとき、弟子たちが御もとに集まって来た。そこでイエスは、「群衆は、私のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
9:19 弟子たちは答えた。「洗礼者ヨハネだと言う人、エリヤだと言う人、ほかに、昔の預言者の一人が生き返ったと言う人もいます。」
9:20 イエスは言われた。「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神のメシアです。」ルカによる福音書 9章18節~20節
メッセージ
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今朝は、『ルカによる福音書』の第9章18節から20節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
18節に、「イエスが独りで祈っておられたとき、弟子たちが御もとに集まって来た」とあります。『ルカによる福音書』はこれまでも、祈るイエス様のお姿を記してきました。第3章21節と22節にこう記されていました。新約の105ページです。
さて、民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のような姿でイエスの上に降って来た。すると、あなたは私の愛する子、私の心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
このように祈っておられるイエス様に、天から聖霊が注がれて、メシアとして任職されたのです。
また、第5章14節から16節にこう記されていました。新約の109ページです。
イエスは彼に厳しくお命じになった。「誰にも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」しかし、イエスの評判はますます広まり、大勢の群衆が、教えを聞いたり、病気を治してもらうために集まって来た。だが、イエスは寂しい所に退いて祈っておられた。
イエス様の評判はますます広まり、大勢の群衆がイエス様の周りに集まってきました。けれども、イエス様は、父なる神との語らいである祈りによって、御自分が何のために遣わされたのかを再確認されたのです。
また、第6章12節と13節にこう記されていました。新約の111ページです。
その頃、イエスは祈るために山に行き、夜を徹して神に祈られた。朝になると弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。
イエス様は、弟子たちの中から12人を選ぶために、山に行き、夜を徹して祈られました。夜を徹して神に祈られたほどに、12人を選ぶことはイエス様にとって大切なことであったのです。
このように、福音書記者ルカは、大切なところで、祈るイエス様の姿を記してきました。同じことが、今朝の御言葉においても言えます。イエス様は、弟子たちに、「あなたがたは私を何者だと言うのか」と尋ねるのに先立って、独りで祈っておられたのです。弟子たちが、イエス様について正しく言い表すことができるように、イエス様は弟子たちのために祈っておられたのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の120ページです。
イエス様は、御もとに集まって来た弟子たちに、「群衆は私のことを何者だと言っているか」とお尋ねになりました。弟子たちはこう答えました。「洗礼者ヨハネだと言う人、エリヤだと言う人、ほかに、昔の預言者の一人が生き返ったと言う人もいます」。ここでの弟子たちの答えは、ガリラヤの領主ヘロデが耳にした噂とほぼ同じです(9:7、8参照)。洗礼者ヨハネは、イエス様に先立って働き、主の道筋をまっすぐにした人です。洗礼者ヨハネは、来たるべき方、メシアを人々が受け入れるように、悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。群衆はイエス様のことを、その洗礼者ヨハネだと言っていたのです。
また、「エリヤ」とは、紀元前9世紀に北王国イスラエルで活躍した預言者です。エリヤについては、『列王記上』の第17章から『列王記下』の第2章に渡って記されています。エリヤの有名なお話しに、バアルの預言者450人と対決したお話しがあります。アハブ王とその妃(きさき)イゼベルによって、北王国イスラエルは、偽りの神バアルを礼拝するようになってしまいました。しかし、主は預言者エリヤを立てて、ご自分こそが、生けるまことの神であることを示されたのです(列王上18:39「これを見た民は皆その前にひれ伏し、『主こそ神です。主こそ神です』と言った」参照)。エリヤは、死を経験せず、生きたまま、天に上ったことでも有名です。『列王記下』の第2章11節にこう記されています。「彼ら(エリヤとエリシャ)が話しながら歩き続けていると、火の戦車と火の馬が二人の間を隔て、エリヤはつむじ風の中を天に上って行った」。このようにエリヤは死を経験せず、天に上って行ったのです(創世5:24「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」参照)。旧約聖書の最後の書物である『マラキ書』に、主の日に先立って、預言者エリヤが遣わされると記されています。旧約の1478ページです。第3章19節から24節までをお読みします。
その日が来る/かまどのように燃える日が。傲慢な者、悪を行う者は/すべてわらになる。到来するその日は彼らを焼き尽くし/根も枝も残さないーー万軍の主は言われる。しかし、わが名を畏れるあなたがたには/義の太陽が昇る。その翼には癒やしがある。あなたがたは牛舎の子牛のように/躍り出て跳ね回る。私がことを行うその日に/あなたがたは悪しき者たちを踏みつける。彼らはあなたがたの足の裏で灰になるーー万軍の主は言われる。わが僕モーセの律法を思い起こせ。それは、私がホレブで全イスラエルのために/彼に命じておいた掟と法である。大いなる恐るべき主の日が来る前に/私は預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は父の心を子らに/子らの心を父に向けさせる。私が来て、この地を打ち/滅ぼし尽くすことがないように。
23節に、「大いなる恐るべき主の日が来る前に/私は預言者エリヤをあなたがたに遣わす」と記されています。この御言葉に基づいて、人々は預言者エリヤが遣わされることを待ち望んでいたのです。そして、人々は、イエス様こそ、預言者エリヤであると言っていたのです。しかし、イエス様ではなく、洗礼者ヨハネこそが、エリヤでありました。『ルカによる福音書』の第1章に、天使ガブリエルが、祭司ザカリアに、洗礼者ヨハネの誕生を予告した場面が記されています。そこで、天使ガブリエルは、生まれてくる男の子についてこう言いました。「彼は、エリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の思いを抱かせ、整えられた民を主のために備える」(ルカ1:17)。また、第7章で、イエス様も、洗礼者ヨハネが『マラキ書』が預言していた、先立って遣わされる使者であると言われています(マラキ3:1参照)。第7章26節と27節で、イエス様はこう言われました。「では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ、言っておく。預言者以上の者である。『見よ、私はあなたより先に使者を遣わす。彼はあなたの前に道を整える』と書いてあるのは、この人のことだ」。このように、洗礼者ヨハネこそ、『マラキ書』が預言していた、先立って遣わされる使者、エリヤであったのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の120ページです。
群衆の中には、イエス様のことを、「洗礼者ヨハネだと言う人、エリヤだと言う人、ほかに、昔の預言者の一人が生き返ったと言う人」がいました。これらはいずれも、来たるべきお方、約束のメシアに先立って遣わされる者たちであります。つまり、群衆は、イエス様のことをメシアとは言わずに、メシアに先立って遣わされる預言者であると言っていたのです。
イエス様は弟子たちにこう言われます。「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか」。「群衆が私のことを預言者だと言っていることは分かった。では、私の弟子であるあなたがたは、私を何者だと言うのか」とイエス様はお尋ねになるのです。以前、弟子たちは、突風を静めるイエス様に恐れ驚いて、「一体、この方はどなたなのだろう。命じれば風も水も従うではないか」と互いに言っていました(ルカ8:25)。しかし、イエス様の5千人養いの奇跡を体験した弟子たちは、イエス様に対して、こう答えます。「神のメシアです」。ペトロは弟子たちを代表して、イエス様こそ神のメシアであると言い表したのです。これまでイエス様は、弟子たちを従えて神の国の福音を宣べ伝え、人々から悪霊を追い出し、病人を癒やしてこられました。また、風と荒波を静め、死人を生き返らせ、5つのパンと2匹の魚で5千人を満腹させました。そのような弟子教育は、「神のメシアです」という信仰告白を導き出すためのものであったのです。「神のメシアです」。これはペトロを代表する弟子たちの信仰告白です。「イエスは神のメシアである」。このことは、私たち人間一人一人が自分の信仰告白として言い表すべきものであるのです。イエス様は、弟子たちに「私は神のメシアである」と名乗りを上げられたのではなく、弟子たちが自分で考えて、自分の口で「神のメシアです」と言い表すことを待っていたのです。そのためにイエス様は、独りで祈っておられたのです。イエス様は、弟子たちが、自分のことを「神のメシアです」と正しく言い表すことができるように祈られたのです。前回の説教を踏まえて言えば、イエス様は、弟子たちがパンの出来事を理解できるように祈られたのです。「神のメシアです」というペトロの信仰告白は、イエス様の弟子教育の賜物であり、イエス様の祈りによるものであったのです(ルカ10:22、マタイ16:17参照)。
ペトロは弟子たちを代表して、「神のメシアです」と言いました。「神のメシア」とは「神のキリスト」(トン クリストン トゥ セウー)であり、「神によって油を注がれた王、救い主」を意味します。イスラエルに王制が導入されたのは紀元前10世紀頃でした。その経緯(いきさつ)については、『サムエル記上』の第8章に記されています。そこには、イスラエルの民が、他の国々と同じように、王を立てることを求めたことが記されています。そのことは、主なる神の目には、自分がイスラエルの王となることを退けているように映りました。イスラエルの王は主なる神であるのに、人間の王を立てることを人々が求めたからです。主はサムエルを通して、王と立てることが、どれほどの苦しみを人々に招くかをあらかじめ警告しました。しかし、イスラエルの民が「我々にはどうしても王が必要なのです」と言い張るので、民の声を聞き入れ、彼らの王を立てるようサムエルに命じるのです。この主のご命令によって、サムエルは、キシュの子サウルに油を注いで、イスラエルの王としました。しかし、サウルは主の言葉を退けたので、主はサウルを王位から退けられました。主は、サウルに代わる王として、エッサイの子ダビデに油を注いで、イスラエルの王とされたのです。そして、主は預言者ナタンを通して、ダビデの王座をとこしえに堅く据えるというダビデ契約を結ばれたのです。ダビデ契約については、『サムエル記下』の第7章に記されています。旧約の476ページです。第7章11節後半から16節までをお読みします。
「主は告げられる。主があなたのために家を興す。あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの末裔、あなたの身から出る者を後に立たせ、その王国を揺るぎないものとする。その者が私の名のために家を建て、私は彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。私は彼の父となり、彼は私の子となる。彼が過ちを犯すときは、私は人の杖、人の子らの鞭をもって彼を懲らしめよう。私はあなたの前からサウルを退けたが、サウルから取り去ったように、その者から慈しみを取り去ることはしない。あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえに続く。あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」
主なる神は、神のための家(神殿)を建てようとしたダビデに、「あなたではなく、わたしがあなたのために家(王朝)を立てる」と言われました。主はダビデの身から出る者を王とし、その王国を揺るぎないものとしてくださると約束されたのです。このダビデ契約に基づいて、イスラエルの人々は、神のメシア、神によって油を注がれた王、救い主を待ち望んでいたのです。また、ダビデ契約に基づいて、預言者たちは、神のメシアについて預言したのです。例えば、『イザヤ書』の第9章には次のように記されています。旧約の1059ページです。第9章5節と6節をお読みします。
一人のみどりごが私たちのために生まれた。一人の男の子が私たちに与えられた。主権がその肩にあり、その名は『驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君』と呼ばれる。その主権は増し、平和には終わりがない。ダビデの王座とその王国は/公正と正義によって立てられ、支えられる。今より、とこしえに。万軍の主の熱情がこれを成し遂げる。
このように預言者たちは、ダビデの家から神のメシアが生まれると預言してきたのです。ダビデ契約とそれに基づく預言を背景にして、ペトロは、イエス様に対して、「あなたは神のメシアです」と告白したのです。
ペトロは弟子たちを代表して、また、私たちに先立って、イエス様に対して、「あなたは神のメシアです」と告白しました。このことは、イエス様の弟子教育の賜物であり、イエス様の祈りによるものであります。同じことが私たちにも言えます。私たちが「イエスは神のメシアである」と告白することができたのは、イエス様の弟子教育の賜物であり、イエス様の祈りによるものであるのです。具体的に言えば、私たちはキリストの教会において弟子教育を受け、兄弟姉妹のキリストの御名による執り成しの祈りによって、「イエスは神のメシアです」と告白することができたのです。来週、kさんの成人洗礼式を予定していますが、イエス様は私たちの弟子教育を用いて、また、私たちの祈りを聞いてくださって、kさんに「イエスは神のメシアである」という信仰告白を与えてくださったのです。