おとめマリアの幸い 2023年12月17日(日曜 朝の礼拝)

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おとめマリアの幸い

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 1章26節~56節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:26 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。
1:27 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。
1:28 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
1:29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
1:30 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。
1:31 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。
1:32 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。
1:33 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
1:34 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
1:35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。
1:36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。
1:37 神にできないことは何一つない。」
1:38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
1:39 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。
1:40 そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。
1:41 マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、
1:42 声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。
1:43 わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。
1:44 あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。
1:45 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
1:46 そこで、マリアは言った。
1:47 「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
1:48 身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、
1:49 力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、
1:50 その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。
1:51 主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、
1:52 権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、
1:53 飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。
1:54 その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、
1:55 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
1:56 マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。ルカによる福音書 1章26節~56節

原稿のアイコンメッセージ

序.

 来週は、主イエス・キリストの御降誕をお祝いするクリスマスの礼拝です。その心備えとして、今朝は、イエス・キリストの母となった「おとめマリアの幸い」について、ご一緒に学びたいと思います。

1、イエス誕生の予告

 26節に、「六ヶ月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた」とあります。「六ヶ月目」とは、ザカリアの妻エリサベトが男の子を身ごもってから「六ヶ月目」のことです(1:36参照)。この福音書を記したルカは、イエス・キリストの誕生に先立って、洗礼者ヨハネの誕生を記しています。ザカリアの妻エリサベトが洗礼者ヨハネを身ごもった六ヶ月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神様から遣わされました。「天使ガブリエル」は『ダニエル書』に出てくる天使です。天使ガブリエルは、油注がれた君の到来を、ダニエルに預言しました(ダニエル9:25参照)。その天使ガブリエルを、神様はガリラヤの町ナザレに住むマリアのところに遣わされたのです。マリアは「ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめ」でした。マリアの婚約者のヨセフがダビデ家の出身であることは重要です。と言いますのも、聖書は、ダビデの子孫から約束のメシア、救い主が生まれると預言しているからです。ちなみに、「ダビデ」とは紀元前1000年頃に活躍した王様です。『サムエル記下』の第7章にナタンの預言、いわゆるダビデ契約が記されています。そこで、主なる神は、預言者ナタンを通して、ダビデにこう約束されました。「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎない者とする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える」(サムエル下7:12、13)。このダビデに対する約束のとおり、神様は、ダビデの子孫であるヨセフの息子として、約束のメシア、救い主を遣わしてくださるのです。

 天使は、マリアのところに来て、こう言います。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。マリアは、この言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込みました。すると、天使はこう言います。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を生むが、その子をイエスと名付けなさい。この子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」。ここで天使は、「マリア」と名前で呼びかけています。天使がこれから語ることは、他ならぬマリアに対するお告げであるのです(人違いではない)。天使はマリアに、「あなたは神から恵みをいただいた」と言います。この神様からの恵みとは「身ごもって男の子を産む」ことですね。子供は神様からの授かりものであり、大きな恵みであります。しかも、マリアは約束の救い主を身ごもることになるのです。天使は、その子をイエスと名付けるように命じます。イエスとは「主は救い」という意味です。救い主としてお生まれになる男の子は、「主は救い」という意味のイエスと名付けられるのです。32節と33節には、その子がどのような人になるかが語られています。「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」。ここで言われていることは、ダビデ家のヨセフのいいなずけであるマリアから生まれる男の子は、『サムエル記下』の第7章に記されているダビデ契約を実現する者であるということです。

 天使は、マリアに、「あなたは神から恵みをいただいた」と告げました。しかし、マリアはまだ男の人を知らない処女、おとめであったのです。それで、マリアは天使にこう言います。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」。すると天使はこう答えます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」。ここで、天使は驚くべきことを告げます。神の霊である聖霊がマリアに降り、神の力がマリアを包むことによって、マリアはおとめでありながら、男の子を身ごもるというのです(創世1:1,2、出エジプト40:34、イザヤ7:14参照)。人間は誰もが、夫婦の営みによって生まれてきます。しかし、イエス・キリストは、聖霊によっておとめマリアの胎に宿られたのです。それゆえ、イエス・キリストは聖なる者、神の子と呼ばれるのです。聖霊によっておとめマリアの胎に宿り、お生まれになったイエス・キリストは、罪のない聖なる人であり、神様を父とする神の子であるのです。それは、私たちを罪と死から救ってくださるためであったのです。先程、私は、「イエス」という名前は「主は救い」という意味であると言いました。では、イエス・キリストは、私たちを何から救ってくださるのでしょうか。それは、「罪と死の支配から」です(マタイ1:21、ローマ6:23参照)。イエス・キリストは、私たちに代わって神の掟を完全に守り、私たちに代わって罪の刑罰としての十字架の死を死ぬことによって、私たちを罪と死の支配から救ってくださいます。そのために、約束の救い主は罪のない聖なる人であり、神の子である必要があったのです(ウェストミンスター大教理問38~40参照)。イエス・キリストは、罪のない聖なる人であり、神の子であるゆえに、多くの人の罪を担い、多くの人を贖うことができるのです(イザヤ53:12b「多くの人の過ちを担い/背いた者たちのために執り成しをしたのは/この人であった」参照)。

 「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」。この信じがたいことのしるしとして、天使は、マリアの親類エリサベトが年をとっているのに身ごもったことを告げます。そして、最後にこう言うのです。「神にできないことは何一つない」(創世記18:14「主に不可能なことがあろうか」参照)。この天使の言葉を受けて、マリアはこう言います。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」。このようにマリアは、天使の言葉を受け入れたのです。天使が告げた神の言葉が、この身に実現しますようにと、マリアはすべてを神様にゆだねたのです。

2、エリサベトを訪ねるマリア

 天使は、おとめであるマリアが聖霊によって身ごもることのしるしとして、マリアの親類エリサベトが年を取っていながら身ごもったこと。不妊の女と言われていたのに、もう六ヶ月になっていることを告げました。それで、マリアは、エリサベトの住む、ユダの町に出かけて行きました。マリアは、神様からいただいた恵みを共に喜ぶために、エリサベトのもとに出かけたのです。マリアがザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶すると、エリサベトの胎の子はおどりました(いわゆる胎動)。エリサベトの胎の子は、イエス様の道を準備する洗礼者ヨハネです。ヨハネは、母エリサベトのお腹の中にいるときから、イエス様を証しする者であったのです(このとき、マリアは聖霊によって男の子を身ごもっていたようです)。エリサベトは聖霊に満たされて声高らかにこう言います。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」。このエリサベトの言葉は、第1章26節から38節に記されている天使とマリアとのやりとりを前提にしています。ですから、エリサベトは、マリアの口から天使が自分に現れたこと、天使から言われたこと、マリアが天使に言ったことを聞いたうえで、聖霊に満たされて語ったのだと思います。56節によれば、マリアは三ヶ月ほどエリサベトのところに滞在したので、その滞在期間中にいろいろと語り合ったのだと思います。エリサベトは、マリアの言葉を真実であると受け入れました。それは、エリサベト自身が、年をとった不妊の女でありながら、天使の言葉どおり、男の子を身ごもっていたからです。また、エリサベトの胎にいる男の子が喜び踊ったからです。それゆえ、エリサベトは、マリアのことを「わたしの主のお母さま」と呼ぶのです。また、エリサベトはこう言います。「主がおっしゃたことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」。この言葉は、38節のマリアの言葉、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」という言葉を受けているわけですね。マリアの幸い、それは、「主がおっしゃたことは必ず実現する」と信じて、その主に自分の身をゆだねたことにあるのです。そして、ここに、私たちの幸いもあるのです。聖霊によっておとめマリアが男の子を身ごもる。これは、人間の常識から考えれば、あり得ないことです。しかし、私たちは、神の言葉である聖書がそのように告げているゆえに信じているのです。「主がおっしゃったことは必ず実現する」という信仰によって、私たちも、「イエス・キリストが聖霊によっておとめマリアの胎に宿られた」と信じているのです。それは、私たちが十字架の死から復活して天に昇られたイエス・キリストの聖霊を与えられているからでもあります。私たちは、十字架の死から復活して今も活きておられるイエス・キリストの聖霊を宿しているゆえに、聖書に書いてあるとおり、「イエス・キリストは聖霊によっておとめマリアの胎に宿られた」と信じているのです。私たちは、十字架に死から復活されたイエス・キリストが、聖霊によっておとめマリアの胎内に宿りお生まれになったことを信じているのです(私たちはイエス・キリストの復活の光の中で、イエス・キリストの処女降誕を信じている)。

3、マリアの賛歌

 46節から55節には、マリアの賛歌、いわゆるマグニフィカート(「崇める」のラテン語訳)が記されています。マリアは、エリサベトの言葉を受けて、こう言います。 

「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

ここでマリアは、身分の低い自分を、主イエス・キリストの母親としてくださった、神の偉大な御業をたたえます。そして、そのことは、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げる主に、ふさわしいことであるのです。マリアは、自分の身に起こったこと、聖霊によって神の子を宿したことを、神様のイスラエルに対する約束の文脈で理解しています。神様は、ご自分の民イスラエルに、メシア、救い主を遣わすと約束してくださいました。そして、その救いは、イスラエルを超えて、すべての民の与えられるのです。55節に、「アブラハム」の名前がでてきます。アブラハムは、紀元前2000年頃の人物で、イスラエルの先祖です。そのアブラハムに、主はこう言われていました。「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。・・・地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」(創世12:2、3)。神様は、地上のすべての氏族を祝福するために、約束の救い主を、この地上に遣わしてくださったのです。神様は、アブラハムの子孫であり、ダビデの子孫であるイエス・キリストにあって、すべての人を祝福してくださいます。主は、身分の低い私たちに目を留めてくださり、聖霊によって、主イエス・キリストを信じる信仰を与えてくださいました(一コリント1:26~31、12:3参照)。そのようにして神様は、私たちを祝福し、幸いな者としてくださったのです。神様が私たちに与えてくださった幸い、それは私たちがイエス・キリストを信じて、罪と死の支配から救われ、永遠に神様と共に生きることであるのです。

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