福音の前進 2024年3月03日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

1:12 きょうだいたち、私の身に起こったことが、かえって福音の前進につながったことを、知っていただきたい。
1:13 つまり、私が投獄されているのはキリストのためであると、兵営全体と、その他のすべての人に知れ渡り、
1:14 主にあるきょうだいたちのうち多くの者が、私が投獄されたのを見て確信を得、恐れることなくますます大胆に、御言葉を語るようになったのです。
1:15 キリストを宣べ伝えるのに、妬みと争いの念に駆られてする者もいれば、善意でする者もいます。
1:16 一方は、私が福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、
1:17 他方は、利己心により、獄中の私をいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。
1:18 だが、それが何であろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、私はそれを喜んでいます。これからも喜びます。
1:19 というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の支えとによって、このことが私の救いとなることを知っているからです。フィリピの信徒への手紙 1章12節~19節

原稿のアイコンメッセージ

 前回お話ししたことですが、パウロは、この手紙を獄中で書き記しました。パウロは、ローマ帝国の権力によって捕らえられ、投獄されていたのです。パウロが投獄されたという知らせは、フィリピの信徒たちの耳に届きました。それで、フィリピの信徒たちは、獄中にいるパウロを助けようと、エパフロディトを遣わしたのです。エパフロディトについては、第2章25節から30節に記されています。新約の356ページです。

 ところで私は、エパフロディトをそちらに送り返さねばならないと考えています。彼は私の兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、私の窮乏のときに奉仕してくれましたが、あなたがた一同を慕っており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです。実際、彼は瀕死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけでなく、私をも憐れんで、苦痛を重ねずに済むようにしてくださったのです。そういうわけで、大急ぎで彼を送り返します。そうすれば、あなたがたは彼と再会して喜ぶでしょうし、私の苦痛も和らぐでしょう。だから、主にある者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい。彼はキリストの業のために命を懸け、死にそうになったからです。私に対するあなたがたの奉仕の足りない分を補おうとしてくれたのです。

 パウロは、エパフロディトをフィリピの信徒たちのもとへ送り返すにあたって、手紙を託しました。その手紙こそ、『フィリピの信徒への手紙』であるのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の353ページです。

 12節から14節までをお読みします。

 きょうだいたち、私の身に起こったことが、かえって福音の前進につながったことを、知っていただきたい。つまり、私が投獄されているのはキリストのためであると、兵営全体と、その他のすべての人に知れ渡り、主にあるきょうだいたちのうち多くの者が、私が投獄されたのを見て確信を得、恐れることなくますます大胆に、御言葉を語るようになったのです。

 フィリピの信徒たちは、投獄されたパウロの身を案じていました。そのようなフィリピの信徒たちに、パウロは、「きょうだいたち、私の身に起こったことが、かえって福音の前進につながったことを、知っていただきたい」と言うのです。牢獄に捕らえられてしまう。このことは、普通に考えれば、福音宣教を妨げることです。しかし、パウロは、「私の身に起こったことが、かえって福音の前進につながった」と言うのです。「前進する」とは「道を切り開いて前に進む」ことを意味します。どのようにして福音は前進したのでしょうか。パウロは続けてこう言います。「つまり、私が投獄されているのはキリストのためであると、兵営全体と、その他のすべての人に知れ渡り、主にあるきょうだいたちのうちの多くの者が、私が投獄されたのを見て確信を得、恐れることなくますます大胆に、御言葉を語るようになったのです」。パウロは、ローマ帝国の権力によって捕らえられ、投獄されていました。そう聞けば、パウロは罪を犯したのだろうと考えると思います。しかし、パウロが投獄されているのは、罪を犯したからではなくて、キリストのためであるということが、兵営にいるローマ総督やローマ兵たちに知れ渡ったのです。そのようにして、パウロが投獄されている兵営において福音は前進したのです。第4章22節に、「すべての聖なる者たちから、特に皇帝の家の人たちから、あなたがたによろしくとのことです」とありますが、兵営においてもイエス・キリストを信じる者が起こされたのです。また、兵営の外においても、福音は前進しました。主にあるきょうだいたちのうちの多くの者が、パウロが投獄されたのを見て確信を得、恐れることなくますます大胆に、御言葉を語るようになったのです。パウロはキリストのために捕らえられ、投獄されている。そのように聞けば、恐れを抱いて、キリストのことを口にしなくなるのではないかと思います(辻宣道牧師は、『嵐の中の牧師たち』という書物の150頁で、「戦時中に、牧師である父親が治安維持法違反で投獄されたとき、教会員はだれも教会に近寄らなくなった」と記している)。しかし、そのようにはなりませんでした。主にあるきょうだいたちのうち多くの者が、パウロが投獄されたのを見て確信を得、恐れることなくますます大胆に、御言葉を語るようになったのです。パウロは、キリストのために投獄されていました。ですから、キリストに対する信仰を捨ててしまえば、パウロは釈放されたはずです。しかし、パウロは、キリストへの信仰を捨てませんでした。パウロは、死者を復活させてくださる神を頼りにして、福音を弁明したのです(二コリント1:9参照)。そのようなパウロの姿を見て、多くのきょうだいたちが、キリストの福音は命を懸けるに値する、永遠の命をもたらす良い知らせであるとの確信を得て、ますます大胆に御言葉を語るようになったのです。これは、福音宣教の主であるイエス・キリストの御業であります。福音宣教の主であるイエス・キリストは、投獄されているパウロを用いて、また、多くのきょうだいたちを用いて福音を前進させられるのです。その神の御業を、あなたがたにも知ってほしいとパウロは言うのです。

 15節から18節前半までをお読みします。

 キリストを宣べ伝えるのに、妬みと争いの念に駆られてする者もいれば、善意でする者もいます。一方は、私が福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、利己心により、獄中の私をいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、私はそれを喜んでいます。

 ここでパウロは、一歩踏み込んで、ますます大胆に御言葉を語る者たちの動機について記します。「キリストを宣べ伝えるのに、妬みと争いの念に駆られてする者もいれば、善意でする者もいます」。「善意でする者」とは、パウロが福音を弁明するために捕らえられているのを知って、愛の動機からキリストを宣べ伝える者のことです。『使徒言行録』を読むと、パウロがカイサリアに監禁されていたとき、ローマの総督フェリクスの前で福音を弁明したこと。また、アグリッパ王の前で福音を弁明したことが記されています(使徒24章、26章参照)。そのように、パウロは取り調べを受ける中で、福音を弁明したのです。パウロは、そのことを積極的に捉えて、「私は福音を弁明するために捕らわれている」と言うのです。パウロは自分が捕らわれていることを、福音宣教の文脈で理解しているのです。善意でキリストを宣べ伝える者たちは、捕らわれているパウロに代わって、愛の動機からキリストを宣べ伝えました。ここでの「愛」は、聖霊によって私たちの心に注がれている神の愛です。『ヨハネによる福音書』の第3章16節に、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と記されています。そのような神の愛を動機として、キリストを宣べ伝えたのです。神の愛を源とする隣人への愛から福音を宣べ伝えたのです。他方、「妬みと争いの念に駆られてする者」とは、「利己心により、獄中のパウロをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせている者」のことです。この人たちは、パウロの成功を妬み、パウロが投獄されている間に、自分たちの影響力を広めたいと思ってキリストを宣べ伝えていたようです。そのようにして、獄中のパウロを悔しがらせようとしたのです(「利己心」を新改訳2017は「党派心」と訳している)。しかし、パウロはこう言います。「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、私はそれを喜んでいます」。パウロにとって問題なのは、宣べ伝えている人の動機ではなく、宣べ伝えられている内容であるのです。「どのような動機であれ、イエス・キリストの福音が正しく宣べ伝えられているならば、わたしは喜ぶ」とパウロは言うのです。それは、イエス・キリストの福音そのものに、人を救う力があるからですね。パウロは、『ローマの信徒への手紙』の第1章16節でこう記しています。「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です」。このように、福音そのものに人を救う力があるのです。神様はイエス・キリストの福音によって、信じる者すべてに救いを与えてくださるのです。それゆえ、パウロは、誰であれ、その動機が何であれ、キリストが宣べ伝えられているならば、私は喜ぶと言うのです。

 18節後半と19節をお読みします。

 これからも喜びます。というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の支えとによって、このことが私の救いとなることを知っているからです。

 パウロは、口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされていることを、「これからも喜びます」と言います(未来形)。そして、その理由を、「あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の支えとによって、このことが私の救いとなることを知っているからです」と言うのです。「あなたがたの祈り」とは、フィリピの信徒たちの祈りのことです。フィリピの信徒たちは、パウロが投獄されたと聞いて、パウロのために祈っていました。そのフィリピの信徒たちの祈りとイエス・キリストの霊の支えによって、このことがパウロの救いとなると言うのです。「このこと」とは、パウロが投獄されたのを見た多くのきょうだいたちが確信を得て、ますます大胆に御言葉を語るようになったことですね。主にあるきょうだいたちが、パウロに代わって、キリストを告げ知らせている。そのことをパウロは「私の救いとなる」と言うのです。パウロが「私の救いとなることを知っている」と言うとき、その救いは、パウロが託された使徒としての働きと一体的な関係にあります。使徒であるパウロにとって、人々に福音を宣べ伝えることは、自分が福音に共にあずかるためでありました。パウロは、『コリントの信徒への手紙一』の第9章23節でこう記しています。「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」(新共同訳)。使徒であるパウロにとって救いとは、使徒の務めを果たすことと一体的な関係にあるのです(一テモテ4:16「自分のことと教えとに気を配り、それをしっかりと守りなさい。そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります」も参照)。パウロは、自分の救いについても、福音宣教という文脈で考えているのです。

 今朝の御言葉で教えられることは、「使徒パウロが自分の身に起こったことと自分の救いを福音宣教の文脈で考えていた」ということです。このことは、使徒的な教会である私たちの営みを考えるうえでも大切な視点です(ニケア信条「私たちは、ひとつの聖なる公同の使徒的な教会を信じます」参照)。使徒的な教会である私たちの営みの最たるもの、それは主の日の礼拝であります。私たちは、週のはじめの日に集まり、イエス・キリストの御名によって礼拝をささげています。それは、イエス・キリストが週の初めの日に復活されたからです。私たちは、イエス・キリストの復活の証人として集まり、礼拝をささげているのです。また、使徒的な教会である私たちは、主の日の礼拝において、イエス・キリストの福音を宣べ伝えています。私たちが福音を宣べ伝えているのは、私たちが福音に共にあずかるためであるのです。主の日の礼拝こそ、主イエス・キリストが聖霊によって臨在される場であり、御国の福音が宣べ伝えられ、すべての人々がその恵みに招かれる最高の機会であります(創立50周年記念「伝道の宣言」参照)。私たちが主の日ごとにささげる礼拝において、イエス・キリストの福音は前進していくのです。また、礼拝の場から祝福を受けて、福音を携えて遣わされて行く私たち一人ひとりにおいて、福音は前進していくのです。

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