イエス・キリストの死 2023年4月02日(日曜 朝の礼拝)

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イエス・キリストの死

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 23章32節~49節

聖句のアイコン聖書の言葉

23:32 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。
23:33 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。
23:34 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。
23:35 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
23:36 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、
23:37 言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
23:38 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
23:40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。
23:41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
23:42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。
23:43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
23:44 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
23:45 太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。
23:46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。
23:47 百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。
23:48 見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。
23:49 イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。ルカによる福音書 23章32節~49節

原稿のアイコンメッセージ

序.受難週を迎えて

 教会の暦によると、今週は、イエス・キリストの苦しみと死を覚える受難週であります。イエス・キリストは、今からおよそ2000年前の今日、子ろばに乗ってエルサレムに入られました。そして、今からおよそ2000年前の今週の金曜日に、十字架に磔にされて、息を引き取られました。今週私たちは、イエス・キリストの御苦しみを覚えて歩みたいと思います。特に、金曜日には、イエス・キリストが私たちの罪のために死んでくださったことを覚えたいと思います。そのために、今朝は、『ルカによる福音書』の第23章32節から49節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

1.父よ、彼らをお赦しください

 ほかにも、二人の犯罪人が、イエス様と一緒に死刑にされるために、引かれて行きました。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエス様を十字架につけました。犯罪人も、一人は右に、一人は左に十字架につけました。「されこうべ」と呼ばれる所には、イエス様を真ん中に三本の十字架が立てられたのです。かつてイエス様は、主の晩餐の席において、弟子たちに、こう言われました。「言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する」(22:37)。そのイエス様の御言葉どおり、イエス様は犯罪人の一人として、十字架につけられたのです。「十字架につけられる」とは、生きたまま、手と足を釘打ちにされることです。想像を絶する痛みが伴います。十字架の死は、苦痛を伴う、恥ずかしい、見せしめの刑でした。そのような十字架の刑を、イエス様はお受けになったのです。イエス様は、十字架につけられたとき、何と言われたでしょうか。「かんべんしてください」と言われたでしょうか。あるいは、「呪い殺してやる」と言われたでしょうか。そうではありません。イエス様は、こう言われたのです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。イエス様は、自分を十字架に磔にした人々のために、執り成しの祈りをささげられたのです。イエス様は、罪のない神の御子であられます。そのイエス様を、人々は犯罪人の一人として、十字架につけたのです。十字架につけるとは、木にかけること、神によって呪われた者として処刑することを意味しています(申命21:23参照)。人々は、罪のない神の御子であるイエス様を、犯罪人の一人として、呪いの死へと引き渡そうとしていたのです。その人々の罪をお赦しください、とイエス様は父なる神様に祈られたのです。彼らは自分が何をしているのか知らない。自分がどれほど恐ろしい罪を犯しているのかを知らない。その彼らを、「父よ、お赦しください」とイエス様は十字架の上で祈られたのです。この「彼ら」とは誰のことでしょうか。それはイエス様を十字架につけた「人々」のことです。では、私たちは、関係ないのでしょうか。そうではありません。このイエス様の祈りは、私たちのための祈りであったのです。私たちも、罪のない、神の御子であるイエス様を、十字架につけた人間であるからです(神の子殺しの罪は全人類の罪である)。私たち人間の罪、愚かさは、罪のない、神の御子であるイエス・キリストを犯罪人の一人として、十字架の死に定めるほどに大きいのです。その大きな罪のために、イエス様は、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈ってくださったのです。イエス様は、私たちのために、執り成しの祈りをささげてくださったのです。

2.あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる

 イエス様の頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札が掲げられていました。イエス様は、ローマ皇帝に逆らう「ユダヤ人の王」として、十字架につけられました。イエス様を、ローマの総督ポンテオ・ピラトに、ユダヤ人の王として訴えたのは、ユダヤの最高法院の議員たちでした。その彼らが、イエス様を嘲笑って、こう言います。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」。議員たちは、ローマ人の支配からユダヤ人を救ってくれるメシア、王を待ち望んでいました。しかし、イエス様はローマ人の手によって殺されようとしているのです。そのような男は、議員たちにとって、ちっともメシアらしくないわけです。他人を救ったのに、自分を救えないメシア、そのようなメシアを議員たちは認めません。イエス様が十字架に磔にされている、呪われた者として木にかけられている。この現実こそ、議員たちにとって、この男がメシアではなく、選ばれた者ではないことの証拠であるのです。イエス様を罵ったのは、議員たちやローマ兵だけではありませんでした。十字架にかけられていた犯罪人の一人も、イエス様をののしってこう言います。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」。これは「ののしった」とあるように、信仰の言葉ではありません。「自分自身と我々を救えないお前が、メシアであると言うのか。笑わせるな」といった冒涜の言葉です。しかし、もう一人の犯罪人はたしなめてこう言いました。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに、我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」。ここでもう一人の犯罪人は、自分たちの罪を認めています。自分たちは、十字架に磔にされて、神の呪いの死を死んで当然な罪人であると認めているのです。そして、驚くべきことに、もう一人の犯罪人は、イエス様が何も悪いことをしていないと言うのです。イエス様の弟子でもない男が、イエス様について、「この方は何も悪いことをしていない」とどうして言うことができたのでしょうか。それは、イエス様の十字架の上での執り成しの祈りを聴いていたからだと思います。イエス様は、自分を十字架につけて、殺そうとしている人々のために、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られました。そのイエス様の祈りを聴いて、もう一人の犯罪人は「この方は何も悪いことをしていない」と確信したのです。さらに、彼はこう言います。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(サムエル上25:31参照)。ここで、犯罪人の一人は、「イエスよ」とイエス様の名前を呼びました。彼は名前を呼ぶことによって、イエス様と人格的に向き合おうとしたのです。イエスとは「主は救い」という意味でした。彼は「主は救い」という意味のイエスという名を呼んだのです。ここで、「御国」は「王国」とも訳せます。また、「おいでになるとき」は「入られる時」とも訳せます。ですから、この犯罪人は、こう言ったのです。「イエスよ、あなたの王国に入られるときは、わたしを思い出してください」。この犯罪人の言葉は、イエス様がメシア、キリスト、王であるとの信仰を前提にしています。彼は、イエス様が王国に入られるとき、自分のことを思い出して欲しいと願ったのです。この願いは、私たちの願いではないでしょうか。私たちは、自分がこの地上に生きていたことを、誰かに覚えていて欲しいと願います。そう願いながら、私たちが生きていたことを誰も覚えていない日が来ることを受け入れざるを得ないわけです(コヘレト1:11参照)。しかし、イエス様は、私たちのことを覚えていてくださいます。イエス様は、こう言われます。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。イエス様は、神の子としての権威をもって、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われるのです。これも驚くべき言葉です。十字架につけられて、神に呪われて死んだ者が行く先はどこでしょうか。普通に考えれば、地獄です。しかし、イエス様は、「あなたは今日わたしと一緒に楽園、天国にいる」と言われたのです。いつかではありません。イエス様を信じて、死のうとしている今日です。この犯罪人は、自分の罪を告白して、イエス様をメシア、救い主と信じて、救われたのです。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。この御言葉は、イエス・キリストの御名を呼んで、罪を告白し、イエス・キリストに依り頼む、私たち一人一人に、語られている御言葉であります。私たちは、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」というイエス・キリストの約束を信じて、平安に死を迎えることができるのです。死んだ私たちが行くところ、そこはイエス・キリストがおられるパラダイスであるのです。

3.父よ、わたしの霊を御手にゆだねます

 昼の十二時頃という、最も明るい時間に、全地は暗くなり、それが三時まで続きました。この暗闇は、十字架につけられたイエス様のうえに、主の日の裁きが臨んでいたことを示しています(アモス8:9参照)。神様の全人類の罪に対する怒り、裁きが、十字架につけられたイエス様の上に臨んでいたのです。「神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた」とありますが、この垂れ幕は、聖所と至聖所を隔てるカーテンのことであると考えられています。聖所とは、祭司が礼拝をささげる場所です。至聖所とは、神様が臨在される場所であります。至聖所には、年に一度、大祭司だけが入ることができました。イエス・キリストの十字架の御苦しみによって、聖所と至聖所を隔てる垂れ幕が裂けた。このことは、今や、誰もがイエス・キリストにあって、神様に近づくことができることを示しているのです(ヘブライ9:1~22参照)。そのことをイエス様は神の力で知られたのでしょう。イエス様は大声でこう叫ばれます。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」。このイエス様の御言葉は、『詩編』第31編6節の御言葉であり、ユダヤ人たちの就寝の前の祈りでありました。ユダヤ人たちは、眠る前に、「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます」と祈って眠りについたのです。ユダヤ人たちは、朝になれば目を覚ますことができると信じて、神様に自分の霊をゆだねたのです。その祈りを、イエス様は、父なる神様に祈られました。父なる神様が、自分を必ず起き上がらせてくださる。復活させてくださると信じて、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と大声で叫ばれたのです。そして、息を引き取られた。霊をはき出されたのです。ローマの百人隊長は、この出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言いました。この言葉は、真理であります。十字架につけられて、死んだイエス様は、「本当に、正しい人であった」のです。使徒パウロは、『ローマの信徒への手紙』の第3章で、「正しい者はいない。一人もいない」と記しました。しかし、一人だけいるのです。それが、人となられた神の御子イエス・キリストであるのです。

結.イエス・キリストの死

 正しい人であるイエス・キリストが、十字架の呪いの死を死なれた。このことは、何を意味しているのでしょうか。その答えを、『イザヤ書』の第53章から教えられたいと願います。旧約の1150ページです。第53章9節から12節までをお読みします。

 彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。

 彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。

 ここには、イエス・キリストの死の意味が語られています。イエス・キリストは、主の僕として、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負ってくださったのです。本当に正しい人であったイエス・キリストが、私たちの罪を担って十字架のうえで呪いの死を死んでくださったのです。それゆえ、私たちはすべての罪を償われて、正しい者として、神様に受け入れていただけるのです。「本当に、この人は正しい人であった」という言葉を、私たちは、イエス・キリストのゆえに、神様からいただくことができるのです。

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