ただ信じなさい 2025年6月15日(日曜 朝の礼拝)
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ただ信じなさい
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- 村田寿和 牧師
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ルカによる福音書 8章40節~56節
聖書の言葉
8:40 イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。皆がイエスを待ちわびていたからである。
8:41 するとそこに、ヤイロと言う人が来た。この人は会堂長であった。彼はイエスの足元にひれ伏して、自分の家に来てくださるようにと願った。
8:42 十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていたのである。イエスが行かれる途中、群衆が周りに押し寄せて来た。
8:43 ここに、十二年この方、出血が止まらない女がいた。医者に全財産を使い果たしたが、誰にも治してもらえなかった。
8:44 この女が後ろから近寄って、イエスの衣の裾に触れると、たちまち出血が止まった。
8:45 イエスは、「私に触れたのは誰か」と言われた。皆自分ではないと言ったので、ペトロが、「先生、群衆が取り巻いて、ひしめき合っているのです」と言った。
8:46 しかし、イエスは、「誰かが私に触れた。私から力が出て行ったのを感じたのだ」と言われた。
8:47 女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、イエスに触れた理由とたちまち癒やされた次第とを、民全員の前で話した。
8:48 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」
8:49 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなられました。この上、先生を煩わすことはありません。」
8:50 イエスは、これを聞いて会堂長に言われた。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」
8:51 家に着くと、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、それに子どもの父母のほかには、誰も一緒に入ることをお許しにならなかった。
8:52 人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。イエスは言われた。「泣かなくてもよい。娘は死んだのではない。眠っているのだ。」
8:53 人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスを嘲笑った。
8:54 イエスは娘の手を取って、「子よ、起きなさい」と呼びかけられた。
8:55 すると、霊が戻って、娘はすぐに起き上がった。イエスは、何か食べ物を与えるように指図をされた。
8:56 両親は非常に驚いた。イエスはこの出来事を誰にも話さないようにとお命じになった。ルカによる福音書 8章40節~56節
メッセージ
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前々回(先々週)、私たちは、イエス様がゲラサ人(異邦人、ユダヤ人ではない外国人)の地方で、男から多くの悪霊(レギオン)を追い出したお話を学びました。その成り行きを知ったゲラサ地方の人々は皆、恐怖に捕らわれ、自分たちのところから出て行ってもらいたいとイエス様に願いました。それで、イエス様と弟子たちは、舟に乗ってガリラヤ湖を渡り、ユダヤ人の地に帰って来たのです。そのイエス様を群衆は喜んで迎えました。人々は皆、イエス様を待ちわびていたのです。その人々の中に、ヤイロという人がいました。この人は会堂長でした。会堂で行われる礼拝を取り仕切る社会的地位の高い人であったのです。その会堂長であるヤイロがイエス様の足元にひれ伏して、自分の家に来てくださるように願いました。ヤイロの12歳ぐらいの一人娘が死にかけていたのです。
イエス様がヤイロの家に行かれる途中、群衆が周りに押し寄せてきました。その群衆の中に、12年出血が止まらない女がいました。この病は婦人病の一つであったと考えられています。旧約の『レビ記』の第15章によれば、出血が止まらない病は、宗教的な汚れでありました。旧約の174ページ。第15章25節から30節までをお読みします。
女が月経でもないのに、幾日も血の漏出があり、月経が済んでも漏出するなら、その漏出の汚れの間は、月経と同じように汚れる。彼女は汚れている。漏出している期間、彼女が横たわる寝床は、すべて月経のときの寝床と同じようになる。彼女が腰掛けるものはすべて、月経の汚れと同じく汚れる。それに触れた者も汚れる。その者は衣服を洗い、水で体を洗わなければならない。その者は夕方まで汚れる。
漏出から清くなったなら、七日を数える。その後、彼女は清くなる。八日目に、山鳩二羽か若い家鳩二羽を取り、会見の幕屋の入り口にいる祭司のもとに携えて行く。祭司は一羽を清めのいけにえに、もう一羽を焼き尽くすいけにえにして、彼女のために、主の前で漏出による汚れの贖いをする。
このように、出血が止まらない女は、宗教的に汚れた者であったのです。宗教的な汚れは移ると考えられており、「汚れた者である彼女に触れたものも汚れる」と定められていました。それゆえ、彼女はイスラエルの宗教的な社会に居場所がない者であったのです。彼女は病気を患って苦しんでいただけではなく、神と人との交わりからも締め出されていたのです。誤解のないように申しますが、このような儀式律法は、イエス・キリストにおいて廃止されています。新約の『ヘブライ人への手紙』を読むと、動物犠牲に代表される儀式律法がイエス・キリストにおいて廃止されたと記されています。「漏出による汚れ」についての律法も、イエス・キリストにおいて廃止されたのです。このことは、『ウェストミンスター信仰告白』の第19章「神の律法について」に記されていることです。『ウェストミンスター信仰告白』は、神の律法を道徳律法と儀式律法と司法的律法の大きく3つに分けて、儀式律法はすべて、今、新約のもとでは廃止されていると告白しています(3節「一般に道徳律法と呼ばれるこの律法のほかに、神は未成年の教会としてのイスラエルの民に、儀式律法を与えることをよしとされた。これはさまざまな予型的規定を内容としているが、それらの規定の一部は、キリストとその恵みの賜物・その行為・苦難・利益をあらかじめ表す礼拝の規定であり、また一部は、道徳的義務についてのさまざまな教えを提示するものであった。これらの儀式律法はすべて、今、新約のもとでは廃止されている」参照)。それゆえ、「漏出による汚れ」についての律法も、イエス・キリストによって締結された新しい契約のもとでは廃止されているのです。
今朝の御言葉に戻りましょう。新約の119ページです。
女は12年出血が止まらない病に苦しんでいました。ヤイロの一人娘が12歳ぐらいでしたが、彼女はヤイロの娘が生まれてから今日まで、出血が止まらない病で苦しんできたのです。彼女は治りたい一心で医者にかかり、全財産を使い果たしました。しかし、誰にも治してもらえなかったのです。そのようなとき、彼女は、イエス様のうわさを聞いたのでしょう。イエス様は、あらゆる病を癒やすことがおできになる。そのようなうわさを聞いて、彼女は群衆の中に紛れ込み、後ろから近寄って、イエス様の衣の裾に触れたのです。このこと自体、女にとって勇気のいることでありました。と言いますのも、宗教的に汚れた者は、群衆が集まる公の場所に出てはならないからです。しかし、彼女は「イエス様の衣に触れさえすれば、癒やしていただける」と信じて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエス様の衣の裾に触れたのです(マルコ5:28「『せめて、この方の衣にでも触れれば治していただける』と思ったからである」参照)。すると、たちまち出血が止まりました。12年止まらなかった出血が止まったのです。イエス様は立ち止まって、「私に触れたのはだれか」と言いました。皆自分ではないと言ったので、弟子のペトロはこう言います。「先生、群衆が取り巻いて、ひしめき合っているのです」。ペトロは、「先生、群衆が取り巻いて、ひしめき合っているのですから、誰かがあなたに触れても当然でしょう。それよりも、ヤイロの家に早く行きましょう」と言ったのです。しかし、イエス様は、「誰かが私に触れた。私から力が出て行ったのを感じたのだ」と言って、先に進もうとはしないのです。それで、女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、イエス様に触れた理由とたちまち癒やされた次第とを民全員の前で話したのです。どうして女は震えながら進み出たのでしょうか。それは女が12年治らなかった病を癒やしていただいたことにより、イエス様が主であることを体験として知ったからです。『出エジプト記』の第15章26節に、「まことに私は主、あなたを癒やす者である」と記されています。女は身をもって、イエス様こそ、自分を癒やす主(しゅ)であることを知ったのです。それゆえ、彼女は聖なる畏れを持って、震えながら進み出て、ひれ伏したのです。そして、イエス様に触れた理由とたちまち癒された次第を民全員の前で話したのです。このようなことは、彼女が避けたかったことです。女は後ろから近寄って、イエス様の服の裾に触れて、癒やされただけで十分でした。ですから、女は人知れず、その場から立ち去ろうとしていたと思います。しかし、イエス様は、自分に触れた者と会おうとするのです。自分の内から力を引き出した者と顔と顔を合わせて、お話することを望まれたのです。女は、イエス様と民全員の前で、12年血が止まらない病で苦しんできたこと。医者に全財産を使い果たしたが、誰からも治してもらえなかったこと。しかし、イエス様の服に触れたら、たちまち出血が止まったことを話したと思います。その女の話を聞いて、イエス様はこう言われます。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。ここでイエス様は、汚れた者であった女を「娘よ」と親しく呼ばれました。そして、「あなたを救ったのは、私に対する信仰(信頼)である」と教えられました。さらには、「安心して行きなさい」と神と人との交わりへと送り出されたのです。女はイエス様によって救われた清い者として、イスラエルの社会に復帰したのです。
イエス様がまだ話しておられるとき、会堂長の家から人がやって来てこう言いました。「お嬢さんは亡くなられました。この上、先生を煩わすことはありません」。イエス様が、自分に触れた人を探している間に、そして、女の話を聞いて、イエス様も話をしている間に、ヤイロの一人娘は死んでしまったのです。生きているうちは、まだ望みがある。しかし、死んでしまえばどうしようもない。そのように考えるのが普通です。ヤイロもそう考えたと思います。しかし、イエス様は、ヤイロにこう言うのです。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」。このように、イエス様はヤイロの信仰を支えてくださいました。そして、ヤイロは、イエス様の御言葉を信じて、イエス様と一緒に自分の家に向かうのです。ヤイロは、「気休めはよしてください。死んだらおしまいです」とは言いませんでした。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」。このイエス様の御言葉を、「アーメン、そのとおり」と受け入れたのです。それは、ヤイロがイエス様の服に触れた女の「救いの証し」を聞いていたからだと思います。ヤイロの信仰を支えたのは、イエス様の服に触れた女の証しであったのです。
イエス様がヤイロの家に着くと、ペトロとヨハネとヤコブ、それに子どもの父母(ふぼ)のほかには、誰も一緒に入ることをお許しになりませんでした。「ペトロとヨハネとヤコブ」は12使徒のメンバーであり、最初の弟子たちであります。彼らはこれから起こることの証人(証し人)として選ばれたのです(申命19:15「人が犯したどのような罪も、二人または三人の証人の証言によって確定されなければならない」参照)。人々は皆、娘のために泣き悲しんでいました。しかし、イエス様はこう言われます。「泣かなくてもよい。娘は死んだのではない。眠っているのだ」。イエス様は、娘を生き返らせる(起き上がらせる)御方として、このように言われたのです。イエス様は、死んでいた娘の手を取りました。このことは、モーセの律法によれば、宗教的な汚れを身に受けることでした。『民数記』の第19章11節に次のように記されています。「どのような死者の体でも、死んだ者に触れた者は七日間、汚れる」。しかし、イエス様は、死んだ娘の手を取られたのです。このようなことは、以前にもありました。第5章に、規定の病を患っている人のお話が記されていました。そのときも、イエス様は、手を伸ばしてその人に触れて、「私は望む。清くなれ」と言われたのです。そして、規定の病はたちまち去り、清くなったのです。規定の病の人に触れたイエス様が汚れたのではなく、イエス様に触れていただいた規定の病の人が清められたのです。そのようにしてイエス様は、規定の病についての儀式律法を廃止されたのです(レビ13章参照)。また、イエス様は、今朝の御言葉で、死んだ娘に触れることによって、死んだ者に触れた者は汚れるという儀式律法を廃止されたのです。ですから、イエス・キリストを信じる私たちにとって、死は宗教的な汚れではないのです。イエス様は、娘の手を取って、「子よ、起きなさい」と呼びかけられました。すると、霊が戻って、娘はすぐに起き上がったのです。イエス様は、何か食べ物を与えるように指図をされました。これは娘が確かに生き返ったことを示すためです(24:41~43「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていると、イエスは、『ここに何か食べ物があるか』と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた」参照)。両親は非常に驚きました。しかし、イエス様はこの出来事を誰にも話さないようにお命じになったのです(イエス様が復活するまで)。
今朝の御言葉で、私たちが教えられることは、イエス様が不治の病を癒やされる御方であり、死んだ人をも生き返らせる御方であるということです。イエス様は、風と荒波を従わせる御方であり、多くの悪霊を追い出すことのできる御方であり、不治の病を癒やし、死んだ人を生き返らせることのできる御方であるのです(第8章には、イエス様の力ある業がまとめて記されている)。
12年出血が止まらなかった女は、イエス様によって救われました。また、死んでしまったヤイロの12歳の一人娘も、イエス様によって救われました。そして、どちらも、イエス様に対する信仰(信頼)によって救われたのです。使徒パウロは、「私たちが救われるのは、律法の行いによるのではなく、イエス・キリストへの信仰による」と教えています(ガラテヤ2:16参照)。そのパウロの教えの源が、「あなたの信仰があなたを救った。恐れることはない。ただ信じなさい」というイエス様の御言葉にあるのです。私たちにもそれぞれ、様々な恐れがあると思います。しかし、イエス様は、信仰が揺らいで、消えてしまいそうな私たちに、「あなたの信仰があなたを救った。恐れることはない。ただ信じなさい」と言ってくださるのです。イエス様の服に触れた女とヤイロの娘の物語は、私たちがイエス・キリストを信じて救われるための証しの物語であるのです。