信じて仰ぎ見る者は救われる 2025年4月16日(水曜 聖書と祈りの会)

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信じて仰ぎ見る者は救われる

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
民数記 21章4節~9節

聖句のアイコン聖書の言葉

21:4 民はホル山を旅立ち、エドムの地を迂回して、葦の海の道を進んだ。だが途中で耐えきれなくなり、
21:5 民が、神とモーセに対して「なぜ、私たちをエジプトから導き上ったのですか。この荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、私たちは、この粗末な食物が嫌になりました」と非難したので、
21:6 主は民に対して炎の蛇を送られた。これらの蛇は民をかみ、イスラエルの民のうち、多くの者が死んだ。
21:7 民がモーセのもとに来て、「私たちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。私たちから蛇を取り去ってくださるように、主に祈ってください」と言ったので、モーセは民のために主に祈った。
21:8 主はモーセに言われた。「あなたは炎の蛇を造り、竿の先に掛けなさい。蛇にかまれた人は誰でも、それを見れば、生き延びることができる。」
21:9 モーセは青銅の蛇を造り、竿の先に掛けた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生き延びた。民数記 21章4節~9節

原稿のアイコンメッセージ

 今週はイエス・キリストの苦しみと死を覚える受難週であります。それで今朝は、『民数記』の第21章4節から9節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 4節に、「民はホル山を旅立ち、エドムの地を迂回して、葦の海の道を進んだ」とあります。「ホル山」とは、モーセの兄であり、大祭司であるアロンが死んで葬られた山です。アロンに代わって、その息子のエルアザルが大祭司になりました(20:28参照)。このことは、世代交代がなされていることを教えています。世代交代は、『民数記』において大切なことです。と言いますのも、約束の地カナンに入ることができるのは、今のイスラエルの民ではなく、その子供たちであるからです。イスラエルの民は、ホル山を旅立ち、エドムの地を迂回して、葦の海の道を進みましたが、彼らはどこに向かっているのでしょうか。彼らはカナンの土地に入ることができず、またエジプトに戻ることもできず、ただ彷徨っているだけであるのです。イスラエルの民は、40年間、荒れ野を彷徨いましたが、それは主に背いた世代が死に絶えるまでに必要な年数であったのです(ただしヨシュアとカレブは除く)。そのような旅路ですから、イスラエルの民は耐えきれなくなり、神とモーセを非難してこう言います。「なぜ、私たちをエジプトから導き上ったのですか。この荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、私たちは、この粗末な食物が嫌になりました」。主がモーセを通して、イスラエルの民を奴隷の家エジプトから導き上ったのは、約束の地カナンを与えるためでした。しかし、イスラエルの民は、偵察隊の悪い噂を聞いて、不平を言い、主の言葉に聞き従わなかったのです(13、14章参照)。彼らがカナンの地に入ることができず、エジプトにも戻ることができず、荒れ野を彷徨っているのは、彼らが主を侮り、主の言葉に聞き従わなかった彼ら自身の罪のゆえであるのです。その自分たちの罪をすっかり忘れてしまって、彼らは主が初めから自分たちを荒れ野で死なせるためにエジプトから導き上ったかのように言うのです。イスラエルの民は、「パンも水もなく、私たちは、この粗末な食物が嫌になりました」と不平を言います。「この粗末な食物」とは、天からのパン、マナのことです。主は毎日マナを与えて、イスラエルの民を養ってくださいました。イスラエルの民は、主から与えられる日毎の糧を「粗末な食物」と言うのです。イスラエルの民は、主の恵みに慣れてしまって、「この粗末な食物が嫌になりました」と不平を言うのです。そのようなイスラエルの民に、主は炎の蛇を送りました。「炎の蛇」とは、毒蛇のことです。この毒蛇にかまれると燃えるような痛みが生じたので、「炎の蛇」と呼ばれたようです。また、この「炎」は主の燃える怒りを表していると言えます。この炎の蛇にかまれて、多くの者が死にました。このような主からの刑罰を受けて、イスラエルの民は、自分たちが主とモーセに対して罪を犯したことを悟るのです。民はモーセのもとに来て、こう言います。「私たちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。私たちから蛇を取り去ってくださるように、主に祈ってください」。民は、自分たちの罪を告白して、主が蛇を取り去ってくださるように祈ってほしいとモーセに願うのです。モーセは民のために主に祈りました。「イスラエルの民から炎の蛇を取り去ってください」と祈ったのです。そのモーセの祈りを受けて、主はこう言われます。「あなたは炎の蛇を造り、竿の先に掛けなさい。蛇にかまれた人は誰でも、それを見れば、生き延びることができる」。この主の言葉の背景には、古代オリエント世界にあった、「害をもたらしたものとよく似たものを用いてその害を払う」という考え方があります(サムエル上6:4、5参照)。モーセは、主の御言葉を信じて、主の御言葉どおりに、青銅の蛇を造り、竿の先に掛けました。そして、イスラエルの民は、「蛇にかまれた人は誰でも、それを見れば、生き延びることができる」という主の御言葉を信じて、青銅の蛇を見上げて、生き延びたのです。青銅の蛇そのものに救う力があったのではありません。「蛇にかまれた人は誰でも、それを見れば、生き延びることができる」と言われた主が、罪を犯したイスラエル民を救ってくださったのです(知恵の書16:5~7参照)。しかし、後に、イスラエルの民は、青銅の蛇そのものに救う力があるかのように考え、香をたくようになりました。『列王記下』の第18章に、ユダ王国の王ヒゼキヤの治世のことが記されています。その4節に、こう記されているのです。「彼(ヒゼキヤ)はまた、モーセが造った青銅の蛇を粉々に砕いた。イスラエルの人々はその頃まで、これをネフシュタンと呼んで、これに香をたいていたからである」。ヒゼキヤの時代、紀元前7世紀頃には、青銅の蛇が偶像のように扱われていたのです。それで、ヒゼキヤは石柱やアシェラ像と同じように、青銅の蛇を粉々に打ち砕いたのです。

 このお話しの最初に、今週はイエス・キリストの苦しみと死を覚える受難週であるので、『民数記』の第21章からお話ししたいと申しました。私がそのように考えたのは、イエス様が、御自分のことをモーセが竿に上げた青銅の蛇にたとえられたからです。『ヨハネによる福音書』の第3章14節と15節をお読みします。新約の164ページです。

 「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」

 イエス様は、モーセが荒れ野で青銅の蛇を竿に上げたことと、御自分が十字架に上げられることを重ねておられます。イスラエルの民が、主の御言葉を信じて、青銅の蛇を仰ぎ見て救われたように、私たちも主の御言葉を信じて、十字架につけられたイエス・キリストを仰ぎ見て救われるのです。私たちが信じるべき主の御言葉が、続く16節と17節に記されています。

 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

 この主の御言葉を信じて、十字架に上げられたイエス・キリストを仰ぎ見て、私たちは救われたのです。神様は、聖書の御言葉とその解き明かしである説教によって、私たちの心のキャンバスに、十字架につけられたイエス・キリストのお姿をはっきりと描いてくださいました(ガラテヤ3:1「ああ、愚かなガラテヤの人たち、十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前にはっきりと示されたのに、誰があなたがたを惑わしたのか」参照)。その十字架に上げられたイエス・キリストを、私たちは信仰をもって仰ぎ見て、救われたのです。イエス・キリストは、神の救いの計画に従って、御自分を信じる者が皆、永遠の命を得るようにと、自ら進んで、十字架に上げられたのです。

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