わたしを贖う方は生きておられる 2009年4月12日(日曜 朝の礼拝)

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わたしを贖う方は生きておられる

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨブ記 19章1節~29節

聖句のアイコン聖書の言葉

19:1 ヨブは答えた。
19:2 どこまであなたたちはわたしの魂を苦しめ/言葉をもってわたしを打ち砕くのか。
19:3 侮辱はもうこれで十分だ。わたしを虐げて恥ずかしくないのか。
19:4 わたしが過ちを犯したのが事実だとしても/その過ちはわたし個人にとどまるのみだ。
19:5 ところが、あなたたちは/わたしの受けている辱めを誇張して/論難しようとする。
19:6 それならば、知れ。神がわたしに非道なふるまいをし/わたしの周囲に砦を巡らしていることを。
19:7 だから、不法だと叫んでも答えはなく/救いを求めても、裁いてもらえないのだ。
19:8 神はわたしの道をふさいで通らせず/行く手に暗黒を置かれた。
19:9 わたしの名誉を奪い/頭から冠を取り去られた。
19:10 四方から攻められてわたしは消え去る。木であるかのように/希望は根こそぎにされてしまった。
19:11 神はわたしに向かって怒りを燃やし/わたしを敵とされる。
19:12 その軍勢は結集し/襲おうとして道を開き/わたしの天幕を囲んで陣を敷いた。
19:13 神は兄弟をわたしから遠ざけ/知人を引き離した。
19:14 親族もわたしを見捨て/友だちもわたしを忘れた。
19:15 わたしの家に身を寄せている男や女すら/わたしをよそ者と見なし、敵視する。
19:16 僕を呼んでも答えず/わたしが彼に憐れみを乞わなければならない。
19:17 息は妻に嫌われ/子供にも憎まれる。
19:18 幼子もわたしを拒み/わたしが立ち上がると背を向ける。
19:19 親友のすべてに忌み嫌われ/愛していた人々にも背かれてしまった。
19:20 骨は皮膚と肉とにすがりつき/皮膚と歯ばかりになって/わたしは生き延びている。
19:21 憐れんでくれ、わたしを憐れんでくれ/神の手がわたしに触れたのだ。あなたたちはわたしの友ではないか。
19:22 なぜ、あなたたちまで神と一緒になって/わたしを追い詰めるのか。肉を打つだけでは足りないのか。
19:23 どうか/わたしの言葉が書き留められるように/碑文として刻まれるように。
19:24 たがねで岩に刻まれ、鉛で黒々と記され/いつまでも残るように。
19:25 わたしは知っている/わたしを贖う方は生きておられ/ついには塵の上に立たれるであろう。
19:26 この皮膚が損なわれようとも/この身をもって/わたしは神を仰ぎ見るであろう。
19:27 このわたしが仰ぎ見る/ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る。
19:28 「我々が彼を追い詰めたりするだろうか」と/あなたたちは言う。この有様の根源がわたし自身にあると/あなたたちは言う。
19:29 あなたたちこそ、剣を危惧せよ。剣による罰は厳しい。裁きのあることを知るがよい。ヨブ記 19章1節~29節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、主イエス・キリストの復活をお祝いするイースターの礼拝であります。先程、御一緒に使徒信条を告白しましたが、そこに記されていた通り、主イエス・キリストは、「十字架につけられ、死んで葬られ、よみにくがり、三日目に死人のうちからよみがえ」られました。死人の中からよみがえられたイエス・キリストは天へ昇り、今も生きておられ、全能の父なる神の右に座しておられます。そして終わりの日に、生きている者と死んでいる者とを裁くために、天から地上に再び来てくださるのです。私たちキリスト教会は、イエス・キリストが再び天から来られる日を待ち望みながら、このように日曜日ごとに主に礼拝をささげているのです。

 イエス・キリストが死から復活されたことを証言しているのは、聖書であります。私たちはこの聖書の証言を真実であると確信して、このようにイエス・キリストの復活を祝う礼拝をささげているのです。聖書は、旧約聖書と新約聖書との二つから成り立っています。旧約聖書の「旧約」とは「古い契約」という意味であり、新約聖書の「新約」とは「新しい契約」という意味です(ニコリント3章参照)。イエス・キリストにおいて神と民との新しい契約が結ばれましたので、イエス・キリスト以前の時代に記された書物を旧約聖書と呼び、イエス・キリスト以降に記された書物を新約聖書と呼んでおります。旧約聖書と新約聖書、それはイエス・キリストを境として分けられるのでありますが、しかし、その内容からすればどちらも来るべき救い主イエス・キリストを指し示すものでありました(ョハネ5:39参照)。旧約聖書は、主なる神が救い主を遣わしてくださると約束し、新約聖書は、その救い主こそ、イエスであると証言しているのです。それゆえ、旧約聖書と新約聖書は同じイエス・キリストを証しする一冊の書物として読むべきであるのです。十字架につけられたイエスという男が、約束の救い主であるということは、当時の人々にとっても到底信じられないことでありました。十字架にはりつけにされる。 これはローマ帝国の処刑方法でありますけども、ユダヤ人にとりまして、十字架刑は忌まわしいものでありました。なぜなら、旧約聖書の掟の書物に、「木にかけられた者は皆、呪われている」と記されていたからです(ガラテヤ3:13参照)。ユダヤ人にとって、十字架刑は木にかけられる、神から呪われた者の死を意味していたのです。しかし、その十字架につけられたイエスを、約束の救い主と信じ、その御名を命懸けで宣べ伝えた者たちがいたのです。それが、イエス・キリストの弟子たちでありました。なぜ、彼らはイエスを救い主、キリストと信じることができたのか。それは、十字架に死に、葬られたイエスが、三日目に復活し、弟子たちの前に現れてくださったからです。イエス・キリストがよみがえられた。それゆえに、弟子たちはイエス・キリストを信じ、イエス・キリストを信じるものは救われるという福音を、死を恐れることなく宣べ伝えたのです。もし、イエス・キリストが復活されなかったら、キリスト教会はなかったのです。そうであれば、キリスト教会がこの地にあり、私たちが日曜目ごとに主を礼拝していることは、何よりキリストの復活を証しする行為であることが分かるのです。

 復活し、天へ昇り、全能の父なる神の右に座しておられるイエス・キリストは、聖霊と御言葉において、この場に御臨在してくださいます。そればかりか、イエス・キリストは聖霊において、御自分を信じる一人一人の心の奥底に往み込んでくださいます。それゆえ、私たちは、今、自分の体験として、イエス・キリストとの交わりに生かされている者として、確かに、イエス・キリストは死からよみがえり、今も生きておられることを証しする二とができるのです。

 さて、今朝は旧約聖書のヨブ記の御言葉をお読みいただきました。旧約聖書は先程も申しましたように、イエス・キリストが生まれる以前の書物であり、約束の救い主を預言している書物であります。このヨブ記の第19章にも、イエス・キリストのお姿を預言する御言葉加記されています。それは、25節の御言葉であります。

 わたしは知っている。わたしを贖う方は生きておられ/ついには塵の上に立たれるであろう。

 今朝の説教題は、この25節から取ったのでありますが、キリスト教会は、この「わたしを贖う方」こそ、イエス・キリストを指すと解釈してきました。そして、「ついには塵の上に立たれるであろう」との御言葉を、イエス・キリストの死者からの復活を指すと解釈してきたのです。確かに、イエス・キリストの十字架と復活の光の中で、このヨブの言葉を読むとき、そのように解釈することができます。そして、そのような解釈は正しい解釈であると思います。けれども、今朝はもう少し丁寧に、このヨブの言葉を見ていきたいと思うのです。ヨブ記が記しております文脈に則して、そもそもヨブがこの25節の言葉をどのような状況にあって、どのような思いから発したのかを、今朝は御一緒に見ていきたいと思います。

 始めに、ヨブ記そのものについて簡単に述べておきますと、ョブ記は書物のジャンルで言えば、知恵文学に属します。主人公であるヨブの生きた時代は、紀元前2000年頃の族長時代と考えられますが、実際に執筆されたのは紀元前1000年頃のソロモン王の時代とも、紀元前500年頃のバビロン抽囚後とも言われています。ヨブ記が誰によって記されたかは分かりませんけども、著者は、実在したヨブについての伝承をモチーフとして、散文と詩文からなるこの作品を書き上げたのです。ヨブ記が文学作品であることは、この書物が信用できないということを意味しません。むしろ、ヨブ記が伝えようとする知恵や真理は、文学作品であるからこそ伝えられるものなのです。ヨブ記は世界の歴史上、最もよく読まれた文学作品であり、しかも聖霊の導きのもとに書かれた聖なる文学作品であるのです。ヨブ記のテーマは、正しい者がどうして苦しまねばならないのかという、「義人の苦難」であると言われますけども、このとき、ヨブがどのような苦難の中に置かれていたかについては、プロローグである第1章、第2章にこう記されています。

 ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。七人の息子と三人の娘を持ち、羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百<びき、雌ろば五百頭の財産があり、使用人も非常に多かった。彼は東の国一番の富豪であった。

 息子たちはそれぞれ順番に、自分の家で宴会の用意をし、三人の姉妹も招いて食事をすることにしていた。この宴会が一巡りするごとに、ヨブは息子たちを呼び寄せて聖別し、朝早<から彼らの数に相当するいけにえをささげた。「息子たちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにした。

 ある日、主の前に神の使いが集まり、サタンも来た。主はサタンに言われた。「お前はどこから来た。」「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。 主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰て、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」主はサタンに言われた。

「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には手を出すな。」サタンは主のもとから出て行った。

 ヨブの息子、娘が、長兄の家で宴会を開いていた日のことである。ヨブのもと

に、一人の召し使いが報告に来た。「御報告いたします。わたしどもが、牛に畑を耕させ、その傍らでろばに草を食べさせておりますと、シェバ人が襲いかかり、略奪していきました。牧童たちは切り殺され、わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」彼が話し終わらないうちに、また一人が来て言った。「御報告いたします。天から神の火が降って、羊も羊飼いも焼け死んでしまいました。わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」

 彼が話し終わらないうちに、また一人が来て言った。「御報告いたします。カルデア人が三部隊に分かれてらくだの群れを襲い、奪っていきました。牧童たちは切り殺され、わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」彼が話し終わらないうちに、更にもう一人来て言った。「御報告いたします。御長男のお宅で、御子息、御息女の皆様が宴会を開いておられました。すると、荒れ野の方から大風が来て四方から吹きつけ、家は倒れ、若い方々は死んでしまわれました。わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。

 またある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来て、主の前に進み出た。主はサタンに言われた。「お前はどこから来た。」「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。お前は理由もなく、わたしを唆して彼を破滅させようとしたが、彼はどこまでも無垢だ。」サタンは答えた。「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたたちを呪うにちがいありません。」主はサタンに言われた。「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな。」サタンは主の前から出て行った。サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた。ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしった。彼の妻は、「どこまで無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言ったが、ヨブは答えた。「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」

 このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。

 さて、ヨブと親しいテマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツオファルの三人は、ヨブにふりかかった災難の一部始終を聞くと、見舞い慰めようと相談して、それぞれの国からやって来た。遠くからヨブを見ると、それと見分けられないほどの姿になっていたので、嘆き声をあげ、衣を裂き、天に向かって塵を振りまき、頭にかぶった。彼らは七日七晩、ヨブと共に地面に座っていたが、その激しい苦痛を見ると、話しかけることもできなかった。

 長く読みましたけども、ここにヨブが被った災難がどのようなものであったかが記されています。そして、その背後には、天上における神とサタンとのやりとりがあったことが記されているのです。主が、ヨブを「わたしの僕」と呼び、「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」と言うのに対して、サタンは「ヨブが利益もないのに神を敬うでしょうか」と疑問を呈し、祝福が取り去られるならば、面と向かって神を呪うにちがいないと語るのです。神はヨブを「わたしの僕」と呼び、「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」と言うけれども、結局は自分の利益のために信じているに過ぎないとサタンは言うのです。ある人は、ここにサタンの人間観がよく表れていると申しております。サタンによれば、人間とは自己中心的な存在であり、自分に利益があるうちは神を信じるが、何の利益も得られず、さらには災いを被るならば、さっさと神を捨ててしまう存在なのです。そのことを、ヨブを通して証明してみせましょうと、サタンは主に挑戦したのです。このようなサタンからの挑戦を受けて、主は御自分のしもベョブをサタンの手にまかせるのです。もちろん、このような天上のやりとりをョブは知るよしもありません。ヨブにとって、財産と子供を失ったことも、ひどい皮膚病にかかったことも突然身にふりかかった災難でありました。しかし、ヨブはそれでも神を畏れることを止めなかったのです。これによって、主の僕ヨブは、サタンの言葉に反して、自分の利益のために主を畏れていたわけではないことが示されたのです。けれども、話しはここで終わりません。聖書は、ヨブを見舞い慰めに来た三人の友人たちとの対話を第3章以降に記すのです。むしろ、ここからがヨブ記の中心部であります。七日七晩の沈黙を突き破るかのように、ヨブの目から、自分の生まれ見日を呪う言葉が語られるのです。苦難の中で、神の沈黙に耐えられなくなったヨブは、自分が生まれた日を呪うことによって、創造主である神に恨みごとを申し述べるのです。それに対して、ヨブの三人の友人だらけ、ョブの災いが彼の罪によるものであると指摘いたします。「ヨブが大きな罪を犯したために、神は懲らしめとしてこのような災いをくだされたに違いない。ヨブよ、罪を悔い改め、神の御もとに立ち返れ、そうすれば、神はまたあなたを元のように祝福してくがさるであろう」。このようにヨブの災難をヨブの罪に帰するのです。しかし、ヨブは「自分は故意に罪を犯したことはない」と身の潔白を主張するのです。それゆえ、ヨブは神に「自分は正当に扱われていない」と嘆き訴えるのです。

 「神は正しい者を祝福し、逆らう者には罰を持って報いられる」。これが三人の友人が親しんできた父祖たちの教えでありました。ですから、三人の友人は、ヨブが被っている災いから考えると、ヨブが上ほど大きな罪を犯し見のだろうと考えたのです。そして、もちろん、このような父祖の教えをヨブも知っておりました。けれども、ヨブはそのような災難に値する罪を犯してはいないのです。それゆえ、ヨブは神の正しさに疑問を抱き、「神は不正を行う者である」として訴えるのです。

 ヨブ記を理解する一つの助けとなるのは、ヨブと三人の友人の議論を、法廷の議論として読むことであります。ヨブが自らの生まれ日を呪うという独白は、友人たちの「罪を悔い改め、神に立ち返れ」という言葉を導き出しました。しかし、ヨブは、このような災いに値する故意の罪は犯していないので、神に無罪を主張します。すると、友人たちは検察官を気取り、ますますヨブを罪に定めようとするのです。そうすると、ヨブの方でも「神は自分を正当に扱っておられない。神こそ不法を犯している」と直訴するのです。

 私たちは、1章の記述から、ヨブが「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」ことを知っておりますから、ヨブの言い分か正しいことを知っています。しかし、もし、そうでなければどうでしょうか。おそらく、友人たちと同じ考え方をしたのではないでしょうか。また、ヨブほどではないにしても、私たちが何らかの災難に遭うとき、やはり、自分の罪のためではないかと考えてしまうのだと思います。しかし、そのとき、もはや私たちはヨブ記を自分の書物として読むことができなくなってしまいます。主から「わたしの僕」と呼ばれ、「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」といわれるヨブに、自らを重ねることが難しくなるのです。けれども、そうではないのです。少なくとも、イエス・キリストを信じる者は、そのように考えてはならないのです。なぜなら、私たちはイエス・キリストにあって、すでに神の御前に正しい者として受け入れられているからです。私たちは、イエス・キリストにあって、主の僕とされ、神の御前に「無垢な正しい者」として今すでに受け入れられているのです。そうであれば、義人ヨブの苦難への問いは、キリストを信じる私たち一人一人の問いなのであります。なぜ、キリストにあってすでに義とされているにもかかわらず、神は私たちに苦難をお与えになるのか。このようにして、義人ヨブの嘆き訴えは、キリストにあって私たち一人一人の嘆き訴えとなるのです。

 三人の友人だらけ、ヨブを慰めようとはるばるやって来たのですが、彼らの言葉はいよいよヨブを苦しめることになります。友人だらけ、ヨブの苦難の原因はヨブの罪にあり、悔い改めるならば、豊かに祝福してくがさると語りました。そのような言葉が指し示す神とはどのようなお方でしょうか。それは、従う者を祝福し、逆らう者に災いをくだされる神であります。そして、それは確かに聖書が教えるところの神でありますけども、しかし、果たしてそれだけなのでしょうか。もし、神を従う者を祝福し、逆らう者に災いをくだされるお方としてしか理解しないならば、それはサタンが投げかけた問いである御利益信仰になってしまうのではないかと思うのです。もし、ヨブの信仰が純粋なものではなく、御利益信仰であるならば、おそらく、ヨブは友人たちの言葉に従って、罪を告白したと思います。よく分からないけども、罪をお許しくださいと言ったと思うのです。けれども、実際は、ヨブの信仰は純粋であり、御利益信仰ではなかったゆえに、あくまで神との関係にこだわるわけです。神を信頼するからこそ、ヨブは神に苦難の意味を問い続けるのです。これは言わば、ヨブの祈りの格闘とも言えます。そして、ヨブは、神と自分との間を取りもってくれる仲裁者を求めるまでに至るのです。第9章32節から35節にこう記されています。

 このように、人間ともいえないような者だが/わたしはなお、あの方に言い返したい。あの方と共に裁きの座に出ることができるなら/あの方とわたしの間を調停してくれる者/仲裁する者がいるなら/わたしの上からあの方の杖を/取り払ってくれるものがあるなら/その時には、あの方の怒りに脅かされることなく/恐れることなくわたしは宣言するだろう/わたしは正当に扱われていない、と。

 さらに、ヨブは、第16章で、天において自分を弁護してくがさる方がおられるとの信仰を表明します。第16章18節から20節までをお読みいたします。

 大地よ、わたしの血を覆うな/わたしの叫びを閉じ込めるな。このような時にも、見よ/天にはわたしのために証人があり/高い天には/わたしを弁護してくださる方がある。わたしのために執り成す方、わたしの友/神を仰いでわたしの目は涙を流す。

 第9章の「仲裁者」、第16章の「弁護者」、この連続線上に、今朝の御言葉である第19章の「贖う方」についての告白があるのです。ヨブは、神と自分の間に立って、仲裁してくださる方、自分を弁護してくがさる方、自分をこのような危機から救い出してくださる方を求めるようになるのです。そして、それは自分を苦しめる神御白身なのです。神との仲裁を神御自身に折り求める。また、敵として振る舞われる神御自身に自分の弁護を折り求める。このような苦難をくだされた神御自身に苦難からの救いを祈り求める。ここに、ヨブの信仰は、二律背反の相を呈しています。しかし、ここにヨブの信仰が最もよく表れているのです。ョブは、自分を襲った苦難が神の御手によって与えられたことを知っていました。それゆえに、その苦難から救ってくがさるのも神しかおられないことを知っていたのです。自分を追いつめる神が、自分を苦難から救い出してくがさるお方でもある。ここに、因果応報の神を越えた、人格的な神への信頼があるのです。そして、イエス・キリストにおいて御自身を現してくださった神はまさにそのようなお方であったのです。神は、御自分の聖なる怒りから私たちを救い出すために、御子イエス・キリストを遣わしてくださいました。イエス・キリストの十字架において、神は裁きを下されるお方であると同時に、私たちを救ってくださるお方であることが示されたのです。イエス・キリストは十字架の死をもって、私たちを罪と死から贖い、永遠の救いへと入れてくださいました。そして、その確かな証拠として、神はイエス・キリストを死から三目目によみがえらせられたのです。それゆえ、私たちはヨブと共に、「わたしを贖う方は生きておられる」と告白することができるのです。

 第38章以降には、嵐の申で語られた主の言葉が記されています。時間の制約上、すべてを続行ことはできませんので、第38章だけをお読みいたします。

 主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて/神の経綸を暗<するとは。男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。わたしが大地を据えたとき/お前はどこにいたのか。知っていたというなら/理解していることを言ってみよ。誰がその広がりを定めたのかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか。誰が隅の親石を置いたのか。そのとき、夜明けの星はこぞって喜び歌い/神の子らは皆、喜びの声をあげた。海は二つの扉を押し開いてほとばしり/母の胎から溢れ出た。わたしは密雲をその着物とし/濃霧をその産着としてまとわせた。しかし、わたしはそれに限界を定め/二つの扉にかんぬきを付け 「ここまでは来てもよいが越えてはならない/高ぶる波をここでとどめよ」と命じた。お前は一生に一度でも朝に命令し/曙に役割を指示したことがあるか/大地の縁をつかんで/神に逆らう者どもを地上から払い落とせと。大地は粘土に型を押していくように姿を変え/すべては装われて現れる。しかし、悪者どもはその光も拒まれ/振り上げた腕は折られる。お前は海の湧き出るところまで行き着き/深淵の底を行き巡ったことがあるか。死の門がお前に姿を見せ/死の闇の門を見たことがあるか。お前はまた、大地の広がりを/隅々まで調べたことがあるか。そのすべてを知っていると言うなら言ってみよ。光が住んでいるのはどの方向か。暗黒の住みかはどこか。光をその境まで連れていけるか。暗黒の住みかに至る道を知っているか。そのときお前は既に生まれていて

人生の日数も多いと言うのなら/これらのことを知っているはずだ。お前は雪の倉に入ったことがあるか。震の倉を見たことがあるか。災いの時のために/戦いや争いの日のために/わたしはこれらを蓄えているのだ。光が放たれるのはどの方向か。東風が地上に送られる道はどこか。誰が豪雨に水路を引き/稲妻に道を備え/まだ人のいなかった大地に/無人であった荒れ野に雨を降らせ/乾ききったところを潤し/青草の芽がもえ出るようにしたのか。雨に父親があるだろうか。誰が露の滴を産ませるのか。誰の腹から震は出てくるのか。天から降る霜は誰が産むのか。水は凍って石のようになり/深淵の面は堅く閉ざされてしまう。すばるのくさりを引き締め/オリオンの綱を緩めることがお前にできるか。時がくれば銀河を繰り出し/大熊と子熊と共に導き出すことができるか。天の法則を知り/その支配を地上に及ぼすのはお前か。お前が雨雲に向かって声をあげれば/洪水がお前を包むだろうか。お前を送り出そうとすれば/稲妻が「はい」と答えて出て行<だろうか。誰が鴇に知恵を授け/誰が雄鳥に分別を与えたのか。誰が知恵をもって雲を数え/天にある水の袋を傾けるのか。塵が溶けて形を成し/土くれが一塊となるように。お前は雌獅子のために獲物を備え/その子の食欲を満たしてやることができるか。雌獅子は茂みに待ち伏せ/その子は隠れがにうずくまっている。誰が鳥のために餌を置いてやるのか。その雛が神に向かって鳴き/食べ物を求めて迷い出るとき。

 ここには、神からの反対質問という形で、神の知恵と全能性が記されております。残念ながら、今朝は主の言葉を詳しく見ていくことはできませんけども、1つのことだけを申しておきたいと思います。それは、第40章、第41章で語られている、ベヘモットやレビヤタンといった人間の手に負えない神話的動物が、苦難を象徴しているということです。ベヘモットやレビヤタンといった人間には手に負えない神話的動物をも神は手なづけておられ、支配しておられる。そのように、どのような苦難をも、神の御手のうちにあるのです。そして、苦難の背後には人問にははかり知れない、神のお考えがあるのです。ヨブは、そのことを神から直接教えていただくことにより、灰と塵の上に伏し、再び神を崇めることができたのです。苦難も神の御手の内にあり、そこには神の深いお考えがあることを知るとき、私たちは、苦しみの意味を問わずにはおれない強迫観念から解放されるのです。イエス・キリストにあって、神が独り子をお与えになったほどに私たちを愛してくださっている神であることを知るとき、たとえ私たちにはその苦難の意味が分からなくとも、神が知っていてくがさることに平安を見出すことができるのです。さらには、その苦難を通しても、神は私たちに善きことを計画しておられると信じることができるのです(ローマ8:28参照)。

 苦難の意味、それは人間の知恵では捉え尽くすことはできず、神の知恵の内に答えがあります。そして、聖書は、その神の知恵こそ、イエス・キリストであると語るのです(一コリント1:30、コロサイ2:3参照)。神の知恵であり、主の僕であるイエス・キリストの十字架と復活の出来事に、私たちの苦しみ、いや、すべての人の苦しみの意味が隠されているのです。

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