主イエスにあって 2024年4月28日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

2:19 さて、私はあなたがたの様子を知って力づけられたいので、すぐにでもテモテをそちらに遣わすことを、主イエスにあって望んでいます。
2:20 テモテのように私と同じ思いを抱き、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいません。
2:21 他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。
2:22 テモテが確かな人物であることは、あなたがたの認めるところです。子が父に仕えるように、彼は私と共に福音に仕えました。
2:23 そこで、私は自分のことの見通しがつき次第すぐ、テモテを送りたいと願っています。
2:24 私自身も間もなくそちらに行けるものと、主にあって確信しています。
2:25 ところで私は、エパフロディトをそちらに送り返さねばならないと考えています。彼は私の兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、私の窮乏のときに奉仕してくれましたが、
2:26 あなたがた一同を慕っており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです。
2:27 実際、彼は瀕死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけではなく、私をも憐れんで、苦痛を重ねずに済むようにしてくださったのです。
2:28 そういうわけで、大急ぎで彼を送り返します。そうすれば、あなたがたは彼と再会して喜ぶでしょうし、私の苦痛も和らぐでしょう。
2:29 だから、主にある者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい。
2:30 彼はキリストの業のために命を懸け、死にそうになったからです。私に対するあなたがたの奉仕の足りない分を補おうとしてくれたのです。フィリピの信徒への手紙 2章19節~30節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『フィリピの信徒への手紙』の第2章19節から30節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 パウロは、この手紙を、牢獄の中で記しています。パウロは、イエス・キリストのために投獄されており、取り調べを受け、裁判を控えていました。その裁判によって、釈放されるか、あるいは処刑されるか、分からない状態にあったのです。そのパウロが、今朝の御言葉で、テモテを遣わすことを記すのです。

 19節から24節までをお読みします。

 さて、私はあなたがたの様子を知って力づけられたいので、すぐにでもテモテをそちらに遣わすことを、主イエスにあって望んでいます。テモテのように私と同じ思いを抱き、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいません。他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。テモテが確かな人物であることは、あなたがたの認めるところです。子が父に仕えるように、彼は私と共に福音に仕えました。そこで、私は自分のことの見通しがつき次第すぐ、テモテを送りたいと願っています。私自身も間もなくそちらに行けるものと、主にあって確信しています。

 パウロは、すぐにでもテモテをフィリピに遣わすことを、主イエスにあって望んでいました。パウロは、テモテを遣わすことによって、フィリピの信徒たちの様子を知り、力づけられたいと願っていたのです。フィリピの信徒たち一同のためにいつも祈っていたパウロであるからこそ、フィリピの信徒たちのことが気がかりであったのです(1:3参照)。ここでパウロは、「主イエスにあって望んでいます」と記しています。テモテをフィリピに遣わすことは、主イエスへの祈りの中で与えられた望みであるのです。テモテをフィリピに遣わすことは、主イエスの御心に適うことであるとパウロは信じていたのです。

 パウロは、テモテを遣わすにあたり、テモテがどのような人物であるかを記します。テモテはパウロと同じ思いを抱いて、親身になってフィリピの信徒たちのことを心にかけていました。テモテは、他の人とは違って、自分のことではなく、イエス・キリストのことを追い求める人物であるのです。まさしく、テモテは、イエス・キリストの僕(奴隷)であったのです(1:1参照)。僕(奴隷)は自分の利益ではなく、主人の利益を追い求めます。テモテはイエス・キリストの僕(奴隷)として、主人であるイエス・キリストの利益を追い求めていたのです。そして、ここに、「イエス・キリストは主である」と告白する私たちのあるべき姿が記されているのです。私たちもイエス・キリストの僕たちとして、自分の利益よりも、主イエス・キリストの利益を追い求めるべきであるのです。そのような心構えで歩むとき、私たちも祈りの中で、主にある望みを抱くことができるのです。私がどうしたいかということよりも、主イエスがわたしに何を望んでおられるかを祈りの中で考え、主イエスにある望みを抱くことができるのです。自分の望みが、主イエスの御心に適うとき、その望みは主イエスにある望みとなるのです。このことは、私たちにとって力強いことです。なぜなら、聖書は、「人の心にはたくさんの企て。主の計らいだけが実現する」と教えているからです(箴19:21)。また、使徒ヨハネも、その第一の手紙で、こう記しています。「何事でも神の御心に適うことを願うなら、神は聞いてくださる。これこそ私たちが神に抱いている確信です」(一ヨハネ5:14)。私たちは、自分の望みが主の御心に適う「主にある望み」であるゆえに、聞かれるという確信をもって祈り続けることができるのです。

 フィリピの信徒たちは、テモテが確かな人物であることを知っていました。と言いますのも、テモテはパウロと一緒に、フィリピの人々に、イエス・キリストの福音を宣べ伝えたからです。『使徒言行録』の第16章を読むと、パウロとシラスが、フィリピで福音を宣べ伝えたことが記されています。そのパウロとシラスと一緒に、テモテもいたのです。パウロは、テモテのことを「子が父に仕えるように、彼は私と共に福音に仕えました」と言います。ここで注意したいことは、「子が父に仕えるように、彼は私に仕えました」とは記されていないことです。実際、パウロとテモテは親子ほど年齢が離れていました(一テモテ1:2「信仰によるまことの子テモテへ」、二テモテ1:2「愛する子テモテへ」参照)。しかし、パウロは、テモテのことを共に福音に仕える同労者であると言うのです。このようにパウロが記したのは、フィリピの信徒たちがテモテをパウロと比べて、軽んじることがないようにするためです。パウロが遣わそうとしているテモテは、パウロに引けを取らない福音宣教者であるのです。

 パウロは、すぐにでもテモテを遣わすことを、主イエスにあって望んでいるのですが、実際に遣わすのは、パウロの見通しがついた後のことです。パウロは、裁判を終えて、釈放されるか、あるいは処刑されるかが決まってからテモテを遣わすと言うのです。パウロは、裁判の結末を、テモテを通して、フィリピの信徒たちに伝えたいと考えているのです。そして、その結末は、主イエスにある確信によれば、釈放されて、フィリピの信徒たちのもとに行くことができるという良き知らせであるのです。ここでもパウロは、「主にあって確信しています」と記しています。釈放されて、フィリピの信徒たちのもとに行くことは、主イエスの御心に適った、なすべき務めである。そのように、パウロは主イエスにあって確信していたのです(1:24、25参照)。

 以前の説教において、パウロが投獄されていた場所については、ローマ説、カイサリア説、エフェソ説があるとお話ししました。そのとき、私は、パウロとフィリピの信徒たちとの間に、頻繁に交流があったことから、地理的に近いエフェソ説が有力であると申しました。25節以下に、エパフロディトを遣わすと記されていますが、このことも、パウロが投獄されていた場所がエフェソであったことを暗示しています。『使徒言行録』の第19章に、パウロがエフェソで福音を宣べ伝えたことが記されています。その22節にこう記されています。新約の247ページです。

 そして、自分に仕えている者の中から、テモテとエラストの二人をマケドニア州に送り出し、彼自身はしばらくアジア州にとどまっていた。

 『使徒言行録』には、パウロがエフェソで投獄されたことは記されていません。しかし、エフェソで執筆されたと考えられる『コリントの信徒への手紙二』で、パウロは、生きる望みさえ失った、アジア州での苦難について記しています(二コリント1:8参照)。ですから、私は、パウロがエフェソで投獄されていたと考えてよいと思います。そうすると、この22節に、パウロがテモテを遣わすという主にある望みが実現したことが記されているのです。牢獄から釈放されたパウロは、フィリピの信徒たちの様子を知るために、テモテをマケドニア州へと送り出したのです。

 また、釈放されたパウロがフィリピの教会を訪れたことは、『使徒言行録』の第20章1節から6節に記されています。第20章1節に、「マケドニア州への出発した」とあります。また、6節に、「私たちは、除酵祭の期間が明けた後フィリピから船出し」とあります。このように、パウロはフィリピの教会を訪れたのです。私たちは『使徒言行録』の御言葉から、主イエス・キリストは、パウロの主にある望みと主にある確信を実現してくださったことを知ることができるのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の356ページです。

 25節から30節までをお読みします。

 ところで私は、エパフロディトをそちらに送り返さねばならないと考えています。彼は私の兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、私の窮乏のときに奉仕してくれましたが、あなたがた一同を慕っており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです。実際、彼は瀕死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけではなく、私をも憐れんで、苦痛を重ねずに済むようにしてくださったのです。そういうわけで、大急ぎで彼を送ります。そうすれば、あなたがたは彼と再会して喜ぶでしょうし、私の苦痛も和らぐでしょう。だから、主にある者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい。彼はキリストの業のために命を懸け、死にそうになったからです。私に対するあなたがたの奉仕の足りない分を補おうとしてくれたのです。

 ここには、エパフロディトを遣わすことが記されています。テモテは、パウロの見通しがついた後で遣わされるのですが、エパフロディトは、大急ぎで遣わされます。ちなみに、私たちが学んでいる『フィリピの信徒への手紙』は、このエパフロディトの手によって、フィリピの教会に届けられたと考えられています。

 エパフロディトについては、少し先の第4章18節にこう記されています。「私はあらゆるものを受けており、有り余るほどです。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って、満ち足りています。それはかぐわしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです」。エパフロディトは、フィリピの信徒たちからの贈り物をパウロに届けて、投獄されていたパウロの身の回りのお世話をしていたようです。そのエパフロディトが、今にも死にそうな重い病にかかってしまいました。そのうわさを聞いたフィリピの信徒たちがエパフロディトのことを心配していた。また、エパフロディトも、自分の病気がフィリピの信徒たちに知られたことを心苦しく思っていたのです。しかし、神様はエパフロディトを憐れんでくださいました。これは具体的に言えば、エパフロディトの病を癒してくださり、元気にしてくださったということです。そのようにして、神様は、パウロをも憐れんでくださり、苦痛を重ねずに済むようにしてくださったのです。「苦痛」と訳されている言葉(ルペー)は、新共同訳では「悲しみ」と訳されていました。エパフロディトが瀕死の重病にかかってしまった。それはパウロにとって苦痛とも言える悲しみでした。もし、エパフロディトが死んでしまうようなことがあれば、パウロは、悲しみのうえに悲しみを重ねることになったでしょう。しかし、神様は、エパフロディトとパウロを憐れんでくださり、悲しみを重ねずに済むようにしてくださったのです。神様の憐れみによって、元気になったエパフロディトを、パウロは大急ぎでフィリピに送り返すと言います。それは、フィリピの信徒たちがエパフロディトと再会して喜ぶためであり、パウロの悲しみを和らげるためであるのです。パウロは、泣く者と共に泣く者として、フィリピの信徒たちとエパフロディトの悲しみを共有していたのです(ローマ12:15参照)。

 パウロは、エパフロディトを送り返すに際して、25節で、こう記します。「彼は私の兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、私の窮乏のときに奉仕してくれました」。パウロは、エパフロディトがフィリピの信徒たちから託された働きを立派に果たしてくれたと言うのです。このように書くのは、フィリピの信徒たちが誰も、エパフロディトのことを軽んじることがないためです。もしかしたら、フィリピの信徒たちの中に、エパフロディトのことを悪く言う人がいるかも知れない。「パウロ先生を助けるどころか、病気になってパウロ先生に負担をかけるなんて、エパフロディトは役立たずだ。他の人を遣わした方がよかった」。そのような悪口を言われることがないように、パウロは、「エパフロディトは、私の兄弟であり、福音宣教の協力者であり、共に戦った戦友である」と言うのです。また、「エパフロディトは、あなたがたの使者として、私の窮乏のときに立派に奉仕してくれた」と言うのです。それゆえ、パウロは、29節でこう記すのです。「だから、主にある者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい」。ここでも「主にある」という言葉が用いられています。パウロは、エパフロディトを主イエスにある者として受け入れるようにと言うのです。それは、エパフロディトが、キリストの業のために命を懸け、死にそうになったからです。エパフロディトは、自分の健康のことも顧みず、フィリピの信徒たちに代わって、パウロに仕えたのです。それは、エパフロディトが、パウロのことを主にあって受け入れていたからです。エパフロディトは、パウロのことを、主イエス・キリストから遣わされた使徒として重んじていたのです。

今朝の説教題を「主イエスにあって」としました。私たちの関係は、まさしく「主イエスにあって」であります。牧師と信徒との関係もそうですし、信徒と信徒との関係もそうです。私たちは、主イエスにあって望みを抱き、主イエスにあって確信し、主イエスにあって受け入れ合う。そのような主イエス・キリストの教会であるのです。

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