ツォファルの1回目の弁論を受けてのヨブの答え⑥ 2024年1月17日(水曜 聖書と祈りの会)

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ツォファルの1回目の弁論を受けてのヨブの答え⑥

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨブ記 14章13節~22節

聖句のアイコン聖書の言葉

14:13 どうか、私を陰府にかくまい/あなたの怒りが鎮まるまで私を隠し/私のために境界を定め/私を覚えていてください。
14:14 もし人が死ねば、また生きるでしょうか。/そうであれば、解き放たれる時が来るまで/すべての苦役の日々を忍んで私は待ちましょう。
14:15 あなたが呼べば、私は答えます。/あなたの手の業を尋ね求めてください。
14:16 その時、あなたは私の歩みを数えても/私の罪には目を留めないでしょう。
14:17 私の背きを袋の中に封じ込め/私の過ちを隠すでしょう。
14:18 しかし、山は崩れ落ち/岩もその場所から移され
14:19 水は石をすり減らし/大水は地の塵を洗い流します。/そのように、あなたは人の望みを滅ぼします。
14:20 あなたは永遠に人を圧倒して、立ち去らせ/その顔形を変えて、追い払います。
14:21 その人は子らが栄誉を得ても、それを知らず/落ちぶれても、悟れません。
14:22 ただ自分の肉の痛みを覚え/その魂は自らを嘆くほかはありません。
ヨブ記 14章13節~22節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、『ヨブ記』の第14章13節から22節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 前回学んだ1節から12節で、ヨブは自分を含めた人間がどのようなものであるかを、神に語りました。人間は罪に汚れた者として生まれてくること(14:4参照)。人間は死ねば横たわるだけで、起き上がることはないとヨブは語りました(14:12参照)。今朝の御言葉はその続きとなります。

 13節から17節までをお読みします。

 どうか、私を陰府にかくまい/あなたの怒りが鎮まるまで私を隠し/私のために境界を定め/私を覚えていてください。もし人が死ねば、また生きるでしょうか。そうであれば、解き放たれる時が来るまで/すべての苦役の日々を忍んで私は待ちましょう。あなたが呼べば、私は答えます。あなたの手の業を尋ね求めてください。その時、あなたは私の歩みを数えても/私の罪には目を留めないでしょう。私の背きを袋の中に封じ込め/私の過ちを隠すでしょう。

 ここで、ヨブは、死者の領域である陰府を、神の怒りから身を避ける避難所のように語ります。かつて神はヨブとその家族を祝福してくださる恵み深い御方でありました(1章参照)。しかし、その神が御顔を隠し、自分を敵と見なすようになってしまいました。ヨブにとって神は恐るべき御方となってしまったのです。ここでヨブが語りかけているのは、かつて自分を祝福してくださった恵み深い神です。ヨブは、かつて自分を祝福してくださった恵み深い神に、「どうか、私を陰府にかくまい/あなたの怒りが鎮まるまで私を隠し/私のために境界を定め/私を覚えていてください」と言うのです。神の怒りからヨブを救うことができるのも神であるのです。そして、ヨブを神の怒りから守る避難所は、死者の領域である陰府であるのです。前回学んだ12節で、ヨブは死んだ人間が起き上がることを否定していました。しかし、今朝の御言葉の14節で、ヨブは死んだ人間が起き上がること、復活する可能性を思い描いています。「もし人が死ねば、また生きるでしょうか」。このように、ヨブは陰府にかくまわれた自分を、神が覚えていてくださり、復活させてくださることを期待しているのです。ここでヨブは、陰府での日々を「苦役の日々」と言っています。ヨブは神が怒りを鎮めて、解き放たれる時が来るまで、陰府での苦役の日々を忍んで待つと言うのです。神がヨブの名を呼んで、陰府から引き上げてくださるとき、それは、神が手の業を尋ね求めてくださるときであります。そのとき、神はかつてのように恵み深い方として、ヨブに接してくださるのです。神はヨブの罪に目を留めることなく、ヨブの背きを袋の中に封じ込め、ヨブの過ちを隠してくださるのです。『ルカによる福音書』の第15章に記されている放蕩息子の父親のように、神はヨブを迎え入れてくださるのです。このような夢をヨブは絶望のどん底で思い描くのです。

 18節から22節までをお読みします。

 しかし、山は崩れ落ち/岩もその場所から移され/水は石をすり減らし/大水は地の塵を洗い流します。そのように、あなたは人の望みを滅ぼします。あなたは永遠に人を圧倒して、立ち去らせ/その顔形を変えて、追い払います。その人は子らが栄誉を得ても、それを知らず/落ちぶれても、悟れません。ただ自分の肉の痛みを覚え/その魂は自らを嘆くほかはありません。

 ヨブは神が怒りを鎮めるまで、自分を陰府に隠し、恵み深い神として生き返らせてくださることを思い描きました。死んだ人が甦ること。それは人間にとって望みと言えます。しかし、そのような望みを、神は苛酷な現実によって滅ぼしてしまうのです。18節に、「山は崩れ落ち、岩もその場所から移され」とあります。山も岩も、確かなものを表しています。しかし、その確かなものである山も岩も、神によって崩され、移されるのです。大水が地の塵を洗い流すように、神は死によって人の望みを滅ぼされるのです。「死んだ人は生き返ることはない」という事実によって、神は人の望みを滅ぼされるのです。神は死によって人を圧倒して立ち去らせ、その顔形を変えて、追い払います。死んだ人は硬直して表情が変わってしまうのです。死んだ者、陰府にくだった者は、自分の子供たちが栄えようが、落ちぶれようが、それを知ることはできません。ヨブは、陰府においても、「自分の肉の傷みを覚え/その魂は自らを嘆くほかはありません」と言います。かつて、ヨブは、陰府をあらゆる労苦から解放されて憩う場所として語りました(3:17~19参照)。しかし、今朝の御言葉によれば、陰府においても、人は肉の痛みを覚え、その魂は嘆くのです。

 今朝の御言葉で、ヨブは、神の怒りから守ってくださる神を思い描きました。このヨブの発想は、けっして的外れではありません。と言いますのも、神の御子であるイエス・キリストは、私たちを神の怒りから救ってくださる御方であるからです。使徒パウロは、『テサロニケの信徒への手紙一』の第1章9節と10節でこう記しています。新約の366ページです。

 私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたのか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち帰って、生けるまことの神に仕えるようになり、また、御子が天から来られるのを待ち望むようになったのかを、彼ら自身が言い広めているからです。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方、来たるべき怒りから私たちを救ってくださるイエスです。

 「神の怒りから自分を救ってくださるのは神しかいない」。このヨブの考えのとおり、神は御自分の怒りから、御子イエス・キリストによって、私たちを救ってくださるのです。神は私たちを、御子イエス・キリストにあって、罪に対する御自分の怒りから救ってくださいます。イエス・キリストにあって、私たちの背きと過ちを赦し、私たちを正しい者として受けいれてくださるのです。それこそ、放蕩息子の父親のように、私たちを迎え入れてくださるのです。

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