イエスの家族 2025年5月18日(日曜 朝の礼拝)

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イエスの家族

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 8章16節~21節

聖句のアイコン聖書の言葉

8:16 「灯をともして、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。
8:17 隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、明るみに出ないものはない。
8:18 だから、どう聞くかに注意しなさい。持っている人はさらに与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」
8:19 さて、イエスのところに母ときょうだいたちが来たが、群衆のために近づくことができなかった。
8:20 そこでイエスに、「お母様とごきょうだいたちが、お会いしたいと外に立っておられます」との知らせがあった。
8:21 するとイエスは、「私の母、私のきょうだいとは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになった。ルカによる福音書 8章16節~21節

原稿のアイコンメッセージ

 前回(先週)、私たちは、「種を蒔く人のたとえ」をご一緒に学びました。聖書において「たとえ」は、格言やことわざや謎をも含みます(ギリシャ語ではパラボーレ、ヘブライ語ではマーシャール)。「たとえ」には、物事を分かりやすく説明するという面だけではなく、物事を隠してしまう謎という面があるのです。そのことを踏まえて、今朝もイエス様のたとえを学びたいと思います。

 16節から18節までをお読みします。

 灯をともして、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、明るみに出ないものはない。だから、どう聞くかに注意しなさい。持っている人はさらに与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。

 イエス様の時代、電気はありませんから、夜になって暗くなると灯をともします。「灯」とは、器の中に油を入れて、しんを浸して、火をつけたランプのことです。お茶を入れる急須のようなものを想像していただければと思います。灯をともして、それを器で隠したり、ベットの下に置いたりする人はいません。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置くのです。これは、誰もがそのとおりにしている当たり前のことです。これは「たとえ」ですから、その意味を考えてみたいと思います。「灯」とは何か。続く17節に、「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、明るみにでないものはない」とありますので、「灯」は「隠れているもの」であり「秘められたもの」であるようです。そうであれば、「灯」は弟子たちが知ることが許されている「神の国の秘義」を意味していると言えます。「神の国の秘義」とは何か。それは、神の国が神様によってメシアとされたイエス様において到来していることです。また、イエス様の御言葉を聞くことによって、神の国の祝福にあずかることができるということです。弟子である私たちは、そのような神の国の秘義を知る者とされているのです。神の国の秘義は、「イエス・キリストの福音」とも言えます。私たちは、灯をともして、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりはしません。しかし、イエス・キリストの福音を器で隠したり、寝台の下に置いたりしていないだろうか。イエス・キリストの福音という光を、入ってくる人によく見えるように、燭台の上に置いているだろうか。そのように自己吟味を迫られるのです。イエス様は、「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、明るみに出ないものはない」と言われます。それは、私たちがイエス・キリストの福音を本当に聞いたのであれば、私たちはイエス・キリストの福音を宣べ伝えずにはおれなくなるからです。イエス・キリストの福音とは、イエス・キリストの良き知らせのことです。「イエス・キリストを神の御子、罪人の救い主と信じるならば、すべての罪を赦され、神と共に生きる永遠の命を与えられる」という良き知らせです。その良き知らせを本当に聞いた人は、その良き知らせを他の人にも伝えたいと心から願うようになるのです。イエス・キリストの福音は、「いいことを聞いた、誰にも言わないで黙っておこう」というようなものではありません。それは、灯を器で隠したり、寝台の下に置くような愚かなことです。イエス・キリストの福音は、弟子である私たちを通して、人に知られ、あらわにされる光であります。私たちは、イエス・キリストの福音という光を、主の日の礼拝ごとに、燭台の上に置いているのです。主の日の礼拝において、イエス・キリストの福音を告げ知らせ、聞くことによって、神の国の秘義は、私たちを通してあらわになるのです。また、私たちがイエス・キリストの福音を本当に聞くとき、私たちの存在そのものが変えられていきます。なぜなら、神の言葉を聞くとは、神の言葉に従うことが含まれているからです。けれども、しばしば私たちは、イエス様の御言葉を聞くだけで行わないのです(6:46~49参照)。このことを問題にしたのは、主の僕ヤコブであります。『ヤコブの手紙』の第1章22節に、こう記されています。「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの人であってはなりません」。聞いた御言葉を行わない人は、自分を欺いている。その人は本当には聞いていないのに、聞いたと思って自分を欺いているのです。御言葉を聞くとは御言葉を行うことです。なぜなら、私たちは、神の言葉を、神によって造られ、生かされ、贖われた者として聞いているからです。また、私たちはイエス・キリストの言葉を、僕として、弟子として聞いているからです。聞いても行わないなら、それは聞いているとは言えない。それは、弟子としての聞き方ではなく、群衆の聞き方です。従おうとして聞く人は持っている人であり、さらに与えられます。しかし、従う気がない人は持っていない人であり、持っていると思うものまでも取り上げられるのです。道端に落ちた種のように、その人の心から悪魔が御言葉を奪い去ってしまうのです。「だから、どう聞くかに注意しなさい。持っている人はさらに与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる」。この御言葉は、イエス・キリストの福音を聞いている私たちへの警告の言葉であるのです。

 19節から21節までをお読みします。

 さて、イエスのところに母ときょうだいたちが来たが、群衆のために近づくことができなかった。そこでイエスに、「お母様とごきょうだいたちが、お会いしたいと外に立っておられます」との知らせがあった。するとイエスは、「私の母、私のきょうだいとは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになった。

 小見出しに「イエスの母、きょうだい」とあり、その下にかっこで、(マタ12の46から50、マコ3の31から35)と記されています。これは同じような話が、『マタイによる福音書』の第12章46節から50節と『マルコによる福音書』の第3章31節から35節に記されていることを表しています。いわゆる並行個所を教えてくれているのです。この福音書を記したルカは、一つの資料として『マルコによる福音書』を用いました。その『マルコによる福音書』の第3章を開いて読んでみたいと思います。新約の65ページです。31節から35節までをお読みします。

 イエスの母ときょうだいたちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。時に、群衆がイエスの周りに座っていた。「御覧なさい。お母様と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、イエスは、「私の母、私のきょうだいとは誰か」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここに私の母、私のきょうだいがいる。神の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。」

 イエス様の母ときょうだいたちは、なぜ、イエス様のもとに来たのでしょうか。その答えは、21節と22節に記されています。

 身内の人たちはイエスのことを聞いて、取り押さえに来た。「気が変になっている」と思ったからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。

 このように、イエス様の母と兄弟たちは、イエス様を取り押さえて、ナザレに連れ帰るために来たわけです。彼らは外に立って、人をやってイエス様を呼び出します。そのような彼らに対して、イエス様の態度も冷ややかであります。イエス様は、「私の母、私のきょうだいとは誰か」と答えられるのです。そして、周りに座っている弟子たちこそ「私の母、わたしのきょうだいなのだ」と言われるのです。このように『マルコによる福音書』ですと、母と兄弟たちが弟子たちと区別されて記されています。しかし、『ルカによる福音書』では、だいぶ穏やかな感じで記されています。ルカは、ベルゼブル論争に続けて、イエス様の母と兄弟たちのことを記していません。ルカは、御言葉を聞くという文脈で、イエス様の母と兄弟たちのことを記すのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の117ページです。

 イエス様のところに母ときょうだいたちが来たのは、イエス様を取り押さえるためではなく、イエス様に会うためです。また、彼らが外に立っていたのは、群衆のために近づくことができなかったからです。『ルカによる福音書』には、「私の母、私のきょうだいとは誰か」というイエス様の言葉は記されていません。「お母様とごきょうだいたちが、お会いしたいと外に立っておられます」との知らせを聞くと、イエス様は、「私の母、私のきょうだいとは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになります。このイエス様の言葉は、母マリアと兄弟たちを排除する言葉ではありません。なぜなら、イエス様の母マリアは、天使のお告げを受けて、「私は主の仕え女(め)です。お言葉どおり、この身になりますように」と答えた敬虔な女性であるからです(1:38参照)。『ルカによる福音書』の続編である『使徒言行録』の第1章を読むと、教会の交わりの中に、イエスの母マリアとイエスの兄弟たちがいたことが記されています(使徒1:14参照)。ですから、『ルカによる福音書』において、肉親である母やきょうだいたちを含めて、イエス様の家族がどのような人たちであるのかが教えられているのです。「私の母、私のきょうだいとは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」。ここでも「聞く」ということが問題とされています。神の言葉を聞くとは、聞いて行うことであるのです(8:15「良い地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」参照)。

 21節のイエス様の御言葉をよく読むと、「私の父」が抜けていることに気づきます。イエス様は、「私の父、私の母、私のきょうだい」とは言われず、「私の母、私のきょうだい」と言われました。それは、父ヨセフがその場にいなかったからではなく、神様がイエス様の父であるからです(2:49「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるはずだということを、知らなかったのですか」参照)。ですから、21節のイエス様の御言葉は、このように言い換えることもできます。「私の母、私のきょうだいとは、父なる神の言葉を聞いて行う人たちである」。この御言葉の前提には、「私こそ、父なる神の言葉を聞いて行う神の子である」というイエス様の自己認識があります。父なる神の言葉を聞いて行うイエス様が神の子であるように、父なる神の言葉を聞いて行う人は神の子であるのです。しかし、そのように聞くと、私たちは心細くなってしまいます。なぜなら、私たちは、イエス様のように、父なる神の言葉を聞いて行うことができないからです。しかし、この父なる神の言葉が「イエス・キリストの福音」であるならば、どうでしょうか。私たちが聞いて行うべき神の言葉が「イエス・キリストの福音」であるならば、イエス・キリストを神の御子、罪人の救い主と信じて、主の日ごとに礼拝をささげている私たちは、イエス様の家族であると言えるのです。もちろん、このことは、私たちが自分の力でしていることではありません。神の言葉と共に働く聖霊が、私たちにイエス・キリストを信じさせてくださり、イエス・キリストに従いたいという思いを与えて、従う者としてくださったのです。もっと言えば、父なる神の霊である聖霊が、私たちに御子イエス・キリストを愛する愛を与えてくださって、私たちをイエス・キリストの御言葉を聞いて行う者としてくださっているのです。そのようにして、私たちは、神の御子イエス・キリストの兄弟姉妹とされ、神の家族の一員とされているのです。私たちは、神様を父とし、主イエス・キリストを長兄(一番上の兄)とする神の家族であります。そして、神の家族の特徴は、父なる神と主イエス・キリストの御言葉を聞いて行うことにあるのです。

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