イエス・キリストの誕生 2023年12月24日(日曜 朝の礼拝)

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イエス・キリストの誕生

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 2章1節~21節

聖句のアイコン聖書の言葉

2:1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
2:2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
2:3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
2:4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
2:5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
2:6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
2:7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
2:8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
2:9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
2:10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
2:13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
2:14 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」
2:15 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。
2:16 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
2:17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。
2:18 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。
2:19 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。
2:20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
2:21 八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。ルカによる福音書 2章1節~21節

原稿のアイコンメッセージ

序、

 今朝はイエス・キリストの御降誕をお祝いするクリスマスの礼拝です。それで今朝は、『ルカによる福音書』の第2章から御言葉の恵みにあずかりたいと思います。前回の振り返りになりますが、イエス・キリストは、神の霊である聖霊によって、ダビデ家のヨセフのいいなずけおとめマリアの胎に宿られました。聖霊によっておとめマリアの胎に宿ったイエス・キリストは、罪のない聖なる人であり、神の子であるのです。イエス・キリストは、私たち人間を罪と死の支配から救うために、聖霊によっておとめマリアの胎に宿ってくださったのです。今朝の御言葉には、そのイエス・キリストのお誕生が記されています。

1、イエス・キリストの誕生

 1節と2節にこう記されています。「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録せよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である」。皇帝アウグストゥスとは、初代ローマ皇帝のガイウス・オクタヴィアヌスのことです。「アウグストゥス」とは「尊厳者」という意味で、元老院から贈られた称号であります。皇帝アウグストゥスの在位は、紀元前31年から紀元後14年までであります。ですから、イエス様は、今からおよそ2000年前にお生まれになったのです(『マタイによる福音書』によれば、イエスが生まれたのはヘロデ大王が死んだ紀元前4年の2、3年前の紀元前6年か7年である)。ちなみに、イエス様が何月にお生まれになったかは記されていません。クリスマスが12月25日に祝われるようになったのは、紀元4世紀頃からで、当時行われていたミトラ教の太陽の誕生日の祝祭に由来すると言われています(マラキ3:20「義の太陽が昇る」参照)。

 イエス様がお生まれになったユダヤの国は、ローマ帝国の属州となっており、自分たちの王を持つことができませんでした。皇帝アウグストゥスの支配のもとに、ユダヤの国も置かれていたのです。それゆえ、ユダヤの人々も、住民登録の勅令にしたがって、おのおの自分の町へ旅立って行きました。マリアの夫であり、イエス様の法的な父親であるヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行きました。ヨセフと一緒にみごもっていた、いいなずけのマリアも上って行きました。そして、このベツレヘムで、マリアはイエス様を産むことになるのです。約束の救い主が、ベツレヘムで生まれることは、紀元前8世紀の預言者ミカが預言していました。『ミカ書』の第5章1節にこう記されています。「エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」。この預言のとおり、イエス・キリストは、ダビデの町ベツレヘムでお生まれになるのです。神様は、皇帝アウグストゥスを用いて、聖書の預言を実現されたのです(かつてペルシア帝国の王キュロスを用いて、イスラエルの民をバビロン捕囚から解放されたように)。

 ベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、はじめての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせました。飼い葉桶とは、牛や馬に食べさせる飼い葉を入れる桶のことです。このことから推測されることは、イエス様は牛や馬のいる家畜小屋でお生まれになったということです。神の子であるイエス様がお生まれになったのは、薄汚い家畜小屋であったのです。福音書記者ルカは、その理由をこう記します。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」。この御言葉は、イエス様の将来を暗示しています。イエス様は、聖書が預言する約束のメシア、救い主としてお生まれになりました。しかし、人々はイエス様を受け入れませんでした。宿屋に泊まる場所がなかったように、人々の心にもイエス様を受けいれる場所がなかったのです。

2、民全体に与えられる大きな喜び

 約束の救い主がお生まれになった。この良き知らせ(福音)は、主の天使によって、羊飼いたちにもたらされました。その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていました(必ずしも冬の寒空の下とは限らない)。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、羊飼いたちは非常に恐れました。その彼らに天使はこう言います。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」。当時、羊飼いは身分の低い者でした。羊飼いたちは皇帝アウグストゥスの住民登録からも洩れる者たちであったのです。そのような身分の低い羊飼いたちに、約束のメシア、救い主の誕生の知らせが最初に告げられたのです。天使は「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と言いましたが、その大きな喜びから羊飼いたちも洩れてはいないのです。イエス・キリストは、羊飼いのためにお生まれになった救い主であるのです。このことは、イエス・キリストがすべての人の救い主としてお生まれになったことを教えています。ですから、私たちも、このように、イエス・キリストの誕生をお祝いしているのです。

 天使は、「この方こそ、主メシアである」と言いました。「主」とは天地万物を造られた神様の御名前です。また、「メシア」と訳されている元の言葉は「キリスト」で、油を注がれた者、王を意味します。救い主としてお生まれになった男の子は、神であり、約束のメシア、王であるのです。

 天使は、羊飼いたちのために生まれた救い主のしるしとして、「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう」と言います。羊飼いにとって、家畜小屋はなじみのある場所です。おそらく、羊飼いたちも、飼い葉桶にきれいな藁を入れて、ベビーベッドにしていたのではないかと思います。それゆえ、イエス様が飼い葉桶の中に寝ていることは、羊飼いたちにとって、イエス様が自分たちのために生まれた救い主であることのしるしであるのです。もし、羊飼いたちに与えられたしるしが、「立派なお屋敷の豪華なベビーベッドに寝ている乳飲み子」であれば、どうだったでしょうか。羊飼いたちは、そのような乳飲み子を自分たちのために生まれた救い主として受け入れることができたでしょうか。おそらく、できなかったと思います。しかし実際、イエス様は飼い葉桶に寝かされた乳飲み子としてお生まれになりました。そのようにして、イエス様は私たちの救い主として、お生まれになったのです(家畜小屋はすべての人間が訪れることができる場所)。

3、天使たちの賛美

 主の天使が羊飼いたちに良き知らせを告げると、突然、この天使に天の大群が加わり、神を賛美してこう言います。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。この天使たちの賛美は、救い主がお生まれになったことを受けてのものであります。救い主の誕生は、天におられる神の栄光をほめたたえる出来事であり、地に生きる御心に適う人に平和をもたらす出来事であるのです。ここで注意していただきたいのは、「地には平和、人にあれ」とは記されていないということです。天使たちは「地には平和、御心に適う人にあれ」と歌いました。「御心に適う人」とは、ダビデの町でお生まれになったイエス様を、主メシア(キリスト)と信じて、受け入れる人のことであるのです。羊飼いたちは、その「御心に適う人」となるのです。

 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合いました。このことは、羊飼いたちも約束の救い主の誕生を待ち望んでいたことを示しています。彼らは急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝ている乳飲み子を探し当てました。その光景を見て、羊飼いたちは、幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせます。羊飼いたちは、救い主の誕生という良き知らせを告げる者となった。天使と同じ働きをする者となったのです。そのことは、今、こうして礼拝をささげている私たちにも当てはまります。私たちは、天使や羊飼いたちと同じように、救い主イエス・キリストの誕生を、人々に告げ知らせているのです(クリスマス特別伝道礼拝!)。

 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思いました。はっきり言えば、信じなかったのです。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていました。羊飼いたちから聴いた天使の言葉と天使たちの賛美の言葉を、マリアは心に納めて思い巡らしていたのです。そのようなマリアの思い巡らし(黙想)に基づいて、福音書記者ルカは、イエス・キリストの誕生の物語を記したのです。

 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神様をあがめ、賛美しながら帰って行きました。人々は、羊飼いたちの話を信じませんでした。しかし、そのことによって羊飼いたちの喜びが色褪せることはありませんでした。羊飼いたちは、飼い葉桶に寝ている乳飲み子に、自分たちのために生まれた救い主のしるしを見て、神様をあがめ、賛美しながら帰って行ったのです。このとき、羊飼いたちは、どのような言葉で神様を賛美したのでしょうか。それはおそらく、天使たちが賛美した言葉であったと思います。「いと高きところには、栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。羊飼いたちは、飼い葉桶の乳飲み子を救い主と信じる御心に適う人として、主の平和にあずかり、「いと高きところには、栄光、神にあれ」と神様をほめたたえたのです。

結、神との平和

 『ルカによる福音書』を読み進めていくと、イエス様はおよそ30歳で、救い主としての公の活動を始められたこと(ルカ3:23参照)。そして、その生涯の終わりが十字架の死であったことが記されています(ルカ23:46参照)。イエス・キリストは父なる神の御心に従って多くの人の罪を担って、十字架の死を死んでくださいました(イザヤ53章、フィリピ2:8参照)。そのようにして、イエス・キリストは御自分を信じる者たちに、罪の赦しを与えてくださるのです。その証拠として、神様は、イエス・キリストを、十字架の死から三日目に栄光の体で復活させられました。神様がイエス・キリストを復活させられたのは、イエス・キリストが罪のない正しい人であったからです。人々が罪に定めて殺したイエス・キリストを神は栄光の体で復活させられました。そのことは、イエス・キリストが神の御心に完全に適う人であったことを示しているのです。私は先程、「御心に適う人とは、イエス様を主メシア(キリスト)と信じて受けいれる人である」と言いました。しかし、そのように言えるのは、イエス・キリストが神の御心に完全に適う御方であるからなのです(ルカ3:22、ヨハネ8:29参照)。

神様は、イエス・キリストを信じる者を、イエス・キリストと同じ栄光の体で復活させてくださいます。イエス・キリストを信じる者はすべての罪を赦されて、正しい者として受けいれられ、神様との平和いただくことができるのです(ヨハネ14:27「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」参照)。天使たちは、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と歌いました。その平和とは、イエス・キリストの十字架の死と復活によってもたらされる神様との平和であるのです。そして、この神様との平和こそ、私たちが幸いな人生を生きるために必要不可欠なものであるのです。イエス・キリストを私のために生まれた救い主と信じ受け入れるとき、その人は神様との平和を与えられ、「いと高きところには栄光、神にあれ」と神様を心からほめたたえることができるようになるのです。「いと高きところには栄光、神にあれ」。この言葉は、ラテン語では「グロリア インエクセルシスデオ」となります。私たちは、この後、『讃美歌21』の263番「あら野の果てに」を歌います。その折り返しが「グロリア インエクセルシスデオ」であるのです。私たちは、イエス・キリストが与えてくださった神様との平和に生きる者として、「いと高きところには栄光、神にあれ」と、心からの賛美をささげたいと願います。

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