エリファズの2回目の弁論を受けてのヨブの答え④ 2024年2月28日(水曜 聖書と祈りの会)

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エリファズの2回目の弁論を受けてのヨブの答え④

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨブ記 17章11節~16節

聖句のアイコン聖書の言葉

17:11 私の日々は過ぎ去り/私の企ても、心の願いも引き裂かれた。
17:12 彼らは夜を昼に変え/光を闇より近くする。
17:13 もし、私が陰府をわが家として望み/闇に寝床を広げ
17:14 墓穴に向かって、「あなたはわが父」と呼び/蛆に向かって、「わが母、わが姉妹」と言うならば
17:15 私の望みは一体どこにあるのか。/誰が私の望みを見つけるだろうか。
17:16 それは陰府に下り/私たちは皆、共に塵の上に横たわる。ヨブ記 17章11節~16節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『ヨブ記』の第17章11節から16節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 11節から16節までをお読みします。

 私の日々は過ぎ去り/私の企ても、心の願いも引き裂かれた。彼らは夜を昼に変え/光を闇より近くする。もし、私が陰府をわが家として望み/闇に寝床を広げ/墓穴に向かって、「あなたはわが父」と呼び/蛆に向かって、「わが母、わが姉妹」と言うならば/私の望みは一体どこにあるのか。誰が私の望みを見つけるだろうか。それは陰府に下り/私たちは皆、共に塵の上に横たわる。

 ヨブは、一日の内に財産と子供たちを失った者として、また、悪性の腫れ物に苦しめられ、人々から笑いぐさとされている者として、「私の日々は過ぎ去り/私の企ても、心の願いも引き裂かれた」と言います。しかし、そのようなヨブに対して、友人たちは夜を昼に変え、光を闇より近くしようと希望の言葉を語りました。12節に、「彼らは夜を昼に変え/光を闇より近くする」とありますが、この「彼ら」とは三人の友人たち、エリファズ、ビルダド、ツォファルのことです。例えば、エリファズは、第5章17節から27節でこう言っていました。旧約の767ページです。

 神から懲らしめを受ける人は幸いである。全能者の諭しを退けてはならない。神は傷つけても、また包み/打っても、その手で癒してくださる。六度苦難が襲っても、神はあなたを救い/七度襲っても、災いがあなたを打つことはない。飢饉の時には、あなたを死から救い出し/戦いの時にも、剣から救い出す。舌の鞭からあなたは隠され/滅びが来ても、あなたはそれを恐れない。滅びと飢饉をあなたは笑い/地の獣を恐れない。野の石とあなたは契約を結び/野の獣はあなたと平和に暮らすからである。あなたは自分の天幕が平和であることを知り/牧場を見回っても、あなたに欠けているものはない。あなたの子孫は多くなり/あなたの裔が地の青草のようになるのを知る。あなたは生涯を全うして墓に入る。あたかも麦の束がふさわしい時に収められるように。見よ、これが私たちの究めたところ。これを聞いて、あなた自身も知るがよい。

 このように、友人たちは、夜を昼に変え、闇よりも光を近くしようと、希望の言葉を語ったのです。しかし、ヨブは、そのような希望を到底抱くことはできないのです。

 今朝の御言葉に戻ります。旧約の784ページです。

 ヨブは、13節以下で、「もし、私が陰府をわが家として望み/闇に寝床を広げ/墓穴に向かって、『あなたはわが父』と呼び/蛆に向かって、『わが母、わが姉妹』と言うならば/私の望みは一体どこにあるのか」と言います。人生の終わりを身近に感じ、心の願いを引き裂かれたヨブは、死者の領域である陰府を、わが家として望むのです。ヨブは、陰府を自分の家とし、闇に寝床を広げて、墓穴に向かって「わたしの父」と呼び、蛆虫に向かって「わたしの母、わたしの姉妹」と呼ぶ自分のどこに望みがあるのかと言います。15節の後半から16節に、「誰が私の望みを見つけるだろうか。それは陰府に下り/私たちは皆、共に塵の上に横たわる」とあります。ヨブの希望は、ヨブが死ねば、一緒に陰府に下ってしまうのです。ヨブだけではありません。「私たちは皆、共に塵の上に横たわる」とあるように、すべての人の希望は、死にって陰府に下り、潰えてしまうのです。ここで、私たちは、イエス・キリストの使徒パウロの言葉に耳を傾けたいと思います。『ローマの信徒への手紙』の第8章18節から25節までをお読みします。新約の279ページです。

 思うに、今この時の苦しみは、将来私たちに現されるはずの栄光と比べれば、取るに足りません。被造物は、神の子たちが現れるのを切に待ち望んでいます。被造物が虚無に服したのは、自分の意志

によるのではなく、服従させた方によるのであり、そこには希望があります。それは、被造物自身も滅びへの隷属から解放されて、神の子どもたちの栄光の自由に入るという希望です。実に、被造物全体が今に至るまで、共に呻き、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。被造物だけでなく、霊の初穂を持っている私たちも、子にしていただくこと、つまり、体の贖われることを、心の中で呻きながら待ち望んでいます。私たちは、この希望のうちに救われているのです。現に見ている希望は希望ではありません。現に見ているものを、誰がなお望むでしょうか。まだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは忍耐して待ち望むのです。

 ヨブの友人たちは、神がヨブを再び祝福してくださり、財産と健康を回復してくださるという希望を語りました。そして、『ヨブ記』の最後のところを読むと、主がヨブを以前に増して祝福してくださったことが記されています(ヨブ42:12参照)。しかし、パウロに言わせると、そのような希望は希望とは言えないのです。なぜなら、それは死と一緒に陰府に下り、潰えてしまう希望であるからです。しかし、神は、イエス・キリストの復活によって、私たちに潰えることのない希望、復活の命の希望を与えてくださいました。復活されたイエス・キリストを信じる私たちには、この地上でも、陰府でも、希望が与えられています。それは、復活されたイエス・キリストとの交わりに基づく、生き生きとした希望であるのです(一ペトロ1:3参照)。

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