キリストを知るすばらしさ 2010年10月10日(日曜 朝の礼拝)

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キリストを知るすばらしさ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
フィリピの信徒への手紙 3章1節~11節

聖句のアイコン聖書の言葉

3:1 では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。
3:2 あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。
3:3 彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。
3:4 とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。
3:5 わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、
3:6 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。
3:7 しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。
3:8 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、
3:9 キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。
3:10 わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、
3:11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。フィリピの信徒への手紙 3章1節~11節

原稿のアイコンメッセージ

1.聖書、とりわけ新約聖書について

 今朝は伝道礼拝ですので、なるべく分かりやすいお話をしたいと思っています。

 今朝はフィリピの信徒への手紙を読んでいただきましたが、新約聖書には多くの手紙が収められています。聖書は旧約聖書と新約聖書の2つからなっています。聖書はおよそ2000ページもある分厚い本ですが、その内のおよそ1500ページが旧約聖書であり、残りのおよそ500ページが新約聖書にあたります。また聖書は66の書から成り立っておりますが、その内の39の書が旧約聖書であり、残りの27の書が新約聖書にあたるのです。今朝は新約聖書にどのような書が収められているかを確認することから始めたいと思います。聖書の本文の前にある目次をご覧ください。新約聖書の初めの書は「マタイによる福音書」です。これはマタイという人物によって記された福音書という意味です。福音書とはイエス・キリストの救い主としての地上生涯を描いたものですが、新約聖書には4つの福音書が収められています。福音書にはイエス様が語られた御言葉やイエス様がなされた力ある業について記されておりますけども、その中心はイエス・キリストの十字架と復活であります。イエス・キリストが全人類の身代わりに刑罰としての十字架の死を死んでくださったこと。そして、死から三日目に栄光の体へと復活してくださったことがどの福音書においても記されています。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、この4つの福音書の次に来るのが「使徒言行録」です。使徒言行録とは使徒たちの言葉と行いの記録です。使徒とはイエス・キリストから権威を委ねられて遣わされた弟子たちのことを言います。復活されたイエス・キリストは40日に渡って弟子たちに現れてくださり、弟子たちの見ている前で天へと上げられました。そして、その10日後に約束の聖霊、神の霊を弟子たちに与えてくださったのです。それによってイエス・キリストを神の御子、救い主と信じるキリストの教会が生まれたのです。ですから使徒言行録にはキリスト教会の誕生とその進展が描かれているのです。ユダヤのエルサレムに生まれた教会は、弟子たちがイエス・キリストの福音を宣べ伝えることにより、ユダヤとサマリアの全土へ、さらにはアジア、ヨーロッパへと広がっていくのです。使徒言行録の後に21通もの手紙が収められています。その初めの手紙は「ローマの信徒への手紙」ですが、これはローマにある教会に宛てて記された手紙です。手紙には「テモテへの手紙」のように個人宛の手紙もありますけども、しかしその手紙をよく読むと、そこには個人に留まず教会に対する教えが記されていることが分かります。最後は「ヨハネの黙示録」です。これは将来起こるべきことを迫害の中にある教会に対して書き送ったものです。黙示文学という独特の形態で記されているので誤解されることが多いのですが、そこではイエス・キリストの再臨と最後の審判、新しい天と新しい地の幻などが記されています。

 このように新約聖書について大まかに見た上で、フィリピの信徒への手紙についてお話したいと思います。

2.フィリピの信徒への手紙について

 「フィリピの信徒への手紙」と言いますけども、この書名、タイトルは後の時代の人々が他の書物と区別するために便宜上付けたものです。この手紙が誰によって執筆されたのか、さらには誰に宛てて執筆されたのかについては、この手紙自体に記されています。第1章1節、2節をお読みいたします。

 キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

 この所からこの手紙がパウロという人物によって、フィリピにある教会に宛てて執筆されたことが分かります。フィリピとは町の名前でありますが、地図で見るとどの辺りにあるのかを確認したいと思います。聖書巻末の付録に聖書地図がありますが、その8パウロの宣教旅行2、3をご覧ください。ギリシャ北方、バルカン半島の中ほどにフィリピと書いてあるのが確認できたでしょうか?使徒言行録にはパウロが3回に渡って宣教旅行をしたことが記されています。そして、フィリピの教会はパウロの第2回宣教旅行によって生み出された教会であるのです(使徒16:11~40)。ですから、パウロとフィリピ教会はとても親しい交わりの内にありました。パウロはいつもフィリピの信徒たちのことを心に留め、神さまに感謝し、お祈りをしていました。また、フィリピの信徒たちもパウロの福音宣教の働きを助けるために物資を送り、さらにはエパフロディトなる人物を遣わして身の回りの世話をさせたのです。言い忘れましたが、パウロはこの手紙を執筆したとき囚われの身でありました。パウロはイエス・キリストのゆえに監禁状態にあったのです。パウロがどこで監禁されていたのかについてはいくつかの説がありますが、伝統的にはローマであると考えられています。なぜなら、使徒言行録はパウロがローマにおいて拘留されていることを伝えて終わっているからです。ちなみに「拘留」とは「被疑者・被告人を拘禁する手続き上の強制処分」のことです(広辞苑)。パウロがローマにおいて拘留されているときに、フィリピの信徒への手紙が記されたならば、この手紙は紀元62年ごろに執筆されたことになります。パウロはこの手紙を60歳前半に、彼の人生の晩年において執筆したのです。

3.偽教師たちに対する警告

 前置きが長くなりましたが、今朝の御言葉そのものを見て行きたいと思います。1節から3節までをお読みいたします。

 では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。

 新約聖書はもともとギリシャ語で記されていますが、ここで「注意しなさい」、「気をつけなさい」、「警戒しなさい」と訳されているギリシャ語は同じ言葉です。ですから、パウロはここで「注意せよ!注意せよ!注意せよ!」とまるで警報のようにフィリピの信徒たちに命じているのです。そしてこのことこそ、1節の後半にあるようにフィリピの信徒たちにとって安全なことであるのです。それではパウロはどのような者たちに注意せよと言っているのでしょうか?それは「あの犬ども」、「よこしまな働き手たち」、「切り傷にすぎない割礼を持つ者たち」であります。これはどれも同じ者たちを指しています。この3つを総合して考えるとこの者たちはイエス・キリストを信じるだけでは救われるのに十分ではなく、割礼を受けなければ救われないと教えるユダヤ主義キリスト者たちであったようです。割礼とは包皮の一部を切り取るという儀式でありますが、旧約聖書において神の民のしるしとして定められておりました(創世記17:9~14)。ですからここで「よこしまな働き手たち」と呼ばれている者たちは、フィリピの信徒たちに割礼を受けるべきであると教えていたのです。割礼を受けるとは旧約の律法を守る責任を負うということを象徴しております。よこしまな働き手たちは、フィリピの信徒たちも割礼を受け、律法のくびきを負うことによってこそ神の民となることができるのだと教えていたのです。しかし、それに対してパウロは、「彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です」と語るのです。2節の最後に、「切り傷にすぎない割礼を持つ者たち」とありましたが、元のギリシャ語にはここに「割礼」という言葉はありません。元の言葉は「切り傷の者たち」と記されているのです。パウロは割礼という言葉を自分たちのために取っておいているのです。よこしまな働き手たちは割礼、割礼と言うが、あれは切り傷に過ぎない。私たちこそ真の割礼を受けた者たちであるとパウロは語るのです。ここでの「わたしたち」はパウロとフィリピの信徒たちのことでありますから、ここでの割礼は包皮を切り取るといった文字通りの割礼のことを言っているのではありません。フィリピの信徒たちはユダヤ人からすれば異邦人でありまして、儀式としての割礼は受けていないからです。むしろ、パウロは割礼が指し示す神の民であるという意味で、「わたしたちこそ真の割礼を受けた者です」と語っているのです。真の神の民の特徴、それは「神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らない」ということであります。旧約聖書には動物犠牲などの様々な礼拝規定がありましたけども、真の神の民は神の霊によって礼拝する者たちであるとパウロは言うのです。また真の神の民は肉に頼らず、イエス・キリストだけを頼りとする、誇るものたちであるのです。肉とは肉体であり、人間そのもののことであります。よこしまな働き手たちは、自分たちは契約のしるしとして割礼を身に帯びているゆえに、神の民であると誇っておりました。しかし、パウロは真の神の民であるかどうかは、肉を頼みとせず、イエス・キリストを誇りとして生きているかどうかによって決まるのだと語るのです。

4.利益と損失

 こう聞きますと、パウロは肉において頼る者がないから負け惜しみでこう言っているのだと思う者たちがいるかも知れません。そのような者たちを念頭に置きつつ、パウロはこう語るのです。4節から6節までをお読みいたします。

 とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。

 よこしまな働き手たちは、割礼を頼りとしておりましたけども、パウロは生まれて八日目に割礼を受けておりました。パウロは由緒正しきベニヤミン族の出身であり、生粋のユダヤ人であったのです。また、よこしまな働き手たちは、割礼を受けることによって律法を守るべきだと教えておりましたけども、パウロは律法を守ることに最も厳格なファリサイ派の一員であり、律法の熱心さのあまり教会を迫害したほどであったのです。ここでパウロは自分が律法の義については非の打ちどころのない者であった語っています。このパウロの自己認識は、彼が律法を行うことに挫折をして、イエス・キリストを信じたのではないことを教えているのです。パウロはユダヤ社会においていわゆるエリートコースを歩んでいた人物であったのです(使徒22:3参照)。しかし、そのようなパウロにいままで利益であったものを損失と見なす価値観の大転換が起こったのであります。そして、その大転換をもたらした出来事が、復活の主イエス・キリストとの出会いであったのです。

5.キリストとの出会い

 パウロとイエス・キリストとの出会いについては使徒言行録の第9章に記されています。ここでは1節から6節までをお読みします。

 さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」

 このようにパウロはイエスの弟子たちを迫害する者であったのですが、しかしそもそもなぜパウロはイエスの弟子たちを迫害していたのでしょうか?そこにはおもに2つの理由が考えられます。1つは、イエスの弟子たちが十字架につけられた死んだイエスを神が復活させメシア、救い主とされたと弟子たちが教えていたからです。ユダヤ人にとって十字架の死は木に上げられた者の死であり、呪われた死と考えられておりました。そのような者が約束の救い主であるはずがないとパウロは考えていたのです。2つ目はイエスの弟子たちがイエス・キリストへの信仰によって救われると教えていたからです。律法に人一倍熱心であったパウロにとって、そのような教えは断じて認めることはできなかったのです。しかし、そのようなパウロに復活の主イエス・キリストは現れてくださいました。そして、御自分こそ主であることを示してくださったのです。このことはパウロにとってまさに青天の霹靂であったと思います。パウロは主に仕えているつもりでイエスの弟子たちを迫害しておりました。しかし、イエスが主であった。パウロはこともあろうに主に逆らい、敵対していたのです。

 パウロのように光に照らされ、キリストの声を直接聞くという出会いを現在の私たちがするわけではありません。現在の私たちがイエス・キリストとどのように出会うのかと言うと、それは教会でささげられるこのような礼拝においてであります。イエス・キリストは聖書の御言葉において私たちに今も語りかけ、目には見えませんけども聖霊において出会ってくださるお方なのです。

6.キリストを知るすばらしさ

 8節から11節までをお読みいたします。

 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたとみなしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。

 今朝の説教題を「キリストを知るすばらしさ」としましたが、それはこの8節から取りました。キリストを知るすばらしさ、それはここでパウロが「わたしの主」といっているようにイエス・キリストとの親しい交わりによって知ることができるすばらしさであります。そのキリストとの交わりを抜きにしては、いくら説明してもなかなかお分かりいただけないと思います。ですから、続けて礼拝に出席していただきたいと思うのです。キリストを知るすばらしさの全体をここでお話することはできませんが、今朝の御言葉からそのすばらしさをお話したいと思います。それはパウロが9節で言っておりますように、イエス・キリストを信じる者には、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神からの義が与えられるということです。義とは簡単に言えば「正しさ」です。かつてのパウロは律法を行うことによって、つまり自分の行いによって神様に正しい者として受け入れていただこうとしておりました。しかし、ダマスコ途上において復活の主イエス・キリストとであったとき、パウロは人は律法を行うことによっては神の御前に決して義とされないことが分かったのです。それは救い主であるイエス・キリストが十字架につけられて死んでくださったお方であるからです。罪のない、何一つ罪を犯したことがないイエス・キリストが罪の刑罰としての死を死んでくださったことは、すべての人が神の律法に完全に従うことのできない罪人であることを教えているのです。また、イエス・キリストが十字架の死から三日目に栄光の体で復活されたことは、イエス・キリストを信じる者が義とされ、イエス・キリストと同じように復活させられることを教えているのです。そしてそのようなことを知るとき、人はもはや肉を頼りとすることなく、イエス・キリストを誇りとして生きていくことができるようになるのです。パウロはイエス・キリストを信じてもなお、割礼を誇るよこしまな働き手たちに注意せよと三度も呼びかけました。それは、肉に頼ることが、イエス・キリストを誇りとすることから私たちを遠ざけてしまうからです。ですから、パウロはかつての自分の利益を損失と見なし、さらには塵あくたと見なすことによって、キリストを得、キリストの内にいる者と認められたいと語るのです。

 どうか十字架と復活の主であるイエス・キリストがこの礼拝に集っている一人ひとりと出会ってくださいますように。そして、私たちにもキリストを頼みとする、キリストを誇りとするすばらしい人生を歩ませてくださるようにと願うのであります。

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