エリファズの2回目の弁論① 2024年1月24日(水曜 聖書と祈りの会)

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エリファズの2回目の弁論①

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨブ記 15章1節~16節

聖句のアイコン聖書の言葉

15:1 テマン人エリファズは答えた。
15:2 知恵ある人は風にすぎない知識で答え/東風で自分の腹を満たすだろうか。
15:3 無益な言葉で論じ/役に立たない議論をするだろうか。
15:4 あなたは神への畏れを捨て/神の前で祈ることをやめている。
15:5 あなたの口があなたの過ちを教え/あなたは悪賢い者たちの舌を選び/使っているからだ。
15:6 あなたを悪しき者とするのは/私ではなく、あなたの口。/あなたの唇があなたに逆らって答えている。
15:7 あなたは最初の人間として生まれ/丘に先立って生み出されたのか。
15:8 あなたは神の会議にあずかり/知恵を自分のものにしたのか。
15:9 あなたの知っていることを私たちが知らず/あなたが悟っているものは/私たちの内にはないのだろうか。
15:10 私たちの中には白髪の者も老いた者もいて/あなたの父よりも年上だ。
15:11 神の慰めとあなたへの優しい言葉は/あなたにとってそれほど小さなものなのか。
15:12 なぜ、あなたは取り乱すのか。/なぜ、あなたはいらだっているのか。
15:13 あなたは神に向かっていらだち/このような言葉を口から吐いている。
15:14 人とは何者なのか。清くありえようか。/女から生まれた者が正しいというのか。
15:15 神はその聖なる者たちをも信頼せず/神の目には天も清くはない。
15:16 まして忌み嫌われる者、腐敗した者/不正を水のように飲む人間はなおさらだ。ヨブ記 15章1節~16節

原稿のアイコンメッセージ

 小見出しに「ヨブと三人の友人の論争(二)」とあるように、第15章から第21章まで、2回目のヨブと三人の友人との論争が記されています。ヨブの三人の友人は、テマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファルですが、この順番で語り、それぞれにヨブが答えるという仕方で論争は進みます。2回目も、最年長者と思われるエリファズから始まります。第4章と第5章に記されているエリファズの一回目の弁論と第15章に記されているエリファズの二回目の弁論を読み比べると、ヨブに対する言葉が厳しいものになっていることに気づきます。それはヨブが友人たちを無用の医者と呼び、黙って自分の言葉を聞くように求めたからです(13:4~6参照)。先程は第15章全体を輪読しましたが、今朝は1節から16節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 1節から6節までをお読みします。

 テマン人エリファズは答えた。

 知恵ある人は風にすぎない知識で答え/東風で自分の腹を満たすだろうか。無益な言葉で論じ/役に立たない議論をするだろうか。あなたは神への畏れを捨て/神の前で祈ることをやめている。あなたの口があなたの過ちを教え/あなたは悪賢い者たちの舌を選び/使っているからだ。あなたを悪しき者とするのは/私ではなく、あなたの口。あなたの唇があなたに逆らって答えている。

 エリファズは、「知恵ある人は風にすぎない知識で答え/東風で自分の腹を満たすだろうか。無益な言葉で論じ/役に立たない議論をするだろうか」と問います。もちろん、答えは「いいえ」です。知恵ある人は風にすぎない知識で答えることはありません。また、東風で自分の腹を満たすことはありません。無益な言葉で論じ、役に立たない議論をすることもありません。そうであれば、風にすぎない知識で答え、東風で自分の腹を満たし、無益な言葉で論じ、役に立たない議論をしているヨブは、知恵ある人ではないのです。ちなみに、「風にすぎない知識」とは「束の間の空しい知識」のことです。また、「東風」とは「東の砂漠から吹きつける熱風」のことで、「暴力的な精神」を象徴しています。エリファズは、これまでのヨブの言葉を、束の間の空しい知識によるものであり、暴力的な精神から発せられた無益な言葉、役に立たない議論であると全否定するのです。さらには、ヨブが「神への畏れを捨て/神の前で祈ることをやめている」と言うのです。かつてエリファズは、第4章6節ヨブにこう言いました。「神を畏れることが/あなたの頼みではなかったのか。その歩みが完全であることが/あなたの望みではなかったのか」。このような言葉で、エリファズはヨブが神を畏れるように導こうとしたのです。しかし、第15章4節では、「あなたは神への畏れを捨て/神の前で祈ることをやめている」と断言するのです。ヨブは、三人の友人たちとの議論を打ち切って、神に語りかけました。ヨブの神への言葉が、第13章20節から第14章22節に記されていたわけですが、エリファズにとって、このような言葉を神に対して語るヨブは、「神への畏れを捨て、神の前で祈ることをやめている」のです。エリファズは、ヨブが罪を犯したゆえに、神から苦しみを受けていると考えています。そうであれば、ヨブに罪があることをエリファズは証明するべきです。しかし、エリファズにとって、その必要はないのです。なぜなら、ヨブが悪しき者であることは、ヨブの口から出る言葉が証言しているからです。

 7節から13節までをお読みします。

 あなたは最初の人間として生まれ/丘に先立って生み出されたのか。あなたは神の会議にあずかり/知恵を自分のものにしたのか。あなたの知っていることを私たちが知らず/あなたが悟っているものは/私たちの内にはないのだろうか。私たちの中には白髪の者も老いた者もいて/あなたの父よりも年上だ。神の慰めとあなたへの優しい言葉は/あなたにとってそれほど小さなものなのか。なぜ、あなたは取り乱すのか。なぜ、あなたはいらだっているのか。あなたは神に向かっていらだち/このような言葉を口から吐いている。

 7節から9節は、第13章1節と2節に記されていたヨブの言葉を受けてのものです。ヨブは、第13章1節と2節でこう言っていました。「見よ、私の目はすべてを見た。私の耳は聞いて、それを悟った。あなたがたが知っていることは私も知っている。私はあなたがたに劣らない」。このようなヨブの言葉を受けて、エリファズは、「あなたは最初の人間として生まれ/丘に先立って生み出されたのか。あなたは神の会議にあずかり知恵を自分のものにしたのか。あなたの知っていることを私たちが知らず/あなたが悟っているものは/私たちの内にないのだろうか」と言うのです。エリファズは自分たちの方がヨブより知恵があると言うのです。その理由として、自分たちの中には白髪の者も老いた者もいて、ヨブの父親よりも年上の者がいるからであると言うのです。このエリファズの言葉も、ヨブが語った言葉を受けてのものです。ヨブは第12章12節と13節でこう言っていました。「老いた者には知恵があり/長寿の者には英知があるというが/知恵と力は神と共にあり/思慮と英知も神のものである」。このように、ヨブは老いているからと言って、必ずしも知恵があるわけではないと言ったのです。しかし、エリファズは、伝統的な教えに基づいて、「自分たちの方がヨブよりも知恵がある。なぜなら、自分たちの中には老いた者がおり、ヨブの父親よりも年上の者がいるからだ」と言うのです。長い人生経験を通して得ることができる知恵というものがあるわけです。

 11節に、「神の慰めとあなたへの優しい言葉」とありますが、これは、三人の友人たちが語ってきたヨブへの言葉を指しているようです。三人の友人たちは、ヨブに臨んだ災いを耳にして、ヨブをいたわり慰めるために来ました(2:11参照)。その背後には、自分たちを通して、神はヨブを慰めてくださるという考え方があります。確かに、初めは、友人たちのヨブへの言葉は優しい言葉でした(5:17~27参照)。しかし、ヨブが自分の罪を認めず、悔い改めないので、友人たちの言葉はだんだんと激しくなっていくわけです。そして、ヨブも、正しい自分が神から不当な苦しみを受けていることを分かってくれない友人たちにいらだち、激しい言葉を語るようになるのです。そればかりか、ヨブは神に対してもいらだち、激しい言葉を吐いているとエリファズは言うのです。

 14節から16節までをお読みします。

 人とは何者なのか。清くありえようか。女から生まれた者が正しいというのか。神はその聖なる者たちをも信頼せず/神の目には天も清くない。まして忌み嫌われる者、腐敗した者、不正を水のように飲む人間はなおさらだ。

 ここでのエリファズの言葉は第7章17節以下のヨブの言葉を受けてのものです。ヨブは、第7章17節以下でこう言っていました。「人とは何者なのか/あなたがこれを大いなる者として/これに心を向けるとは。朝ごとに訪ね/絶え間なく吟味するとは。いつまで、私から目を離さず/唾を呑み込む間も/私を放っておかれないのですか」(~19節)。このヨブの言葉を受けて、エリファズも、「人とは何者なのか。清くありえようか。女から生まれた者が正しいと言うのか」と言うのです。エリファズは、人間は根源的に罪に汚れた者であると語り、ヨブの「自分は正しい」という主張を根本的に否定するのです(4:12~21参照)。ヨブは、「自分は正しい、潔白である」と主張しました。しかし、エリファズは、そのヨブを「忌み嫌われる者」「腐敗した者」「不正を水のように飲む人間」と言うのです。そのようにして、エリファズはヨブを罪に定めるのです。しかし、私たちが忘れてはならないのは、神はヨブを「私の僕」と呼ばれるほどに信頼しているということです(1:15、2:3参照)。神がヨブを信頼しているからこそ、ヨブはサタンの手に引き渡されて苦しみを受けているのです。神から信頼される正しい人であるからこそ受ける苦しみがあるのです。イエス様の苦しみはまさしくそのような苦しみでありました(一ペトロ2:20、21参照)。

 16節の後半に、「不正を水のように飲む人間」という言葉があります。人間は水を飲まずにはいられないように、不正を犯してしまうのです。これと全く反対のことを、イエス様は仰いました。今朝はそのイエス様の御言葉を読んで終わりたいと思います。新約の167ページです。『ヨハネによる福音書』第4章31節から34節までをお読みします。

 その間に、弟子たちが「先生、召し上がってください」と勧めると、イエスは、「私には、あなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。弟子たちは、「誰かが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。イエスは言われた。「私の食べ物とは、私をお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」

 人は食べ物を食べずに生きることはできません。イエス様にとって、父なる神様の御心を行うことは、食べ物を食べることと同じように、せずにはおれないことであるのです。私たちは、はじめの人アダムにあって、水を飲むように罪を犯してしまう者ですが、最後のアダムであるイエス・キリストにあって、食べ物を食べるように、父なる神の御心を行う者とされているのです。

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