五千人を満腹させたイエス 2025年7月06日(日曜 朝の礼拝)

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五千人を満腹させたイエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 9章10節~20節

聖句のアイコン聖書の言葉

9:10 使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに報告した。イエスは彼らを連れて、自分たちだけでベトサイダという町へ退かれた。
9:11 群衆はこれを知って、イエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々を癒やされた。
9:12 日が傾きかけたので、十二人は御もとに来て言った。「群衆を解散し、周りの村や里に行って宿をとり、食料を調達するようにさせてください。私たちはこんな寂しい所にいるのです。」
9:13 しかし、イエスは言われた。「あなたがたの手で食べ物をあげなさい。」彼らは言った。「私たちには、パン五つと魚二匹しかありません。まさか、私たちが、この民みんなのために食べ物を買いに行けとでもいうのでしょうか。」
9:14 というのは、五千人ほどの人がいたからである。イエスは弟子たちに、「人々をおよそ五十人ずつひとまとまりにして座らせなさい」と言われた。
9:15 弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。
9:16 イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それを祝福して裂き、弟子たちに渡しては群衆に配らせた。
9:17 人々は皆、食べて満腹した。そして、余ったパン切れを集めると、十二籠あった。
9:18 イエスが独りで祈っておられたとき、弟子たちが御もとに集まって来た。そこでイエスは、「群衆は、私のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
9:19 弟子たちは答えた。「洗礼者ヨハネだと言う人、エリヤだと言う人、ほかに、昔の預言者の一人が生き返ったと言う人もいます。」
9:20 イエスは言われた。「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神のメシアです。」ルカによる福音書 9章10節~20節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、イエス様が、神の国を宣べ伝え、病人を癒やすために12人を遣わしたことを学びました。12人は村々を巡り歩いて、至るところで福音を告げ知らせ、病人を癒やしました。その使徒たちが帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエス様に報告しました。イエス様が12人を福音宣教に遣わしたのは限られた短い期間でありました。イエス様は御自分が天に昇られた後のことを考えて、12人を訓練されたのです。イエス様が12人を遣わしたことは、神学生の夏期伝道に似ています。私たち日本キリスト改革派教会には、牧師の養成機関として、神戸改革派神学校があります。神学校に入学した神学生は、近隣の教会に派遣されて訓練を受けることを前にお話ししました。派遣神学生と言って、1年間、同じ教会の礼拝に出席し、訓練を受けるのです。具体的に言えば、教会学校の奉仕をしたり、小会(長老会)や執事会に陪席したり、説教の指導などを受けるのです。それとは別に、7月と8月に、全国の定住の牧師がいない教会に、夏期伝道に遣わされます。2か月間、無牧の教会に住み込んで、毎週の礼拝説教や祈祷会のお話しをするのです。神学生は夏期伝道に遣わされることによって、牧師の働きをするための良き訓練を受けるのです。ちなみに、私は、2年生のときは、東北中会の仙台カナン教会に2か月間遣わされました。また、3年生のときは、四国中会の新居浜伝道所に2か月間遣わされました。夏期伝道が終わると、神学校の礼拝のときに、それぞれ夏期伝道報告をします。使徒たちが帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエス様に報告したように、神学生たちも夏期伝道報告をするのです。参考として、『週報』に今年の神学生の夏期伝道の派遣教会を記しておきましたので、お祈りいただければと思います。また、秋ごろに発行される神学校の『校報』に、夏期伝道報告が掲載されますので、お読みいただければと思います。

 イエス様は、帰って来た使徒たちを連れて、自分たちだけでベトサイダという町へ退かれました。イエス様は、使徒たちの労をねぎらい、休ませようとしたようです。『マルコによる福音書』の並行箇所を見ると、イエス様が使徒たちに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行き、しばらく休むがよい」と言われたことが記されています(マルコ6:31)。イエス様は群衆と距離を置いて、自分たちだけで、ベトサイダ(「漁師の家」の意味)という町に退かれたのです。しかし、イエス様の思惑通りにはなりませんでした。群衆はこれを知って、イエス様の後を追って来たのです。『マルコによる福音書』の並行箇所を見ると、イエス様は群衆を見て、「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れ」んだと記されています(マルコ6:34)。イエス様は、飼い主のいない羊のような群衆を深く憐れんで、神の国について語り、治療の必要な人々を癒やされたのです。

 日が傾きかけたので、12人は御もとに来て、こう言いました。「群衆を解散し、周りの村や里に行って宿をとり、食料を調達するようにさせてください。私たちはこんな寂しい所にいるのです」。しかし、イエス様はこう言われます。「あなたがたの手で食べ物をあげなさい」。12人は、群衆を解散させて、それぞれの手で食料を得るようにと言いました。しかし、イエス様は、12人に、「あなたがたの手で食べ物をあげなさい」と言われるのです。それに対して、12人はこう言います。「私たちには、パン5つと魚2匹しかありません。まさか、私たちが、この民みんなのために食べ物を買いに行けとでもいうのでしょうか」。5つのパンと2匹の魚、それはイエス様と12人の夕食であったと思います。そもそも、ベトサイダに来たのは、自分たちだけで退くため、リトリートをするためでした。その自分たちの夕食が、5つのパンと2匹の魚であったのです。14節を見ると、「というのは5千人ほどの人がいたからである」と記されています。5つのパンと2匹の魚を、5千人で分けることなどできません。すぐに無くなってしまいます。もちろん、5千人分の食べ物を買いに行くことなどできません。そんな大金は持っていませんし、売ってもいません。ですから、「まさか、私たちが、この民みんなのために食べ物を買いに行けとでもいうのでしょうか」という12人の言葉は、「そんなことは不可能です」という意味であります。そうすると、弟子たちの最初の提案、「群衆を解散し、周りの村や里に行って、宿をとり、食料を調達するようにさせてください」という提案は、不可能な提案であったことが分かります。弟子たちは不可能であることを知りながら、群衆を解散させて、それぞれに食料を調達する責任を負わせるわけです。食料は自己責任で調達してくださいということです。弟子たちには、自分たちの食料である5つのパンと2匹の魚を分けるという発想はありません。そのような弟子たちに、イエス様は、こう言われます。「人々をおよそ50人ずつひとまとまりにして座らせなさい」。弟子たちは、イエス様に言われたとおり、皆を座らせました。弟子たちも群衆も、イエス様が何をなさるのか注目していたと思います。イエス様は、5つのパンと2匹の魚を取り、天を仰いで、それを祝福して裂き、弟子たちに渡しては群衆に配らせました。5つのパンと2匹の魚ですから、群衆に行き渡らずに、すぐ無くなってしまうはずです。しかし、人々は皆、食べて満腹したというのです。しかも、余ったパン切れを集めると、12籠あったというのです。明らかに、パンと魚が増えています。イエス様の手の中で、パンと魚が増えている。弟子たちに渡しても渡しても無くならず、5千人を満腹させるほどにパンと魚が増えたのです。「余ったパン切れを集めると、12籠あった」とありますが、12籠は12人と対応しています。12人は籠をもって、イエス様から渡されたパンを群衆に配りました。そして、12人は籠をもって、余ったパン切れを集めたのです。彼らはイエス様の5千人養いの奇跡を身をもって体験しました。そして、5千人養いの奇跡の体験によって、弟子たちは信仰告白へと導かれるのです。18節以下には、ペトロが弟子たちを代表して、イエス様のことを「神のメシアです」と告白したことが記されています。5つのパンと2匹の魚で5千人を満腹させたという奇跡を体験することによって、弟子たちは「イエス様は神のメシアである」と告白することができたのです。このことは、福音書記者ルカが、一つの資料として用いた『マルコによる福音書』の理解でもあります。ただし、マルコ福音書では、弟子たちはなかなか理解できないのです。聖書を開いて確認しましょう。新約の71ページ。マルコ福音書は、第6章30節から44節で、5千人養いの奇跡について記しています。その後も、「湖の上を歩く」「ゲネサレトで病人を癒やす」「昔の人の言い伝え」などなど、話は続いて行きます。マルコ福音書が、ペトロの信仰告白について記すのは、第8章27節以下です。マルコ福音書では、5千人養いの奇跡を体験した後も、弟子たちは、イエス様が何者であるのか悟ることができないのです。5千人養いの奇跡の後で、イエス様が「湖の上を歩く」という奇跡が記されています。その第6章51節と52節にこう記されているのです。「イエスが舟に乗り込まれると、風は静まった。弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンのことを悟らず、心がかたくなになっていたからである」。ルカ福音書ですと、パンのことを悟って、弟子たちはイエス様のことを「神のメシアです」と告白します。しかし、マルコ福音書では、弟子たちは心がかたくななため、パンのことを悟ることができないのです。それで、イエス様は、第8章で、「4千人に食べ物を与える」という同じような奇跡を行われます。大きく違う点は、第6章の5千人がユダヤ人であったのに対して、第8章の4千人が異邦人であったことです。このとき、イエス様はデカポリス地方におりました(マルコ7:31参照)。ですから、4千人は異邦人であったのです(ここに、ユダヤ人である弟子たちがよそよそしい理由がある)。4千人養いの奇跡は、イエス様がユダヤ人の群衆だけではなく、異邦人の群衆をも養われるお方であることを私たちに教えているのです。マルコ福音書において、弟子たちは、5千人養いの奇跡と4千人養いの奇跡を体験していたのです(ルカ福音書は4千人養いの奇跡を記していない)。しかし、それでも弟子たちは悟ることができないのです。そのような弟子たちにイエス様はこう言われます。第8章の17節から21節までを読みます。

 イエスはそれに気付いて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論しているのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。私が5千人に5つのパンを裂いたとき、集めたパン切れでいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは「12です」と言った。「7つのパンを4千人に裂いたときには、集めたパン切れでいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「7つです」と言うと、イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。

 このように、イエス様が群衆を満腹させるという奇跡は、イエス様が来たるべきメシア、救い主であることを示す奇跡であるのです。しかし、マルコ福音書では、弟子たちは、イエス様から、「まだ悟らないのか」と叱られてしまうのです。他方、ルカは、そのようなことを記さずに、ペトロの信仰告白を記すのです。つまり、ルカ福音書の使徒たちは心がかたくなではなく、ものわかりがいいのです。マルコ福音書は、この後に、イエス様がベトサイダで盲人の目を見えるようにされた奇跡を記しています。これは象徴的な意味を持っています。イエス様は盲人の目を見えるようにされたように、弟子たちの心の目を見えるようにしてくださるのです。それゆえ、ペトロは弟子たちを代表して、イエス様に対して、「あなたはメシアです」と告白することができたのです。

 今朝の「5千人に食べ物を与える」という奇跡は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書に記されているただ一つの奇跡です。それは先程も申しましたように、この奇跡が、イエス様が「神のメシア」であることを示す奇跡(出来事啓示)であるからです。そのように解釈する根拠は、旧約聖書にあります。実は、イエス様と同じような奇跡を預言者エリシャもしています。『列王記下』の第4章42節から44節までをお読みします。旧約の569ページです。

 ある男がバアル・シャリシャからやって来て、初穂のパン、大麦パン20個、そして、新しい穀物を袋に入れ、神の人に持って来た。エリシャが、「皆に配って食べさせなさい。主はこう言われる。『彼らは食べても、なお残すだろう。』」そこで配ってみると、主の言葉どおり、彼らは食べて、なお残した。

 エリシャは、大麦パン20個で、百人を養いました。しかし、イエス様は、5つのパンと2匹の魚で、5千人の人を養われたのです。イエス様は、エリシャ以上の預言者であるのです。いや、むしろ、「彼らは食べても、なお残すだろう」と言われた主なる神であるのです。

 また、5千人養いの奇跡の背景には、天からのパン、マナがあると考えられています。イスラエルの民を奴隷の家エジプトから導き出された主は、天からのパン、マナによって、イスラエルの民を養われました(出エジプト16章参照)。そのマナの奇跡を背景にして、イエス様は5千人を養われたのです。エリシャのパンの奇跡や天からのパン、マナの奇跡を背景にして、5千人養いの奇跡を理解するとき、私たちは、イエス様こそ、神様が遣わしてくださったメシア、救い主であると告白することができるのです(ヨハネ6章参照)。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の120ページです。 

 5千人養いの奇跡は、私たちに平地の説教の御言葉、「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである/あなたがたは満たされる」という御言葉を思い起こさせます(6:20、21)。イエス様は、神のメシアとして、飢えている人々を満たしてくださったのです。そのことは、今も同じです。イエス様は、私たちに食べ物を与えてくださり、私たちを満たしてくださっているのです。ですから、私たちは、食前に感謝の祈りをささげるのです。こう聞きますと、今も多くの人々が飢えているではないかと思われるかもしれません。しかし、私たちが心に留めたいことは、神様はすべての人が食べることができる食料を与えてくださっているということです。問題は、人間がその食料を行き渡るように配分していないことです。随分前の書物になりますが、『世界がもし100人の村だったら』という本にこう記されています(この本は63億人からなる世界を100人の村に置き換えたものです)。「20人は栄養がなく、1人は死にそうなほどです。でも15人は太り過ぎです」。私たちが生きている世界は、そのような世界であるのです。そのような世界に生きる私たちに、イエス様は、「あなたがたの手で食べ物をあげなさい」と言われるのです。そのように言われれば、「私たちには、パン5つと魚2匹しかありません」と言いたくなります。しかし、私たちは、イエス様を神のメシアであると信じる者として、5つのパンと2匹の魚を、信仰をもって差し出したいと思います。イエス様は、私たちのわずかな献げ物を豊かに用いて、御心を行ってくださる。ことを信じて、私たちは5つのパンと2匹の魚をささげたいと願います。

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