福音にあずかるとは 2024年2月18日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

1:3 私は、あなたがたのことを思い起こす度に、私の神に感謝し、
1:4 あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。
1:5 それは、あなたがたが最初の日から今日に至るまで、福音にあずかっているからです。
1:6 あなたがたの間で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までにその業を完成してくださると、私は確信しています。フィリピの信徒への手紙 1章3節~6節

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 先週から『フィリピの信徒への手紙』を学び始めました。『フィリピの信徒への手紙』は、キリスト・イエスの僕であるパウロが、フィリピにいるキリスト・イエスにあるすべての聖なる者たちに書き送った手紙です。そのパウロの手紙を、私たちは、自分たちに宛てて記された手紙として読み進めているのです。なぜなら、私たちも、キリスト・イエスにある聖なる者たちであるからです。私たちも、父なる神と主イエス・キリストから、罪の赦しという恵みと神様との和解という平和を与えられているのです。

 先程は第1章1節から11節までをお読みしましたが、今朝は3節から6節を中心にして、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 3節から6節までをお読みします。

 私は、あなたがたのことを思い起こす度に、私の神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。それは、あなたがたが最初の日から今日に至るまで、福音にあずかっているからです。あなたがたの間で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までその業を完成してくださると、私は確信しています。

 7節に「獄中にいるときも」とあるように、パウロはこの手紙を牢獄の中で書き記しています。にもかかわらず、パウロは、この手紙を感謝の言葉をもって書き始めます。パウロは、この手紙を「私の神」に対する感謝の言葉をもって書き始めるのです(原文では文字通り「感謝します」(ユーカリストー)という言葉から書き始められる)。パウロは、フィリピの信徒たちのことを思い起こす度に、神様に感謝していました。また、パウロは、フィリピの信徒たちのために祈る度に、いつも喜びをもって祈っていました。ここには、牧師であるパウロとフィリピの信徒たちの麗しい関係が記されています。なぜ、パウロは、フィリピの信徒たちのことを思い起こす度に、神に感謝し、喜びをもって祈ることができたのでしょうか。それは、フィリピの信徒たちが、最初の日から今日に至るまで、福音にあずかっているからです。「最初の日」とは、フィリピの信徒たちが、パウロから福音を聞いて、イエス・キリストを信じた日のことです。『使徒言行録』の第16章に、パウロとシラスが、フィリピにおいて福音を宣べ伝えたことが記されています。その最初の日のことです。そして、パウロが、この手紙を書き記している今日に至るまで、フィリピの信徒たちはイエス・キリストを信じ続けている。そのようにして彼らはパウロと福音を分かち合っているのです(「あずかる」と訳されている言葉(コイノーニア)は「共有する」「分かち合う」とも訳せる)。私が、羽生栄光教会に牧師として赴任して、20年以上が経ちました。私が2003年の8月に赴任したときから、2024年の今日に至るまで、皆さんはイエス・キリストを信じ続けて来られました。そのことを思い起こすとき、私も神様に感謝せずにはいられません。また、皆さんのために祈る度に、喜びをもって祈るのが当然であるのです。私が羽生栄光教会に赴任した時からではなく、私たちが、イエス・キリストを信じて、洗礼を受けた最初の日から、今日まで私たちはイエス・キリストを信じて、福音の恵みにあずかっているのです。

 パウロが神に感謝し、喜びをもって祈ることができる根拠は、過去と現在に留まることなく、将来へと及びます。6節でパウロはこう記しています。「あなたがたの間で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までにその業を完成してくださると、私は確信しています」。「あなたがたの間で善い業を始められた方」とは、神様のことです。そして、「善い業」とは、私たちがイエス・キリストを信じる者とされたことを指しています。イエス様は、『ヨハネによる福音書』の第6章29節でこう言われました。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」。私たちが福音を聞いて信じた最初の日から今日まで、イエス・キリストを信じているのは、イエス・キリストを信じることが、神様が私たちの内でしてくださった善い業であるからなのです。

 前回、『使徒言行録』の第16章をながながと読みました。今朝も、その一部を読みたいと思います。新約の240ページです。第16章13節から15節までをお読みします。

 安息日に、私たちは町の門を出て、祈りの場があると思われる川岸に行った。そして、そこに座って、集まっていた女たちに話をした。ティアティラ市出身の紫布を扱う商人で、神をあがめるリディアと言う女も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話しを注意深く聞いた。そして、彼女も家族の者も洗礼を受けたが、その時、「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊りください」と言って、無理やり招き入れた。

 ここには、リディアという女が、主イエス・キリストを信じて、洗礼を受けたことが記されています。なぜ、リディアは、主イエス・キリストを信じることができたのでしょうか。聖書は、「主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話しを注意深く聞いた」からであると記しています。主イエス・キリストの聖霊が、リディアの心を開いてくださり、パウロの語る福音を受け入れさせてくださったのです。同じことが、他のフィリピの信徒たちにも、また、私たちにも言えるわけです。私たちがイエス・キリストを信じることができたのは、主イエス・キリストの聖霊が私たちの心を開いて、牧師が語る福音を受け入れさせてくださったからであるのです(一コリント12:3「聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』と言うことはできません」参照)。主イエス・キリストが、御言葉と聖霊において、共にいてくださるゆえに、私たちは、今に至るまで、イエス・キリストを信じ続けることができたし、これからも、イエス・キリストを信じ続けることができるのです。私たちがイエス・キリストを信じているのは、復活されたイエス・キリストとの交わりにあずかっているからであるのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の353ページです。

 主イエス・キリストを信じること。それは、神様が私たちの内に始められた善い業であります。それゆえ、神様は、必ず、キリスト・イエスの日までにその業を完成してくださるのです。神様は始められたことを途中で放り出すような御方ではなく、必ず、成し遂げてくださるのです。6節でパウロが言っていることは、「聖徒の堅忍」という教理です(「堅忍」とは「しっかりと耐えしのぶこと」の意味)。「聖徒の堅忍について」は、『ウェストミンスター小教理問答』の問36に記されています。問36は、「この世において、義認、子とされること、聖化に伴い、あるいはそれらから生じる恩恵とは何ですか」と問い、次のように告白しています。「この世において、義認、子とされること、聖化に伴い、あるいはそれらから生じる恩恵とは、神の愛の確信、良心の平和、聖霊における喜び、恵みの増加、そして恵みの内に最後まで堅忍することです」(日本キリスト改革派教会公認訳)。また、『ウェストミンスター信仰告白』の第17章は、「聖徒の堅忍について」告白しています。その1節に、次のように記されています。「神がその愛する御子において受け入れ、有効に召し、自らの霊によって聖とされた者たちは、恵みの状態から、全面的にも、また最終的にも、落ちてしまうことはあり得ず、その状態の内で確実に最後まで堅忍し、そして永遠に救われる」(村川満、袴田康裕訳)。その証拠聖句として、『フィリピの信徒への手紙』の第1章6節があげられているのです。イエス・キリストを信じることは神の業であるゆえに、私たちは、イエス・キリストが来られる日まで、あるいは、それぞれの人生を終えて、イエス・キリストのもとへ召される日まで、福音の恵みにあずかり続けることができるのです。

 パウロが、「あなたがたの間で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までにその業を完成してくださると、私は確信しています」と記す時、その完成された状態が、第3章21節に記されています。ここでは、第3章20節と21節をお読みします。新約の357ページです。

 しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから、救い主である主イエス・キリストが来られるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、私たちの卑しい体を、御自身の栄光の体と同じ形に変えてくださるのです。

 主イエス・キリストが天から再び来られる日に、私たちは、キリストと同じ栄光の体へと変えられます。あるいは、既に死んでいれば、栄光の体で復活させられます。私たちは、その途上にある者として、主イエス・キリストを信じて、福音の恵みにあずかっているのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の353ページです。

 私は、これまで、5節の「福音にあずかっている」を、「福音の恵みにあずかっている」と解釈して話してきました。また、6節の「善い業」を「イエス・キリストを信じるという神の業」と解釈して話してきました。今朝は、最後に、もう一つの解釈を紹介したいと思います。それは、『新改訳2017』が採用している解釈です。『新改訳2017』は、5節と6節を次のように翻訳しています。

 あなたがたが最初の日から今日まで、福音を伝えることにともに携わってきたことを感謝しています。あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。

 『新改訳2017』の翻訳によれば、5節の「福音にあずかる」とは、「福音宣教にあずかること」であるのです。それゆえ、6節の「善い業」とは、「福音宣教の働き」であるのです。この解釈も、説得力があると思います。と言いますのも第4章14節と15節で、パウロはこう記しているからです。新約の358ページです。

それにしても、あなたがたは、よく私と苦しみを共にしてくれました。フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、私が福音の宣教の初めにマケドニアから出かけて行ったとき、会計を共にしてくれた教会は、あなたがたのほかに一つもありませんでした。

フィリピの信徒たちは、パウロと会計を共にすることによって、パウロの福音宣教に共にあずかってきたのです。このことは、私たちにも言えます。福音宣教の最前線は、主の日の礼拝であり、そこで語るのは、説教者である私一人です。では、私一人が福音宣教をしているのかと言えば、決してそうではありません。教会員の皆さんの祈りと献金によって、私の牧師としての働きは支えられているのです。私たちは使徒的な教会として福音を宣べ伝えているのです。イエス・キリストを信じて、洗礼を受けると、執事さんから献金袋をいただいて、献金について説明を受けます。神様の恵みに感謝して献金をささげることにより、教会の営みを、福音宣教を支える者となるのです。そのような意味で、私たちは始めの日から今日まで、福音を宣べ伝える恵みにもあずかっているのです。

 私たちが最初の日から今日まであずかっている福音が、福音の恵みであっても、あるいは、福音を宣べ伝える恵みであっても、そのことは対立することではなく、むしろ一つのことであります。なぜなら、福音を聞いて信じた人は、福音を宣べ伝える人になるからです(二コリント4:13「『私は信じた、それゆえに語った』と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、私たちも信じ、それゆえに語っているのです」参照)。信じた者は語る者となる。そのようにして、イエス・キリストの福音は、広がっていくのです。私たちは、この礼拝の場から、福音を携えて、それぞれの場所へと遣わされていくのです。礼拝が「祝福と派遣」で終わることは、このことを意味ているのです。

 今朝は最後に、『マタイによる福音書』の第28章に記されている主イエス・キリストの御言葉を読んで終わりたいと思います。新約の59ページです。第28章18節から20節までをお読みします。

 イエスは、近寄って来て言われた。「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 これが、私たちが受けている主イエス・キリストのご命令であります(大宣教命令)。私たちは、イエス・キリストの福音にあずかっている者として、イエス・キリストの福音を宣べ伝えていきたいと願います。

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