イエス・キリストの復活 2023年4月09日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

イエス・キリストの復活

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 24章36節~53節

聖句のアイコン聖書の言葉

24:36 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
24:37 彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。
24:38 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。
24:39 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」
24:40 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。
24:41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。
24:42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、
24:43 イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
24:44 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
24:45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、
24:46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
24:47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、
24:48 あなたがたはこれらのことの証人となる。
24:49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
24:50 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。
24:51 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。
24:52 彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、
24:53 絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
ルカによる福音書 24章36節~53節

原稿のアイコンメッセージ

 教会の暦によると、今朝はイエス・キリストの復活を祝うイースターの礼拝であります。それで今朝は、イエス・キリストの復活についてお話ししたいと思います。

 聖書は、イエス・キリストの十字架の死に続いて、イエス・キリストの御遺体が、アリマタヤのヨセフによって、墓に葬られたこと。その三日目の週のはじめの日に、婦人たちが墓に行くと、墓の中が空っぽであったことを記しています。空っぽの墓の中で、婦人たちは、二人の天使に出会います。天使たちはこう言います。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」。このように、天使たちは、婦人たちに、イエス様が予告されていたとおり、復活されたことを伝えるのです。婦人たちは、墓から帰って、十一人と他の弟子たちに、一部始終を伝えました。婦人たちの話を聞いて、弟子たちは喜んだかと言うと、そうではありません。使徒たちは、婦人たちの話をたわ言のように思って、信じなかったのです。ペトロは、立ち上がって墓へ走っていきました。身をかがめて中をのぞくと、イエス様の体を包んでいた亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰って行きました。ペトロは、空っぽの墓と残された亜麻布という状況証拠を見ながらも、イエス様の復活を信じられなかったのです(亜麻布が残されていたことは、イエス様の体が盗まれたのではない証拠と言える)。

 それに続いて、聖書は、エマオという村へ向かう二人の弟子にイエス様が現れてくださったことを記します。この二人は、自分たちと一緒に歩いている男が、イエス様だとは気づきません。イエス様と一緒に歩いて、言葉を交わしながら、その男がイエス様だとは気づかないのです。気づかないで、イエス様が復活されたという話をするのです。この二人が、自分たちと一緒に歩いている男が、イエス様だと分かるときが来ます。それは、一緒に食事の席について、イエス様がパンを裂かれたときでした。イエス様から裂かれたパンを受け取ったとき、二人の目が開け、目の前にいる男がイエス様だと分かったのです。しかし、分かった途端、イエス様の姿が見えなくなってしまうのです。そして、二人の弟子はこう言うのです。「道で話しておられたとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」。イエス様から聖書の解き明かしを聞いて、さらには、イエス様から裂かれたパンを受けて、二人の弟子の目は開かれて、自分たちの目の前にいる男が、イエス様だと分かったのです。このことは、何を教えているのでしょうか。それは、聖書の御言葉が解き明かされ、主の晩餐の礼典が行われる礼拝においてこそ、私たちは、復活されたイエス・キリストにお会いすることができるということです。言い方を変えると、復活されたイエス・キリストは、聖書の解き明かしである説教と主の晩餐の礼典を用いて、私たちに出会ってくださるということです。そのとき、婦人たちの言葉が、たわごとではなく、真実であると悟ることができるのです。そのとき、復活の知らせが、喜びの知らせとなるのです。

 二人の弟子は、急いでエルサレムへと戻りました。すると、十一人とその仲間が集まって、「本当に主は復活して、シモンに現れた」と言っていたのです。復活されたイエス・キリストは、御自分との関係を三度否定したペトロに現れてくださいました。そのようにして、ペトロを立ち直らせてくださったのです。二人の弟子たちも、エマオの村で復活されたイエス様にお会いしたことを話しました。この続きとして、今朝の御言葉が記されています。

 こういう話をしていると、イエス様御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。しかし、弟子たちは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思いました。死んだイエス様の霊が現れた、イエス様の幽霊が現れたと考えたのです。弟子たちは、イエス様は本当に復活したと話していたのにも関わらず、実際にイエス様が現れると、亡霊を見ているのだと思ったのです。それは、イエス様が突然、彼らの中に立たれたからだと思います。イエス様は、弟子たちのいる家の扉をノックして、その扉から入って来て、弟子たちの真ん中に立たれたのではなく、突然、弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。それで、弟子たちは、イエス様の亡霊を見ていると思って恐れおののいたのです。そのような弟子たちに、イエス様はこう言われます。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」。そして、イエス様は、手と足を見せられたのです。日本でも、「幽霊には足がない」と言われますが、イエス様にはちゃんと、手と足があるのです。そして、その手と足は触ることができるのです。イエス様は、確かに体をもって復活されたのです。弟子たちは、喜びのあまり信じられず、不思議がっていました。紀元1世紀に生きる弟子たちにとっても、死者の復活は信じがたいことであったのです。それで、イエス様は、弟子たちの見ている前で、焼いた魚を一切れ食べられたのです。そのようにして、イエス様は、御自分が確かに体をもって復活されたことを示されたのです。けれども、イエス様は、朽ちてしまう体に復活されたのではありません。ヤイロの娘やナインのやもめの息子のように、息を吹き返したのではないのです。エマオにおいて、弟子たちの前から姿を消してしまったように、また、突然、弟子たちの真ん中に立たれたように、イエス様は、空間に縛られない、天に属する体、栄光の体で復活させられたのです(一コリント15:31~43参照)。イエス様は弟子たちにこう言われました。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」。「モーセの律法と預言者の書と詩編」。これはひと言でいうと、当時の聖書、旧約聖書全体のことです。イエス様は、御自分の十字架の死と死者の中からの復活を、聖書の預言の成就であると言われるのです。そして、そのことは、イエス様が復活される前に、弟子たちに何度も語って来たことであったのです。イエス様は、御自分の十字架の死と復活について、三度、予告して来ました(9:21,22、9:44、18:31~33)。イエス様は、聖書の預言の実現として、十字架の苦難の死を死なれ、三日目に栄光の体で復活されたのです。そして、イエス様は、聖書を悟らせるために、弟子たちの心の目を開いて、こう言われるのです。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また罪の赦しを得させるための悔い改めが、その名によってあらゆる国々の人々に宣べ伝えられる』と」。このような言葉が、旧約聖書のどこかに記されているわけではありません。この言葉は、むしろ、旧約聖書を正しく読み解くための筋道であります。聖書全体が、苦しみを受けて、三日目に死者の中から復活するメシアの到来を預言しているのです。そして、そのようなメシアの名によって、罪の赦しを得させる悔い改めがあらゆる国の人々に宣べ伝えられることを預言しているのです。

 この福音書を記したルカは、その続編として、『使徒言行録』を記しています。そこで、ルカは、イエス・キリストの弟子たちが、イエス・キリストの名によって罪の赦しを得させるための悔い改めを、あらゆる国の人々に宣べ伝えたことを記します。ユダヤ人だけではなく、ギリシア人を始めとする異邦人にも、イエス・キリストの御名によって罪の赦しを得させる悔い改めを宣べ伝えたのです。それは、弟子たちが自分たちの力でしたことではありません。イエス様は、続けて、こう言われます。「エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまで、都にとどまっていなさい」。「父が約束されたもの」とは何でしょうか。それは、神の霊、聖霊のことです。かつて、イエス様は、「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と言われました(11:13)。その神の霊、聖霊を、イエス様は弟子たちに送ってくださるのです。イエス様は、聖霊を弟子たちに送るために、父なる神がおられる天へと昇られるのです。イエス・キリストの復活は、天へと昇り、弟子である私たちに聖霊を与えるためであったのです。そして、聖霊を与えられた弟子たちは、エルサレムから始めて、ユダヤ、サマリアばかりでなく、地の果てに至るまで、イエス・キリストの御名による罪の赦しを得させるための悔い改めを宣べ伝えたのです。その聖霊が、私たちにも与えられています。私たちもイエス・キリストの聖霊によって、力を与えられて、イエス・キリストの御名による罪の赦しを得させるための悔い改めを宣べ伝えているのです。神に立ち帰って、イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、すべての罪を赦されて、神様との平和を受けることができる。死に勝利する復活の命に生きることができる。そのように、大胆に宣べ伝えているのです。

 イエス様は、弟子たちをベタニアの辺りまで連れて行き、両手を上げて祝福されました。このイエス様のお姿は、大祭司の祝福を思い起こさせます(民数6:22~27参照)。イエス様は、両手を挙げて、祝福しながら、弟子たちを離れ、天にあげられました。このことは、天にあげられたイエス・キリストが永遠の大祭司として、弟子たちを祝福しておられることを示しています。イエス・キリストの弟子である私たちは、イエス・キリストの祝福の中に生かされているのです。そのことを目に見える仕方で確認するのが、礼拝の最後に行われる「派遣と祝福」です。私たちは、「派遣と祝福」によって、私たちがイエス・キリストの祝福に生かされていることを確認するのです。もっと大胆に言えば、イエス・キリストの祝福を受けるのです。私たちは、主イエス・キリストの祝福を受けて、それぞれの場所へと遣わされて行くのです。

 天に上げられたイエス・キリストを、弟子たちは伏し拝みました。これは、神として礼拝したということです。イエス・キリストこそ、人となられた神の御子であられます。それゆえ、私たちは、父なる神と等しい御方として、主イエス・キリストを礼拝しているのです。私たちは、「神は唯一である」と信じています。しかし、その唯一の神は、父と子と聖霊なる三つにしてただ一人の、三位一体の神であるのです。

 『ルカによる福音書』は、その始めに、クリスマスの出来事を記しました。天使は、羊飼いたちに、「民全体に与えられる大きな喜び」を告げました。そして、飼い葉桶に寝かされた乳飲み子を見つけた羊飼いたちは、神を崇め、賛美しながら帰って行きました。その羊飼いたちのように、イエス・キリストの弟子たちは、大喜びでエルサレムに帰り、神殿で神をほめたたえていたのです。このように、『ルカによる福音書』は、大きな喜びで始まり、大きな喜びで幕を閉じるのです。この喜びは、私たちにも与えられている喜びであります。使徒パウロは、第一コリント書の第15章20節で、「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」と記しています。イエス・キリストの復活は、イエス・キリストを信じる私たちの初穂(最初の実り)であり、その保証であるのです。私たちは、イエス・キリストが再び来られる時、イエス・キリストと同じ栄光の体で復活させられるのです。それゆえ、イエス・キリストの復活を喜ぶことは、私たち自身の復活を喜ぶことでもあるのです。私たちは、私たち自身の復活を祝う先取りとして、イエス・キリストの復活をお祝いしているのです。

関連する説教を探す関連する説教を探す