恐れるな、小さな群れよ 2022年1月02日(日曜 朝の礼拝)

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恐れるな、小さな群れよ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 12章22節~34節

聖句のアイコン聖書の言葉

12:22 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。
12:23 命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。
12:24 烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。
12:25 あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。
12:26 こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。
12:27 野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
12:28 今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。
12:29 あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。
12:30 それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。
12:31 ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。
12:32 小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。
12:33 自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。
12:34 あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」ルカによる福音書 12章22節~34節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、主の2022年、最初の礼拝であります。新年最初の礼拝では、年間聖句から説教することにしています。週報の表紙にあるように、今年の年間聖句は、「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」(ルカによる福音書12章32節)です。また、年間テーマは、「思い悩まず、ただ神の国を求めよう!」であります。そのことを念頭に置いて、今朝は、『ルカによる福音書』の第12章22節から34節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 イエス様は、弟子たちに、こう言われます。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」。イエス様は、「だから、言っておく」と言われます。この「だから」は、15節を受けての「だから」であります。15節で、イエス様は、こう言われていました。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってはどうすることもできないからである」。そして、このことを教えるために、イエス様は、「愚かな金持ちのたとえ」をお語りになったのでした。私たちは、自分の命を財産によって確保することはできません。私たちの命は、神様からのあずかりものであり、神様から取り上げられるとき、この地上を去っていかねばならないのです。その厳粛なる事実を受けて、イエス様は、「命のことで何を食べようか。体のことで何を着ようかと思い悩むな」と言われるのです。「思い悩む」とは、「心の中で考え苦しむ。おもいわずらう」ことです(『広辞苑』)。ここで、注意したいことは、弟子たちが、貧しい者であったということです。食べ物や着る物がたくさんある人に言われた御言葉ではない、ということです。今日は、何を食べればよいだろうか、何を着たらよいだろうか、と思い悩む、その日の生活もままならないような貧しい弟子たちに言われたのです。当時、労働者の賃金は日給で支払われました。ですから、その日の仕事にありつけなければ、その日は何も食べられなかったのです(マタイ20章の「ぶどう園の労働者のたとえ」参照)。私たちは、今、その日の生活もままならないほどの貧しさの中にはないかも知れません。しかし、私たちも、命のことで、体のことを、心の中でいろいろと考え、苦しんでいると思います。そのような私たちにも、イエス様は、「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」と言われるのです。そして、その理由を、「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ」と言われるのです。これはどういう意味でしょうか。塚本虎二という人が、この所を次のように翻訳しています。「命は食べ物以上、体は着物以上の賜物だから。命と体をくださった神が、それ以下のものを下さらないわけはない」。命と体を与えてくださった神様は、その命を養う食べ物と、体を守る衣服を与えてくださるとイエス様は言われるのです。

 イエス様は、弟子たちの心を、カラスに向けさせて、こう言われます。「烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか」。カラスは、律法によれば汚れた鳥であり、人々から嫌われていました(レビ11:15参照)。カラスは、種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持っていません。しかし、神様は、そのカラスを養ってくださるのです(詩147:9参照)。そうであれば、鳥よりもはるかに価値がある、あなたがたを神が養ってくださらないはずはない、とイエス様は言われるのです。神様は、私たち人間を、御自分のかたちに似せて造られました(創世1:27参照)。すべての人は神のかたちを持っているのです。さらに、イエス様の弟子である私たちは、神様の子とされているのです。神のかたちに似せて造られた私たちを、イエス様にあって神の子とされた私たちを、神様は養ってくださらないはずはないのです。しかし、ここで注意したいことは、カラスは種も蒔かず、刈り入れもしませんが、私たち人間には、種蒔きや刈り入れといった労働が求められているということです(詩104:23参照)。神様は、私たちの手に力を与え、その働きを祝福して、私たちを養ってくださるのです(申命8:17参照)。「思い悩むな」というイエス様の教えは、決して怠惰な生活の勧めではありません。むしろ、神様が私たちの手に力を与え、その働きを祝福してくださることを信じて働くことを私たちに勧めているのです。

 また、イエス様は、思い悩んでも仕方が無いことがあることに、弟子たちの思いを向けさせます。「あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか」。ここで「寿命」と訳されている言葉は、「背丈」とも訳せます(文語訳、岩波訳参照)。私たちは、自分の身長を伸ばすことはできません。あるところでストップしてしまうわけです。私たちは、身長を伸ばすという小さなこともできないのに、ほかの事まで思い悩むのです。自分の力が及ばない事まで思い悩んでしまうのです。そのような私たちに、イエス様は、必要以上に思い悩まないようにと言われるのです。

 さらに、イエス様は、弟子たちの心を、野原の花に向けさせて、こう言われます。「野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ」。イエス様は、野の花に、栄華を極めたソロモン以上の装いを見ておられます。神様は、今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれてしまう草花でさえ、このように装ってくださる。そうであれば、あなたの体を装う衣服を与えてくださらないはずはない、とイエス様は言われるのです。神様は、私たちの働き、糸を紡いだり、布を織ったりする働きを祝福して、私たちに着る物を与えてくださるのです。

 聖書によれば、この世界は神様によって造られ、すべての命は神様によって与えられ、神様に支えられています。しかし、私たちは、思い悩むとき、そのことを忘れてしまうのです。「信仰の薄い者たちよ」とあるように、思い悩むとき、私たちの信仰は小さくなってしまうのです。そのような私たちの心を、イエス様はカラスや野原の花へと向けさせるのです。そのようにして、鳥を養い、草花を装わせておられる父なる神様に信頼するようにと、イエス様は、私たちを導かれるのです。

 さらに、イエス様はこう言われます。「あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる」。「何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない」とあります。ここで「考えてはならない」と訳されている言葉は、「求めてはならない」と訳すことができます。31節の「神の国を求めなさい」の「求める」という言葉が用いられているのです。イエス様は、父なる神様の子である弟子たちに、「何を食べようか、何を飲もうかと求めるな、そして、思い悩むな」と言われます。それは、父なる神様を知らない人々の生き方であると言われるのです。

 「あなたがたの父は、食べ物や飲み物が必要なことはご存じである。だから、あなたがたは彼の王国を求めなさい。そうすれば、食べ物や飲み物は加えて与えられる」とイエス様は言われます。31節の「神の国」は、元の言葉では、「彼の王国」と記されています(テン バシレイアン アウトゥ、the kingdom of him)。彼の王国とは、「あなたがたの父の王国」のことです。イエス様は、「食べ物や飲み物ではなくて、あなたがたの父の王国を第一に求めなさい。そうすれば、父なる神様は、食べ物や飲み物を加えて与えてくださる」と言われるのです。このイエス様の御言葉を聞いて、おそらく、多くの方が、イエス様が弟子たちに教えられた「主の祈り」を思い起こされたと思います。第11章1節から4節にこう記されています。新約の127ページです。

 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」

 イエス様は、神様を「父よ」と呼びかけ、父なる神様の御名があがめられること。父なる神様の御国が来ることを祈り求めなさいと教えられました。その父なる神様のための祈りをささげた後で、「私たちに必要な糧を毎日与えてください」と祈るように教えられたのです。このことは、今朝の御言葉で、イエス様が教えておられることと同じであるのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の132ページです。

 まことの神様、イエス・キリストの父なる神様を信じない人々は、食べ物や飲み物、この地上の財産を切に求めます。他の人よりも多くの財産を得ることが生き甲斐となっているのです。しかし、父なる神様を信じて、主の祈りを祈る私たちは、そうであってはいけない。私たちの願い、生き甲斐は、父なる神様の御名があがめること。父なる神様の御心をこの地上に実現していくことであるのです。そして、そのような私たちに、父なる神様は、必要なものをちゃんと与えてくださるのですね。ですから、イエス様は、こう言われるのです。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」。元の言葉では、「恐れるな、小さな群れよ」という順番で記されています。私たち教会も、小さな群れでありますね。その私たちに、イエス様は、「恐れるな、小さな群れよ。あなたがたの父は喜んで御国をくださる」と言われるのです(新改訳2017参照)。私たちには、それぞれの人生においていろいろと思い悩むことがあります。それだけではなく、教会としても思い悩むことがあるのです。しかし、イエス様は、私たちの大牧者として、「恐れるな、小さな群れよ。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」と言われるのです(ヘブライ13:20、一ペトロ5:4参照)。私たちに御国をくださることは、父なる神の御心であるのです(口語訳参照)。その父の御心を行う、良い羊飼いとして、イエス様は十字架のうえで、命を捨ててくださったのですね(ヨハネ10:11「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」参照)。私たちは、今すでに、父なる神様から、神の国の祝福をいただいております。聖霊と御言葉によって、父なる神様との親しい交わりに生かされているのです。

 最後、33節以下で、イエス様は次のように言われます。「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」。「施し」と訳されている言葉は、「憐れみ」とも訳せます。施しは憐れみの業であるのです。鳥を養われる神様は、私たちの施しを用いて、貧しい人たちを養われるのです。私たちは、施しによって、神様の御心を行うことができるのです。同じことが、献金においても言えます。なぜなら、神様の御名を崇める礼拝を中心とする教会の営みは、私たちの献金によって支えられているからです。父なる神の国を求めることと献金をささげることは深く結びついているのです。私たちは、神の国を求める者として、施しや献金によって天に富を積み、神様に心を向けて歩んで行きたいと願います。

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