私と共に喜びなさい 2024年4月21日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

2:12 だから、私の愛する人たち、いつも従順であったように、私がいたときだけでなく、いない今はなおさら、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。
2:13 あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。
2:14 何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。
2:15 そうすれば、とがめられるところのない純真な者となり、ゆがんだ邪悪な時代にあって、傷のない神の子どもとなって、この世で星のように輝き、
2:16 命の言葉をしっかり保つでしょう。こうして私は、無駄に走ったわけでも、無駄に労苦したわけでもなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。
2:17 さらに、たとえ、あなたがたの信仰のいけにえと奉仕の上に、私が供え物として注がれることになったとしても、私は喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。
2:18 あなたがたも同じように喜びなさい。私と共に喜びなさい。フィリピの信徒への手紙 2章12節~18節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『フィリピの信徒への手紙』の第2章12節から18節より御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。

 パウロは、この手紙を牢獄の中で書き記しました。パウロは、キリストのために投獄されており、裁判を控えていました。パウロは、釈放されるか、処刑されるか分からない状況の中で、今朝の御言葉を記しているのです。

 12節と13節をお読みします。

 だから、私の愛する人たち、いつも従順であったように、私がいたときだけでなく、いない今はなおさら、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。

 かつて用いていた新共同訳聖書ですと、「いない今はなおさら」の後に、「従順でいて」と記されていました。「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけではなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」(新共同訳)。ここでパウロが求めていることは、フィリピの信徒たちが、パウロが共にいない今も従順であることです。この「従順」は、8節の御言葉を受けてのものです。キリストは、「へりくだって、死に至るまで/それも十字架の死に至るまで/従順でした」。イエス・キリストは、父なる神の御心に、十字架の死に至るまで従順であられた。そのイエス・キリストを「主である」と告白するフィリピの信徒たちにも、従順であることが求められるのです。私たちも「イエス・キリストは主である」と告白し、父なる神を崇める者たちであります。それゆえ、私たちにも、主イエス・キリストと父なる神に、いつも従順であることが求められるのです。

 パウロは、フィリピの信徒たちに、「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」と言います。「恐れおののきつつ」という言葉は、旧約聖書において、神様に対して用いられる言葉です(出エジプト15:16参照)。なぜ、パウロは、「恐れおののきつつ」と言うのか。それは、「救い」が神の御業であるからです。続く13節にこう記されています。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」。神様は、私たち一人ひとりの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせてくださる。そのようにして、神様は、私たちに主イエス・キリストを信じる信仰を与えてくださり、主イエス・キリストに従うことができるようにしてくださっている。そのような神の恵みに恐れおののきつつ、自分の救いを達成するように努めなさい、とパウロは言うのです。ここで、パウロが言っていることを、ウェストミンスター小教理問答の言葉で言えば、「恵みの外的手段を注意深く用いなさい」ということです。ウェストミンスター小教理問答の問85は、「罪のためにわたしたちが受けて当然である神の怒りと呪いを免れるために、神はわたしたちに何を求めておられますか」と問い、次のように告白しています。「罪のためにわたしたちが受けて当然である神の怒りと呪いを免れるために、神はわたしたちに、イエス・キリストへの信仰と、命に至る悔い改めと、それらと共に、キリストが贖いの恩恵をわたしたちに分かち与えるのにお用いになるすべての外的手段を、注意深く用いることを求めておられます」。この恵みの外的手段については、問88に記されています。問88は、「キリストが、贖いの恩恵をわたしたちに分かち与えるのにお用いになる外的手段は何ですか」と問い、次のように告白しています。「キリストが、贖いの恩恵をわたしたちに分かち与えるのにお用いになる外的で通常の手段は、キリストの諸規定、特に、御言葉と聖礼典と祈りです。これらすべてが、選びの民にとって救いのために有効とされます」。キリストの諸規定である御言葉と聖礼典と祈りがなされる場、それは主の日の礼拝です。それゆえ、私たちは、主の日の礼拝を大切にして、自分の救いを達成するように努めたいと思います。また、主の日の礼拝だけではなく、日々、自分で聖書を読み、祈りをささげる個人礼拝を大切にすることによって、自分の救いを達成するように努めたいと思います。

 14節から16節前半までをお読みします。

 何事も不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない純真な者となり、ゆがんだ邪悪な時代にあって、傷のない神の子どもとなって、この世で星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。

 「何事も不平や理屈を言わずに行う」とは、「従順である」ことを消極的に言い表した言葉です。「従順である」とは、「何事も不平や理屈を言わずに行う」ことであるのです。パウロは、この14節から16節前半を、旧約聖書の3つの箇所を背景にして記しています。一つ目は、『民数記』の第14章です。そこには、モーセに導かれてエジプトを脱出し、約束の地カナンにたどり着いたイスラエルの民が、不平を言い、理屈をこねて、主に逆らったことが記されています。旧約の220ページです。

 偵察隊の悪い報告を受けたイスラエルの人々は、モーセとアロンに不平を言い、こう言いました。2節後半から。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。この荒れ野で死んでいたらよかったのに。どうして、主は私たちをこの地に連れて来て、剣に倒れさせようとするのだろうか。私たちの妻も幼子も奪われてしまうだろう。エジプトに帰ったほうがましではないか」。そして彼らは互いに「さあ、頭を立てて、エジプトへ帰ろう」と言い合ったのです。そのようなイスラエルの民について、主はモーセとアロンにこう言われます。27節です。「この悪しき会衆は、いつまで、私に対して不平を言うのか。私は、イスラエルの人々が私に対して言い続ける不平を十分聞いた。あなたは彼らに言いなさい。私は生きている――主の仰せ。私は、あなたがたが私の耳に語ったとおり、あなたがたに対して行う。あなたがたの死体はこの荒れ野に倒れるであろう」(〜29節)。このように、主に対して不平を言って逆らった者たちは、約束の地カナンに入ることができず、荒れ野で死ぬことになったのです(ヘブライ3:16参照)。このことを念頭に置きつつ、パウロは、「何事も不平や理屈を言わずに行いなさい」と言うのです。

 今朝の御言葉の背景にある二つ目の旧約聖書の箇所は、『申命記』の第32章に記されているモーセの歌です。旧約の317ページです。4節から6節までをお読みします。

 主は岩であり、主の業は完全で/その道はことごとく正しい。主は真実の神で、偽りがなく/正しく、まっすぐな方。彼らは主に対して悪を行い/その汚れのゆえに、もはや神の子らではない。よこしまで曲がった世代だ。あなたがたはこのようにして主に恩を返すのか/愚かで知恵のない民よ。この方こそあなたを造られた父ではないか。この方があなたを造り、揺るぎない者とされた。

 5節に、「彼らは主に対して悪を行い/その汚れのゆえに、もはや神の子らではない。よこしまで曲がった世代だ」とあります。このモーセの言葉を背景にして、パウロは、フィリピの信徒たちに、「ゆがんだ邪悪な時代にあって、傷のない神の子どもとなる」と言うのです。使われている言葉は似ていますが、内容はまったく逆ですね。モーセは、イスラエルの民に対して、「その汚れのゆえに、もはや神の子らではない。よこしまで曲がった世代だ」と言いました。しかし、パウロは、フィリピの信徒たちに、「歪んだ邪悪な時代にあって、傷のない神の子どもとなる」と言うのです。それは、フィリピの信徒たちの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのが神であるからですね。同じことが、イエス・キリストを信じている私たちにも言えるのです。私たちもイエス・キリストにあって、「傷のない神の子ども」とされているのです。

 今朝の御言葉の背景にある三つ目の旧約聖書の箇所は、『ダニエル書』の第12章です。旧約の1382ページです。1節から3節までをお読みします。

 その時、大天使長ミカエルが立つ。あなたの民の子らの傍らに立つ者として。国が始まって以来、その時までなかった苦難の時が来る。しかし、その時にはあなたの民/かの書物に記録が見いだされたすべての者は救われる。地の塵となって眠る人々の中から/多くの者が目覚める。ある者は永遠の命へと/またある者はそしりと永遠のとがめへと。悟りある者たちは大空の光のように輝き/多くの人々を義に導いた者たちは/星のようにとこしえに光り輝く。

 この箇所は、死者の復活と最後の審判を教える大切な箇所です。3節に「悟りのある者たちは大空の光のように輝き、多くの人々を義に導いた者たちは星のようにとこしえに光り輝く」とあります。この御言葉を背景にして、パウロは、フィリピの信徒たちに、

「命の言葉をしっかり保っているあなたがたは、この世で星のように輝いている」と言うのです(口語訳「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている」参照)。同じことが、イエス・キリストを信じている私たちにも言えます。命の言葉を堅く持っている私たちは、この世で星のように輝いているのです。私たちは命の言葉であるイエス・キリストの福音によって、多くの人を義に導く者として、星のように光り輝いているのです(マタイ5:14参照)。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の355ページです。

 16節後半から18節までをお読みします。

 こうして私は、無駄に走ったわけでも、無駄に労苦したわけでもなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。さらに、たとえ、あなたがたの信仰のいけにえと奉仕の上に、私が供え物として注がれることになったとしても、私は喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。あなたがたも同じように喜びなさい。私と共に喜びなさい。

 フィリピの信徒たちに福音を宣べ伝え、彼らのためにいつも祈っていたパウロにとって、フィリピの信徒たちが命の言葉をしっかりと保って、この世で星のように輝いていることは、この上ない喜びでありました。そのようなフィリピの信徒たちこそ、パウロが使徒として働いた労苦の実りであり、誇りであったのです。パウロは、キリストが天から来られる日に、フィリピの信徒たちを指さして、「私はあなたの福音をこの人々に宣べ伝えました」と報告することができるのです。もちろん、ここでパウロは自分自身を誇っているのではありません。なぜなら、パウロの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神様であるからです(一コリント15:10参照)。私のような小さな者でも、同じことが言えます。私の内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神様であるのです。そして、私が牧師として働いた労苦の実り、その誇りは、羽生栄光教会の皆さんであるのです。

 17節の御言葉を読むと、パウロは、牢獄から釈放されずに、処刑されてしまう可能性を考えていたようです。「私が供え物として注がれることになったとしても」とありますが、ここで注がれるのは、パウロの血であります(新共同訳「わたしの血が注がれるとしても」参照)。パウロは、フィリピの信徒たちの信仰のいけにえと奉仕を完成するものとして、自分の死について語るのです(ローマ12:1「自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」参照)。パウロは、自分の死について語りながら、「私は喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。あなたがたも同じように喜びなさい。私と共に喜びなさい」と言います。それは、イエス・キリストを信じる者たちが、死んでも生きる永遠の命を持っているからです(ヨハネ11:25「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる」参照)。命の言葉であるイエス・キリストの福音をしっかり保っている私たちは、肉体の死を通して、イエス・キリストと共にいることになるのです(1:23「私の切なる願いは、世を去って、キリストと共にいることであり、実は、このほうがはるかに望ましい」参照)。ですから、パウロは、自分の殉教の死について語りながらも、「私は喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。あなたがたも同じように喜びなさい。私と共に喜びなさい」と言うのです。パウロだけではありません。イエス・キリストを信じている私たちも、肉体の死を前にして、喜ぶことができるのです。自分の死を悲しむであろう人たちに、「私と共に喜びなさい」と語ることができるのです(ルカ7:13参照)。

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