風と荒波を静めるイエス 2025年5月25日(日曜 朝の礼拝)
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風と荒波を静めるイエス
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- 村田寿和 牧師
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ルカによる福音書 8章22節~25節
聖書の言葉
8:22 ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸へ渡ろう」と言われたので、船出した。
8:23 渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた。突風が湖に吹き降ろして来て、弟子たちは水をかぶり、危なくなった。
8:24 それで、近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、このままでは死んでしまいます」と言った。イエスが起き上がって、風と荒波をお叱りになると、静まって凪になった。
8:25 イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた。弟子たちは恐れ驚いて、「一体、この方はどなたなのだろう。命じれば風も水も従うではないか」と互いに言った。ルカによる福音書 8章22節~25節
メッセージ
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今朝は、『ルカによる福音書』の第8章22節から25節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
ある日のこと、イエス様が弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸へ渡ろう」と言われたので、船出しました。ここでの「弟子たち」は、おそらく12人のことであると思います。3節に、「多くの女たちも一緒であった」とありましたが、舟の大きさから考えて、イエス様は12人だけと行動を共にされたと思います。この「湖」は、ガリラヤ湖のことです。ガリラヤ湖は、南北に20キロメートル、東西に12キロメートルほどの風光明媚(ふうこうめいび)な湖です。イエス様と弟子たちは、ガリラヤ湖の西岸から東岸へと渡ろうとしたようです。渡って行くうちに、イエス様は眠ってしまいました。イエス様は、町や村を巡って神の国を宣べ伝えて、お疲れがたまっていたのでしょう。イエス様は舟の中で眠ってしまったのです。しばらくすると、突風が湖に吹き降ろして来て、弟子たちは水をかぶり、危なくなりました。弟子たちの中には、ガリラヤ湖で漁師をしていた者がいました。シモン・ペトロとゼベダイの子ヤコブとヨハネは、ガリラヤ湖で魚を取る漁師であったのです。ですから、彼らは、これまでの経験を活かして、また、身につけてきた技術を用いて、対応したと思います。しかし、それでも、舟は荒波にもまれて沈みそうになったのです。このままでは舟が転覆してしまう危機的な状況にあったのです。それで、弟子たちは、近寄ってイエス様を起こして、「先生、先生、このままでは死んでしまいます」と言いました。ここで「死んでしまいます」と訳されている言葉は「滅んでしまいます」とも訳せます。弟子たちは、「先生、先生、このままでは滅んでしまいます」と、自分たちが危険な状態にあることを訴えるのです。今朝の「突風を静める」というお話は、『マルコによる福音書』の第4章35節から41節に記されています。『ルカによる福音書』は、『マルコによる福音書』を一つの資料として用いたと考えられています。『マルコによる福音書』の並行箇所を見ると、弟子たちはイエス様を起こして、こう言うのです。「先生、私たちが溺れ死んでも、かまわないのですか」。マルコ福音書ですと、弟子たちがイエス様が眠っていることを非難している感じで記されています。「先生、眠っていないで、私たちを助けてください」といった感じです。「先生、私たちが溺れ死んでも、かまわないのですか」。この弟子たちの言葉を、ルカ福音書は少し穏やかにして、「先生、先生、このままでは死んでしまいます」と記しました。「先生」という言葉が繰り返されることによって切迫感が表されています。ルカ福音書では、弟子たちが、イエス様に、危機的な状況にあることを伝えるだけであるのです。すると、イエス様は起き上がって、風と荒波をお叱りになると、静まって凪になりました(凪とは「風が全くやんで波が穏やかになること」の意味)。これは驚くべきことです。人間には、風と荒波を静めることなどできません。現代でもそうです。人間は風の強さや波の高さを予測することはできても、風と荒波を静めることなどできないのです。大いなる自然の前では、人間は無力な存在であるのです。けれども、イエス様が風と荒波をお叱りになると、静まって凪になったのです。イエス様が風と荒波をお叱りになったことは、この風と荒波の背後に、世界を混沌に突き落とす悪魔的な力が働いていたことを示しています。悪霊を叱って追い出されたイエス様は、風と荒波を叱って凪にされたのです(マルコ4:39「イエスは起き上がって風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた」参照)。イエス様は、弟子たちに、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われました。このイエス様の御言葉も、『マルコによる福音書』に比べると、だいぶ穏やかになっています。マルコ福音書ですと、イエス様は弟子たちにこう言われています。「なぜ怖がるのか。まだ信仰がないのか」。マルコ福音書ですと、怖がる弟子たちは信仰がないのです。しかし、ルカ福音書ですと、信仰はあるのですが、それが危機的な状況において発揮されないことが問題となっています。「あなたがたの信仰はどこにあるのか」。このように、信仰はあるのですが、いざという時に、役に立たないことが責められています。ちなみに、『マタイによる福音書』の並行箇所では、「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」と記されています。マタイが描くイエス様は、弟子たちに「信仰がない」とは言いません。ただし、その信仰は薄い、小さいのです。このように、それぞれの福音書を比べると、少しずつ違うのです。今朝は、ルカ福音書からお話していますので、ルカが記すイエス様の御言葉、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」という御言葉について考えてみたいと思います。イエス様が「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われるとき、「あなたがたの信仰」とは、弟子たちのイエス様に対する信仰であります。弟子たちは、イエス様の力ある言葉を耳で聞いて、力ある業を目で見てきました。彼らは、イエス様において、神の国が到来しているという神の国の秘義を知ることが許されている者たちであったのです。しかし、弟子たちは、イエス様が共にいてくださるにもかかわらず、「滅んでしまう」と取り乱して恐れたのです。けれども、弟子たちが取り乱して恐れるのも、しょうがないようにも思えます。と言いますのも、このとき、イエス様は眠っていたからです。「眠っていては頼りにならない」と考えて、弟子たちがイエス様を起こし、危機的な現状を訴えたことは、当然のことであると思うのです。弟子たちが、イエス様を起こして、助けを求めたのは、イエス様なら自分たちを助けてくださるという信仰があってのことです。しかし、それは、マタイ福音書が言うところの「薄い信仰」「小さな信仰」であるのです。ルカ福音書のイエス様が、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われるとき、その信仰は、イエス様に助けを求める「小さな信仰」のことではないようです。イエス様が、弟子たちに、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われる「信仰」とは、イエス様が共にいてくださることに平安を見出す「大きな信仰」のことであるのです。
今朝の御言葉で、私たちが教えられる一つのことは、イエス様が一緒にいてくださっても、危機的な状況に遭遇するということです。イエス様と一緒にいれば、順風満帆な人生を送れるのかと言えば、必ずしもそうではないということです。けれども、それはイエス様が一緒にいないということではないのです。危機的な状況にあっても、イエス様は弟子たち(私たち)と一緒にいてくださいます。問題は、弟子たち(私たち)が、イエス様をどのような御方として信じているかということです。弟子たちは、イエス様を起こして、「先生、先生、このままでは滅んでしまいます」と言いました。弟子たちにとって、イエス様は「先生」であって、「主」ではないのです。第5章に「漁師を弟子にする」というお話が記されていました。そこで、シモンは、イエス様に、「先生、私たちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言いました。そして、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになると、シモンは、イエス様の膝元にひれ伏して、「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間です」と言ったのです。イエス様のことを「先生」と呼んでいたシモンが、イエス様のことを「主」と呼ぶのです。シモンは、大量の魚を見て、イエス様に人知を超えた神の力を見たのです。今朝の御言葉においても、弟子たちに期待されているのは、イエス様に対する認識の深まりであります。イエス様のことを「先生」と呼んでいた弟子たちが、風と荒波を沈められたイエス様を何と呼ぶのか。そのことに、私たちの関心は向かいます。しかし、残念ながらそのことは記されていません。「弟子たちは恐れ驚いて、『一体、この方はどなたなのだろう。命じれば風も水も従うではないか』と互いに言った」。ここで、今朝の御言葉は終わっているのです。命じれば風も水も従わせることのできるイエス様とは、一体何者なのか。そのことを聖書から教えられたいと思います。『詩編』の第89編9節と10節をお読みします。旧約の909ページです。
万軍の神、主よ/誰があなたに並びえましょうか。力強い方、主よ/あなたのまことがあなたを囲みます。あなたは荒れ狂う海を治め、高波が起こるとき、これを鎮めます。
主が荒れ狂う海を治め、高波を鎮められるように、イエス様は風と荒波を静められたのです。
もう一箇所お読みします。『詩編』の第107編23節から31節までをお読みします。旧約の931ページです。
船で海に出た人々は/大海を渡って商いをした。この人々が深い底で/主の業、その奇しき業を見た。主が言葉を発して暴風を起こすと/波が高くなった。彼らは天に上り、深淵に下り/魂は苦難におののき/酔いどれのようによろめき、ふらつき/その知恵もことごとく錯乱した。苦難の中で主に叫ぶと/主は彼らを苦しみから導き出した。嵐を沈黙させたので、波は収まった。彼らは波が静まったので喜び/主は彼らを目指す港に導いた。主に感謝せよ。その慈しみと/人の子らになされた奇しき業のゆえに。
28節から30節に記されていることは、今朝の御言葉にそのまま当てはまります。弟子たちが苦難の中で叫ぶと、イエス様は彼らを苦しみから助け出してくださいました。イエス様は風と荒波を静めてくださり、弟子たちは無事に、ガリラヤ湖の向こう岸に着くことができたのです。
このように、詩編の御言葉に照らし合わせるならば、イエス様は主なる神その方であることが分かるのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の117ページです。
弟子たちは、イエス様が命じれば風も水も従うことを知っていながら、イエス様のことを「主」とは言いませんでした。弟子たちは、「一体、この方はどなたなのだろう」と判断を保留しているのです。それは、イエス様が疲れて眠ってしまう弱い人間であるからです。『詩編』の第121編に、「見よ、イスラエルを守る方は/まどろみもせず、眠ることもない」と記されています。しかし、イエス様は疲れて眠ってしまう御方であるのです。そのようなイエス様のことを、弟子たちは、簡単には「主」とは呼ばないのです。創造主である神が、被造物である人間となって、この地上に来てくださったことは、ユダヤ人である彼らにとって、受け入れがたいことであったのです。
まとめに入りたいと思いますが、先程、私は、イエス様が「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われる「信仰」とは、イエス様が共にいてくださることに平安を見出す大きな信仰であると申しました。また、そのような大きな信仰を持つには、イエス様をどのような御方として理解しているかが大切であると申しました。では、私たちはイエス様をどのような御方として信じているのか。イエス様は、単なる先生ではなく、風と荒波を静めることのできる、命じれば風と水をも従わせることのできる、主なる神その方であります。ですから、私たちは、主イエス・キリストと呼ぶのです。主イエス・キリストとは、「イエスは、約束の救い主であり、主なる神その方である」という私たちの信仰告白です。そして、主イエス・キリストは、私たちを愛して、十字架の死を死んでくださり、三日目に栄光の体で復活した御方であります。主イエス・キリストは、天に昇り、父なる神の右の座に着いていますが、聖霊において、私たち一人一人と共にいてくださいます。私たちの体は、聖霊においてイエス・キリストと父なる神が宿る神殿であるのです。そのことは、私たちが苦しみの中にあるときも変わりません。主イエス・キリストを信じていても、苦しみに遭います。しかし、私たちはその苦しみの中を、主イエス・キリストが共におられることを信じて、こころ安らかに歩むことができるのです。苦しみの中にあったとしても、主イエス・キリストが共にいてくださることを信じて、こころ安らかに生きる。そのような信仰こそ、イエス様が私たちに求められる信仰であるのです。いや、イエス様が、聖霊によって、私たちに与えてくださっている信仰であるのです。
讃美歌520番は、イエス様が私たちに求められる信仰をよく言い表しています。「しずけき河のきしべをすぎゆくときにも、うきなやみの荒海をわたりゆくおりにも、こころ安し、神によりて安し」。順境の時も、逆境の時も、主イエス・キリストが共にいてくださることを信じて、こころ安らかに歩んでいきたいと願います。