種を蒔く人のたとえ 2025年5月11日(日曜 朝の礼拝)
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種を蒔く人のたとえ
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- 村田寿和 牧師
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ルカによる福音書 8章4節~15節
聖書の言葉
8:4 大勢の群衆が集まり、方々の町から人々が御もとに来たので、イエスはたとえを用いて語られた。
8:5 「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。
8:6 ほかの種は岩の上に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。
8:7 ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、それを塞いでしまった。
8:8 また、ほかの種は良い土地に落ち、芽が出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。
8:9 弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。
8:10 イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘義を知ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても悟らない』ためである。」
8:11 「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。
8:12 道端のものとは、御言葉を聞くが、後から悪魔が来て、御言葉を心から奪い去るので、信じて救われることのない人たちである。
8:13 岩の上に落ちたものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと落伍してしまう人たちである。
8:14 茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に塞がれて、実を結ぶことのない人たちである。
8:15 良い地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」ルカによる福音書 8章4節~15節
メッセージ
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今朝は、『ルカによる福音書』の第8章4節から15節より御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
イエス様の御もとに大勢の群衆が集まり、方々の町から人々が来ました。それで、イエス様はたとえを用いて語られます。国語辞典で「たとえる」と引くと、「ある事柄・物を分かりやすく説明するために、それとよく似た所のある身近な物事を引き合いに出す」と記されています。ですから、私たちが「たとえを用いて話す」と聞けば、「群衆に分かりやすく説明するために、たとえを用いたのであろう」と考えます。けれども、それだけではないようです。新約聖書は元々はギリシャ語で記されています。「たとえ」と訳される言葉は「パラボーレー」です。「パラボーレー」は「傍らに投げる」という意味で、ある事柄・物の傍らに身近なものを置いて説明するという意味です。ギリシャ語の「パラボーレー」の意味は、日本語の「たとえ」に近いと言えます。しかし、ギリシャ語の「パラボーレー」の背景には、ヘブライ語で「たとえ」と訳される「マーシャール」があるのです。ヘブライ語の「マーシャール」は、たとえだけではなくて、格言やことわざや謎をも意味します。水曜日の「聖書と祈りの会」で、『箴言』を学んでいますが、箴言も「マーシャール」であるのです(正確にはマシャールの複数形のミシュレー)。何を言いたいかというと、イエス様がたとえを用いて語られた目的は、群衆に分かりやすく説明するためというよりも、群衆と弟子をふるい分けるためであったということです。イエス様のたとえには謎の要素も含まれているということです。そのようなことを念頭に置いて、5節から8節までをお読みします。
「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は岩の上に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、それを塞いでしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽が出て、百倍の実を結んだ。」
これだけを聞くと、種を蒔く人のお話です。けれども、これはたとえであります。そのことは、イエス様がこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われたことからも分かります。イエス様が言いたいことは、種まく人の話の傍らにあるのです。イエス様は、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われることによって、群衆にこの話の意味を考えるように促しているのです。いわば謎かけをしているのです(これなーんだ?)。
種を蒔く人は、気前よく種を蒔きます。お相撲さんが土俵で塩を蒔くように、種を蒔く人は、道端であろうが、岩の上であろうが、茨の中であろうが、良い土地であろうが関係なく、種をばら蒔くのです。蒔かれたのは同じ種ですが、どのような土地に落ちるかによって、結果は違ってきます。道端に落ちた種は、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまいました。岩の上に落ちた種は、芽が出たが、水気がないので枯れてしまいました。茨の中に落ちた種は、茨も一緒に伸びて、それを塞いでしまいました。良い土地に落ちた種は、芽が出て、百倍の実を結びました。このような話をした後で、イエス様は「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われたのです。ここで、イエス様は農業について教えようとしているのではありません。イエス様は、「種を蒔くときは、良い土地に蒔けば、豊かな収穫を得られるぞ」と教えようとしているのでなくて、言いたいことはその傍らにあるのです。では、何をイエス様は教えようとしているのでしょうか。それは「神の国の秘義」についてです。
9節と10節をお読みします。
弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘義を知ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても悟らない』ためである。」
書いてはありませんが、ここでは場面が移って、イエス様と弟子たちだけであるようです(マルコ4:10参照)。ここで面白いのは、このたとえはどんな意味かと尋ねた弟子たちに対して、「あなたがたには神の国の秘義を知ることが許されている」と言われていることです。「神の国の秘義」の「秘義」と訳されている言葉(ミステーリオン)は、「奥義」(新改訳2017)とか「秘密」(新共同訳)とも訳せます。では、「神の国の秘義」「神の国の奥義」「神の国の秘密」とは、何でしょうか。それは神の国(神の王的な支配)が、神様によってメシア、王とされたイエス様において、すでに到来しているということです。また、イエス様の権威ある言葉によって、神の国の祝福にあずかることができるということです。そのことを、イエス様はたとえを用いて教えられました。「それは、『彼らが見ても見えず、聞いても悟らない』ため」であります(イザヤ6:9LXXからの引用)。先程も申しましたように、たとえ話(マーシャール)には、分かりやすく話すという面と言いたいことを隠すという謎という面があるのです。イエス様は、このたとえはどんな意味かと尋ねた弟子たちに、「あなたがたには神の国の秘義を知ることが許されている」と言われました。そして、弟子たちにこのたとえの意味を説明されるのです。『マルコによる福音書』の第4章34節に、「たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子にはひそかにすべて説明された」とあります。ですから、弟子たちが神の国の秘義を知ることが許されているとは、イエス様からたとえの説明を受けることによってであったのです。
11節から15節までをお読みします。
「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。道端のものとは、御言葉を聞くが、後から悪魔が来て、御言葉を心から奪い去るので、信じて救われることのない人たちである。岩の上に落ちたものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと落伍してしまう人たちである。茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に塞がれて、実を結ぶことのない人たちである。良い地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」
イエス様は、「種は神の言葉である」と言います。私たちは以前、第7章の「百人隊長の僕を癒やす」というお話で、イエス様の言葉が権威ある言葉であることを学びました。イエス様の言葉は、そのとおりになる、出来事になる神の言葉であるのです。では、神の言葉は、それを聞く人の心の状態にかかわりなく実を結ぶかと言えば、そうではないのです。神の言葉がどのような土地に落ちるか、神の言葉を聞く人がどのような心で聞くのかが重要な意味を持っているのです。ここには、福音を告げ知らせてきたイエス様の問題意識が語られていると言えます。「種を蒔く人」とは、町や村を巡って、福音を告げ知らせるイエス様のことです。イエス様は多くの人に、神の言葉を語ってきました。しかし、人々の中には、イエス様を信じようとしない人たちがいました。また、しばらくは信じていても、離れてしまう人たちがいました。また、途中で人生の思い煩いや富や快楽によって、弟子であることをやめてしまう人がいました。それは、なぜか。同じ神の言葉を聞いているのに、なぜ、それぞれに違いが生じるのか。それは、種が蒔かれた土地の違いによるのです。種である神の言葉と土地である人の心は、一体的になって芽を出し、葉を茂らせ、実を結ばせるのです。ここで、イエス様が、私たちに望んでいるのは、「良い土地」として、神の言葉を聞くことです。イエス様は、聖書とその解き明かしである説教によって、今日も、私たちの心に、神の言葉という種を蒔いておられます。その御言葉を私たちが「良い土地」として聞くことをイエス様は求めているのです。では、「良い土地に落ちたもの」とは、どのような人か。それは、「立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たち」です。私たちが「良い土地に落ちたもの」であるかどうかは、立派な良い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶかどうかによって分かるのです。ここでの「実」は、イエス・キリストの弟子としての善き生活であると言えます。また、私たちの内におられる聖霊が結んでくださる実、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」であると言えます(ガラテヤ5:22)。私たちがどのような土地であるかは、結果によって分かるのです。このことは、私たちに、人を選り好みせず、誰にでも、イエス・キリストの福音を宣べ伝えることを教えています。私たちには、誰が、道端に落ちた人か、岩の上に落ちた人か、茨の中に落ちた人か、良い地に落ちた人か分かりません。それは、聞いた人の振る舞いによって、後から分かることなのです。ですから、私たちはすべての人に、イエス・キリストの福音を宣べ伝えるべきであるのです。
私たちは、イエス・キリストを神の御子、罪人の救い主と信じて、救われました。また、試練に遭っても離れることなく、イエス様に従ってきました。人生の思い煩いや富や快楽が心を塞いでしまいそうになりますが、何とか弟子としての生活を続けています。そうであれば、私たちは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人、良い土地に落ちたものであると言えそうです。「言えそうです」と言うと、頼りないように思われるかも知れません。なぜ、「私たちは、良い地に落ちたもの、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちであると断言してくれないのか」と思われるかも知れません。しかし、御言葉を聞くということは、毎日のことです。そして、毎日、私たちの心の状態というものは変化するわけです。私たちは、道端のものにもなれば、岩の上に落ちたものにもなるし、茨の中に落ちたものにもなるし、良い土地に落ちたものにもなりうるのです。今朝の御言葉で問われていることは、礼拝における説教の聞き方の問題であると言えます。私たちは一人の説教者から同じ御言葉を聞きます。けれども、その感じ方はそれぞれ違うわけです。どこに原因があるのか。それは、私たちがどのような心で、説教を聞いているかということであるのです。イエス様の「種を蒔く人のたとえ」は、私たちが礼拝において、説教をどのような心で聞いているかを考えさせるたとえ話でもあるのです。「種は良い土地に蒔けば、豊かな実を結ぶと知っていながら、私は神の言葉をどのような心で聞いているだろうか」。そのことを考えさせるたとえ話であるのです。