悪霊からの解放 2025年6月01日(日曜 朝の礼拝)
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悪霊からの解放
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- 村田寿和 牧師
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ルカによる福音書 8章26節~39節
聖書の言葉
8:26 一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。
8:27 イエスが陸に上がると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男に出会われた。この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。
8:28 イエスを見ると、叫んでひれ伏し、大声で言った。「いと高き神の子イエス、構わないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。」
8:29 イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである。この人は長い間、汚れた霊に取りつかれていたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを壊し、悪霊によって荒れ野に追いやられていたのである。
8:30 イエスが、「名は何と言うのか」とお尋ねになると、「レギオン」と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。
8:31 悪霊どもは、自分たちに底なしの淵に行けとお命じにならないようにと、イエスに願った。
8:32 ところで、辺りの山でたくさんの豚の群れが飼ってあった。悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。
8:33 悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、溺れ死んだ。
8:34 この出来事を見た豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。
8:35 そこで、人々はその出来事を見ようと出かけて行った。彼らはイエスのところに来ると、悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足元に座っているのを見て、恐ろしくなった。
8:36 成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれていた人の救われた次第を人々に知らせた。
8:37 ゲラサ地方の人々は皆、恐怖に捕らわれ、自分たちのところから出て行ってもらいたいとイエスに願った。そこで、イエスは舟に乗って帰ろうとされた。
8:38 悪霊どもを追い出してもらった人が、お供をしたいと願ったが、イエスはこう言ってお帰しになった。
8:39 「自分の家に帰って、神があなたにしてくださったことを、ことごとく話して聞かせなさい。」そこで、彼は立ち去り、イエスがしてくださったことを、ことごとく町中に言い広めた。ルカによる福音書 8章26節~39節
メッセージ
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前回私たちは、イエス様が風と荒波を静められたお話を学びました。イエス様と弟子たちを乗せた舟は、無事に、ガリラヤ湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いたのです。「ゲラサ人の地方」とあるように、そこはユダヤ人ではない異邦人(外国人)の地方です。今朝の御言葉の舞台は、まことの神を知らない異邦人の土地であるのです。
イエス様が陸に上がると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男に出会いました。この男は、長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていました。悪霊は汚れた霊とも言えます。また、死者を葬る墓場は「汚れた場所」と考えられていました。「汚れた霊」に取りつかれた人は汚れた場所である墓場を住まいとしていたのです。悪霊に取りつかれた男は、墓場からイエス様を出迎えるために出てきたのでしょう。そして、イエス様を見ると、叫んでひれ伏し、大声でこう言うのです。「いと高き神の子イエス、構わないでくれ。頼むから苦しめないでほしい」。このように言ったのは、イエス様が汚れた霊に男から出るように命じられたからです。イエス様は、この男を憐れに思い、汚れた霊に男から出ていくように命じられたのです。悪霊に取りつかれている男は、ゲラサ人、異邦人(ユダヤ人ではない外国人)でした。私たちは、第4章31節以下で、イエス様がガリラヤの町カファルナウムの会堂で、ユダヤ人の男から悪霊を追い出されたことを学びました。そのイエス様が、今朝の御言葉では異邦人の男から悪霊を追い出されるのです。なぜなら、ユダヤ人も異邦人も、神のかたちに造られた人間であるからです(創世1:27「神は人を自分のかたちに創造された。神のかたちにこれを創造し/男と女に創造された」参照)。神のかたちに造られた人間、神の御心に従って生きるように造られた人間が、悪霊の支配の下にあることを、イエス様はお許しにならないのです。
悪霊に取りつかれている男は、「いと高き神の子イエス、構わないでくれ。頼むから苦しめないでほしい」と言います。ここで語っているのは、男というよりも、取りついている悪霊ですね。男は悪霊に完全に支配されてしまっているという感じです。悪霊は、「いと高き神の子イエス」と言います。前回学んだ25節に、「弟子たちは恐れ驚いて、『一体、この方はどなたなのだろう。命じれば風も水も従うではないか』と互いに言った」と記されていました。弟子たちは、イエス様がどなたであるのかが分からないのです。しかし、悪霊は、「いと高き神の子イエス」と、イエス様の正体を見事に言い表すのです。もちろん、これは信仰の告白ではありません。悪霊は、イエス様を敵として知っているに過ぎないのです。悪霊とは、悪魔の手下の霊のことです。では、悪魔とは何かと言うと、悪魔とは神の敵であり、堕落した天使のことです(二ペトロ2:4参照)。『創世記』の第3章に、はじめの人アダムと女がエデンの園で、禁じられた木の実を食べて、罪を犯したことが記されています。そのきっかけは、蛇の誘惑でした。蛇は、アダムの助け手である女に、「決して死ぬことはない。それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っているのだ」と言って、誘惑しました(創世3:4、5参照)。この蛇の背後には、神の敵である悪魔がいたのです(黙12:9参照)。その悪魔の手下が悪霊であるのです。
当時の悪霊払いの考え方に、相手の名前を呼ぶことによって、相手を支配できるという考え方がありました。そのような考え方に基づいて、悪霊は、「いと高き神の子イエス」と呼びかけたのです。しかし、神の子と悪霊では力の差は歴然であります。それで、悪霊はひれ伏して、「構わないでくれ。頼むから苦しめないでほしい」と願うのです。ここで「構わないでくれ」と訳されている言葉は、直訳すると、「私とあなたとの間に何の関わりがあるのか」となります。確かに神の子であるイエス様と悪魔の手下である悪霊との間には何の関わりもありません。むしろ、イエス様に関わりがあるのは、悪霊が取りついている男、人間であるのです。悪霊は、この男を散々苦しめてきたにも関わらず、「頼むから苦しめないでほしい」と虫のいいことを願います。イエス様が、悪霊に取りつかれた男に、「名は何というのか」とお尋ねになると、「レギオン」と言いました。これは男の名ではなく、悪霊の名前です。「レギオン」とは、およそ5000人からなるローマの軍隊組織を意味します。男の中には、たくさんの悪霊が入っていたのです。悪霊どもは、自分たちを底なしの淵に行けとお命じにならないように、イエス様に願いました。「底なしの淵」とは、悪魔とその手下である悪霊を閉じ込めておく場所のことです(黙20:1~3参照)。その底なしの淵に行けと命じないようにと、悪霊どもはイエス様にお願いするのです。いと高き神の子であるイエス様が、「底なしの淵に行け」と命じるならば、悪霊どもはいやでも従わなくてはならないのです。
どころで、辺りの山でたくさんの豚の群れが飼われていました。ユダヤ人にとって豚は汚れた動物であり、飼うことも食べることもしませんでした(レビ11:7「豚、これはひづめが割れて、完全に分かれているが、反芻しないので、あなたがたには汚れたものである」参照)。しかし、異邦人であるゲラサ人は豚を飼って、食べていたのです。悪霊どもはその豚の群れに目をつけて、豚の中に入る許しを願うのです。悪霊どもは豚の中に入りたくても、神の子であるイエス様の許しがなければできないのです(ヨブ記の1、2章参照)。イエス様がお許しになると、悪霊どもはその人から出て、豚の中に入りました。おそらく、悪霊どもは、「これで底なしの淵に行かなくて済んだ」と安心したと思います。しかし、悪霊どもが豚の中に入ると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、溺れ死んでしまったのです。これは、一体どういうことでしょうか。なぜ、豚の群れは崖を下って、湖になだれ込み、溺れ死んでしまったのでしょうか。それは悪霊どもが持つ破滅願望によるものであると思います。『ヨハネによる福音書』の第8章で、イエス様は悪魔について次のように言われています。「悪魔は初めから人殺しであって、真理に立っていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性(ほんしょう)から言っている。自分が偽り者であり、偽りの父だからである」(ヨハネ8:44)。悪魔は初めから人殺しである。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。悪魔は偽りの父である。そのことが明かとなったのが、エデンの園の出来事であります。悪魔はエデンの園で女に偽りを語り、はじめの人アダムに禁じられた木の実を食べさせて、死をもたらしました。それは、悪魔が初めから人殺しであり、偽りの父であるからです。その悪魔の手下である悪霊どもにも本性(ほんせい)として破滅願望があるのですね(「本性」とは「本来の性質」の意味)。それで、悪霊に取りつかれていた男は、衣服を身に着けず、墓場を住まいとしていたわけです。また、人のいない荒れ野に追いやられていたわけです。そのような破滅願望を持つ悪霊どもが豚の中に入ったとき、豚の群れは悪霊どもの破滅願望に従って、崖を下って湖になだれ込み、溺れ死んだのです。悪霊どもは自分たちの破滅願望の実現として、底なしの淵に行ったのです。このように考えると、悪霊に取りつかれていた男は、「生きたい」という強い願いを持っていたことが分かります。悪霊に取りつかれていた男は、崖を下って湖に飛び込み、溺れ死ぬことはしませんでした。それは、男の中に「生きたい」という強い願いがあったからです。イエス様は、この男の願い、「人間らしく生きたい」という願いを聞いてくださり、男を悪霊の支配から解放してくださったのです。
この出来事を見た豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせました。そこで、人々はその出来事を見ようと出かけて行きました。人々は、イエス様のところに来ると、悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエス様の足元に座っているのを見ました。裸で、叫び、暴れ回っていた男が、服を着て、静かに、イエス様の足元に座っていたのです。それを見て人々は恐ろしくなったのです。喜んだのではなくて、恐ろしくなったのです。成り行きを見ていた人たちから悪霊に取りつかれていた人が救われた次第を聞いても、人々は喜ぶことなく、恐怖に捕らわれたのです。それで、ゲラサ地方の人々は皆、イエス様に自分たちのところから出て行ってもらいたいと願いました。このことは、ゲラサ地方の人々が皆、悪霊の支配の下にあることを示しています。裸で墓場に住んでいた男ほどではないにしても、ゲラサ地方の人々は皆、悪霊の支配の下にあるのです。同じことが、イエス・キリストを信じる前の私たち自身とイエス・キリストを信じていない人々にも言えます。使徒パウロは、『エフェソの信徒への手紙』の第2章1節から3節で次のように記しています。新約の346ページです。
さて、あなたがたは、過ちと罪とのために死んだ者であって、かつては罪の中で、この世の神ならぬ神に従って歩んでいました。空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な子らに今も働く霊に従って歩んでいたのです。私たちは皆、以前はこういう者たちの中にいて、肉の欲のままに生き、肉とその思いとの欲することを行い、ほかの人々と同じように、生まれながらに神の怒りを受けるべき子でした。
ここには、イエス・キリストを信じる前の私たちが、悪霊の支配の下にあったことが記されています(「この世の神ならぬ神」とは「悪魔」のことであり、「不従順な子らに今も働く霊」とは「悪霊」のことである)。
また、使徒ヨハネも、その第一の手紙の第5章19節で、次のように記しています。新約の435ページです。
私たちは神から出た者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。
はじめの人アダムは、悪魔に騙されて、悪魔に従うことによって、罪を犯してしまいました。それゆえ、アダムに任されていた全世界が悪魔の支配下に置かれることになってしまったのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の118ページです。
悪霊どもの支配下にあるゲラサ地方の人々は、イエス様に自分たちのところから出て行ってもらいたいと願いました。そこで、イエス様は舟に乗って帰ろうとされました。すると、悪霊を追い出してもらった人が、お供したいと願ったのです。この人は、自分を救ってくれたイエス様と一緒にいることを望んだのです。なぜなら、イエスと一緒に生きるとき、人は悪霊ではなく、神の霊の支配の下に生きることができるからです。つまり、神の御心に従う本当の人間として生きることができるのです。そのことは、私たちもそれぞれに体験したことであります。かつて私たちも悪霊の支配の下にありました。しかし、イエス様はそのような私たちから悪霊を追い出し、神の霊である聖霊の支配の下に生きる者としてくださったのです。そのようにして、私たちを神の御心に従う本当の人間にしてくださったのです。
悪霊を追い出してもらった人は、イエス様と一緒に行きたいと願いましたが、イエス様はこう言ってお帰しになります。「自分の家に帰って、神があなたにしてくださったことを、ことごとく話して聞かせなさい」。ここで、「神があなたにしてくださったこと」と言われていることに注意したいと思います。いと高き神の子であるイエス様の救いは、神様の救いであるのです。このように、イエス様は家族伝道をお命じになりました。そこで、彼は立ち去り、イエス様がしてくださったことを、ことごとく町中に言い広めました。自分の家族だけではなく、自分のことを鎖でつなぎ、足枷をはめ、監視していた町中の人々に、イエス様が自分にしてくださったことを喜びをもって言い広めたのです。「自分の家に帰って、神があなたにしてくださったことを、ことごとく話して聞かせなさい」。このイエス様の御言葉は、今朝、私たちに語られている御言葉でもあります。私たちにもそれぞれ救いの物語があると思います。その救いの物語を話して聞かせることによって、神の救いは広がっていくのです。