福音にあずかる(奨励題) 2023年1月08日(日曜 朝の礼拝)

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福音にあずかる(奨励題)

日付
説教
大澤長老(奨励者)
聖書
フィリピの信徒への手紙 1章3節~11節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:3 わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、
1:4 あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。
1:5 それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。
1:6 あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。
1:7 わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。
1:8 わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。
1:9 わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、
1:10 本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、
1:11 イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。フィリピの信徒への手紙 1章3節~11節

原稿のアイコンメッセージ

 フィリピの信徒への手紙は、「主において喜びなさい」(4:4)という言葉があるように、「喜び」(名詞)、「喜ぶ」(動詞)という言葉が多く用いられ、「喜びの書簡」とも言われています。しかも、この手紙は獄中から書かれています。パウロが監禁されていた終わりに近い時の、パウロが法廷に出る時期が迫るときに、この手紙が書かれたことを考えると、「喜び」という言葉にパウロはどんな思いを込めていたのか、深い思いがあると思います。今回、もう一つ注目したいのは、1:5にある「福音にあずかる」という言葉です。1:5で一度だけ使われている「福音にあずかる」というこの言葉ですが、しかし、フィリピの人たち一同が共に「福音にあずかる」という、パウロの喜びとし、願いとすることが反映された言葉であると考えています。パウロがこの手紙を書いた理由、思いに近づく鍵は、この言葉「福音にあずかる」にあるのではないかと思います。

 「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。」1:3-4

 パウロの手紙の書き起こしでは、例えばローマの信徒への手紙は、「福音のために選び出され、召されて使徒となった」(ローマ1:1)というように、使徒であることを初めに明言しています。ところが、フィリピの信徒への手紙では「キリスト・イエスの僕」と名乗るだけです。フィリピの人たちはパウロのことをよく知っているし、パウロもフィリピの人たちのことをよく知っている。今は、離れて獄中にいるパウロですが、ずっと信頼関係が続いていることがわかります。この関係は、3-4節にもうかがえます。

 この箇所から、フィリピの信徒たちへ、パウロが思いと願いを抱いているかがわかります。4節に2度使われている「祈る」と言う言葉がそれを示しています。9節の「こう祈ります」のギリシャ語はそのまま「祈る」という言葉が使われていますが、4節の「祈る」というギリシャ語は「懇願する」というもともとの意味がある言葉です。ここの文で「神に感謝し」(3節)と述べているので、神に懇願する意味で「祈る」としたのではないかと思います。

 そこで、5節以降11節まで語っている事柄は、パウロの祈りの中身で、パウロがフィリピの人たちについてどんなことを思いにかけ、願っているのかがわかります。12節以降の手紙の内容が、パウロの思いと願いの各論であるとすれば、この箇所は、総論であり、かなめ(要)となるパウロの思いを述べているところになります。

 「それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。」1:5

 「最初の日から」というのは使徒言行録16章で知ることができます。2回目の伝道旅行で、アジア州の西の端トロアスまで来たパウロ一行が、エーゲ海を越えて初めてマケドニア、今のギリシャ半島まで来ます。後に、ヨーロッパに福音が伝えられた最初である、とされている出来事です。フィリピというローマの植民都市において主を信じる群れが起こされ、それ以来ずっと、フィリピの人たちは、「福音にあずかって」きたわけです。

 それで、パウロは感謝と喜びをもってフィリピの人たちのことを思いにかけて祈っていると述べ(3-4節)、その理由をこの箇所で説明しています。5節を、文語訳では「福音を弘むることに与る」、新改訳は「福音を伝えることに携わって来た」としています。日本語で関与するという意味の「あずかる(与る)」と訳した言葉、ギリシャ語の「コイノーニア」は、「協力する」とか、「貢献する」という意味で使われます。実際、パウロはこの手紙で、フィリピの人たちが「物のやり取りでわたしの働きに参加し」てくれた、と述べる(4:15)など、パウロの「福音の信仰のために共に戦う」(1:27)仲間としています。

 この手紙をさらに読んでいくと、パウロは、これから後もフィリピの人たち一同が福音に与かることを願って、いろいろ書き、奨めをしているということが読み取れてきます。この「コイノーニア」にもう少し大きな意味をこめて、「福音にあずかる」と言っているのではないかと思います。「コイノーニア」は、ヨハネⅠ1:3 「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」のように「交わり」「つながり」を、コリントⅡ9:13「自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。」は「分け与える」とか「分かち合う」「共有する」という意味で使われています。「福音にあずかる」ということは、「福音の恵みを分かち合う」という意味を含め、「御父と御子イエス・キリストとの交わりにあずかる」ということをも表しているのではないかと思います。新共同訳が単に「福音にあずかる」としていることを、このように受け止めています。聖書を読み進めながら、私たちが「福音にあずかる」ということを、思いめぐらしていくと、御言葉の理解が深まり、益とすることができると思っています。

 「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」1:6

 「あなたがたの中で」という日本語は少し紛らわし言い方で、意味を正確につかみにくくなっています。この文章を注意深く読めば、「始められた方」という敬いを表す言葉が使われ、そのあと続いて「キリスト・イエスの日」とあるので、(あなたがたの中のだれかが始めたのではなく)「始められた方」が「父である神」(2節)であることがわかります。新改訳や新しい聖書協会共同訳では「あなたがたの間で善い業を始められた方」として、わかりやすく読めます。

 5節の言葉が、最初の日から今日までのことに関して言っているのであれば、6節は、キリストの日まで、これから後までのフィリピの人たちについて、パウロは思い描いていることになります。パウロが神に感謝し、喜びをもって祈っている理由は、この6節の言葉にも及んでいます。フィリピの人たちに福音をもたらしたのはパウロでありました。しかし、パウロ自身は「あなたがたの中で善い業を始められた方」と言って、この業を始められた方が父である神と言っています。さらには、神がこの業を成し遂げてくださる、と言います。「キリスト・イエスの日までに」というのは、最終的には、キリストの再臨の日のことですが、福音にあずかるこの業が、フィリピの人たち一人一人があずかる、という視点で考えると、一人一人の生涯において「キリスト・イエスにまみえる日」と受けとめることもできます。いずれにしても、この善い業を神が成し遂げてくださる。この「善い」というギリシャ語「アガスォン」は、宗教的なことについて「よい」という意味の言葉で、フィリピの人たち一同が「福音にあずかること」と言い換えてよいでしょう。フィリピの人たちの間で神が始められた業は、フィリピの人たちが「福音にあずかる」ということを意味しています。そして、「神の業」であるゆえに、神が成し遂げてくださるという確信を持つことができるのです。このようなことを見据えて、パウロは神に感謝し、喜びをもって懇願している、ということになります。

 「わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。」1:7-8 

 神がこの善い業を成し遂げてくださるという確信は、神がなさる業だから成し遂げられるという単なる論理で述べているわけではありません。この7,8節がそれを示しています。今は監禁されており、法廷で福音を弁明し立証する時が迫ってきている、そのような時に、パウロはフィリピの人たちのことを心に留めて、神に祈っています。フィリピの人たち一同を、共に恵みにあずかる者と受けとめています。しかも、「キリストの愛の心で・・・あなたがた一同のことを・・・思っている」と述べます。「愛の心」は、ギリシャ語「スプランクノイス」で、「はらわた、内臓」という意味を表す言葉です。この内臓に心、感情が宿るので、「心」「憐み」などを意味し、ここでは「愛の心」という言葉になっています。「キリストの愛の心」というのは、キリストのうちの深いところからでてくる愛、そのキリストの愛の心をもって、パウロはフィリピの人たち一同のことを思いにかけている、というわけです。カルヴァンは、祈りは「神との対話」(『キリスト教綱要Ⅲ20章4』)であると言っています。パウロは祈りにおいて、キリストを通して父である神とのコイノーニア、交わりに与かっていますので、パウロの思いは神と共にあると考えているのだと思います。この交わりがあるからこそ、神がこの善い業をフィリピの人たちにおいて成し遂げてくださる、と確信することができるし、パウロの思いを神が証ししてくださる、と言うことができるのです。

 「わたしはこう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉とをたたえることができるように。」1:9-11

 この「祈ります」というギリシャ語「プロスエウコマイ」は、神に対するときに使う言葉で(使徒言行録22:17は「神殿で祈っていたとき」とある)、ここでの祈りは、パウロが神に向かって心からの願いを祈る言葉になります。

 「知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、」というところは、語順を入れ替えて、「あなたがたの愛が、知る力と見抜く力とを身に着けて、ますます豊かになり」とすると、「あなたがたの愛が豊かになる」ことと「知る力と見抜く力を身に着ける」こととの関わりがはっきりします。他の聖書の訳はこの語順になっています。「知る力と見抜く力を身につける」とは、神がどのような方であるか、神の思い(み旨)がどこにあるかを見いだしていく力です。フィリピの人たちの愛が、神を知り、神の思いがどこにあるのかを見いだしていくことによって、ますます豊かになり、「本当に重要なことを見分けられるように」してほしい、とのパウロの願いなのです。

 神が始められ、成し遂げてくださる善き業に、フィリピの人たちが共に与かるようにとパウロは願っています。神が成し遂げてくださる、だからと言って、フィリピの人たちが当面する課題や問題は、容易なことではありません。「本当に重要なことを見分けられるように」は、フィリピの人たちが当面する課題や問題の内に、何が重要なことであるかを見分けて選び取っていくことが必要なのだということです。心を合わせて対処しなければならない。心を合わせるために一人一人が主にある成長をしなければならない。その主にある成長が、「あなたがたの愛がますます豊かになって、本当に重要なことを見分けられる」ようになること。そのようにして、フィリピの人たちが「福音にあずかる」ことをパウロは祈り、願っているのです。「福音にあずかる」最終的な目標を「キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉とをたたえることができるように。」(10-11節)と述べて、フィリピの人たちを励ましています。

 パウロが福音を伝えたのを機に、フィリピの人たちは「最初の日から今日まで、福音にあずかって」きました。それは、フィリピの人たちの間で主なる神が「善い業」を始められた、「キリスト・イエスの日までに、成し遂げてくださる」福音にあずかる業です。今日フィリピの町も当時の教会も今はありません。しかし、フィリピで始められた「善い業」、「福音にあずかる」業は、その後の歴史の進展に伴いヨーロッパ各地に伝わり、そしてアジアの東の端、日本にまで伝えられ、今私たちのところにまで至っています。私たちの教会は、聖書にあるとおりの「福音にあずかる」ことに思いを抱いた数家族の人たちによって、1979年12月30日に伝道所の設立をして、始められました。私たちの教会も、フィリピの人たちと同じように、神が始められ、成し遂げてくださる「善い業」に与かっているわけです。パウロの奨めに従って、私たちの愛が、知る力と見抜く力を身に着けて、ますます豊かになり、本当に重要なことを見分けていき、福音にあずかり続けていく、今年一年の歩みであるようにと願っています。

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