目を覚ましていなさい 2006年2月05日(日曜 朝の礼拝)

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目を覚ましていなさい

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 21章29節~38節

聖句のアイコン聖書の言葉

21:29 それから、イエスはたとえを話された。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。
21:30 葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。
21:31 それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。
21:32 はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。
21:33 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
21:34 「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。
21:35 その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。
21:36 しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」
21:37 それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って「オリーブ畑」と呼ばれる山で過ごされた。
21:38 民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た。ルカによる福音書 21章29節~38節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、前々回と世の終わりについて学んで参りましたが、今朝はその最後になります。もう一度改めて確認いたしますと、聖書は、神がこの歴史の主宰者であると教えています。神が空間と時間をお造りになり、そこで織りなされる歴史を導いておられる歴史の主であられるのです。この歴史は神の目的の実現に向けて進展しているのです。ですから、世の終わりは、同時に神の国の完成を意味するのです。そして、その神の国をもたらすのは、他でもないイエス様ご自身なのです。私たちの罪のために十字架に死に、三日目に復活なされ、天に昇り、父なる神の右に座したもうイエス・キリストが、大いなる力と栄光を帯びて天から来て下さる。そして、御自分を信ずる者たちを正しい者・義なる者として受け入れてくださるのです。ですから、イエス様は、弟子たちに「身を起こして頭を上げなさい」と仰せになるのです。天体が揺り動かされ、誰もが不安と恐怖に陥る中で、イエス様は私たちに「身を起こして頭を上げよ」と仰せになるのです。それは、世の終わりの日が、私たちキリスト者にとって解放の時であるからです。罪という縄目から解き放たれて、父なる神とイエス・キリストとの全き交わりに生きることができる。それゆえに、私たちは頭を上げて、希望を持って、その日を待ち望むることができるのです。

 今朝の御言葉では、イエス様はたとえをお話しになります。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、すでに夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。」。

 いちじくの木は、ぶどうやオリーブの木とならぶイスラエルの代表的な果樹です。そのいちじくの木に葉が出始めるのを見ると夏が近いことが分かる。いちじくの葉が夏の到来を告げているとイエス様は仰せになるのです。私たちも、梅や桜の花が開くことによって春の訪れを感じる者たちでありますから、このイエス様のお言葉は良くお分かると思います。ただ、ここで注目しておきたいのは「おのずと」という言葉です。これは、自分自身で知ることができる、ということであります。誰に教えてもらわなくとも、いちじくの木に葉が出始めるのを見れば、夏が近づいていると判断することができる。それと同じように、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていることを自分自身で悟りなさい、とイエス様は仰せになるのです。偽キリストの「終わりの時は近づいた」という声に耳を傾けるのではなくて、イエス様が教えてくださった終末の徴から神の国が近づいていることを自分で悟りなさいと言うのです。ここでの「これらのこと」とは、8節から教えられている世の終わりの徴を指すと考えられます。つまり、キリスト者への迫害、戦争や暴動、大きな地震、飢饉や疫病、天体の異変など、これまでイエス様が教えてくださった全ての終末の徴がここに含まれているのです。その、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると自分で悟りなさい、と言われるのです。ここでの「神の国」は、栄光の人の子によってもたらされる完全な神の御支配のことです。ちょうど、終わりの日に、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗ってくるのを、すべての人々が見るように、神の王的支配、神の王国は誰の目にも明きからなかたちで実現するのです。

 続けて、イエス様は、これらの言葉が確かであることを宣言いたします。「はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」。

 イエス様は「すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない」と仰せになります。この「すべてのこと」は、先程の「これらのこと」、つまり、あらゆる終末の徴のことであります。そのあらゆる徴が起こるまで、この時代は決して滅びないと言われるのです。偽キリストや世の人々が、「世界の終わりだ」と不安を煽ったとしても、イエス様は「すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない」と言われるのです。ここで「滅びる」と訳されている言葉は、「過ぎ去る」とも訳すことができます。ここに「滅びる」という言葉が3つ並んでおりますが、これはどれも同じ言葉で、どれも「過ぎ去る」と訳すことができるのです。「過ぎ去る」という意味がまずあって、そこから「消え去る」「滅びる」という意味を持つようになった。また、そこから「無効になる」という意味を持つようになったのです。

 現代の私たちは、世の滅びを現実の問題として、考えることができるのだと思います。人間は、地球そのものを破壊することのできる核兵器を手にしておりますから、世の終わりということを現実的なこととして考えずにはおれないのです。しかし、私たちが、わきまえておかなければならないことは、この世界の歴史に終わりをもたらすのは神様ご自身であるということです。人間の手によって、どこかの権力者の手によって、この世界が終わりを迎えるのではない。この歴史に終止符を打たれるのは、この歴史の主である神ご自身であるのです。イエス・キリストの再臨によって、世の歴史は終わりを迎えるのです。このようにイエス様は仰せになるわけでありますが、それでは、その確かさは、どこにあるのか。イエス様は世の終わりについて教えておられるけども、それではその確かさはどこにあるのか。それは天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びないと言われるイエス様お言葉それ自体にあるのです。イザヤ書第40章8節に「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」とあります。また、かつてイエス様も「律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消え失せる方が易しい」と仰せになりました。神様の言葉によって、天地万物は造られましたから、その天地が滅びても、神の言葉は滅びないわけであります。天地は過ぎ去っても、神の言葉は過ぎ去らない、とこしえに立つのです。そして、ここでイエス様は御自分の言葉を神の言葉と同じ絶対的に確かなものである、とこしえに立つものであると仰せになるのです。この「わたしの言葉」の言葉は複数形で記されています。それは、イエス様が語られたある言葉ということではなくて、イエス様が語られた諸々の言葉、全ての教えという意味です。私たちは、旧約聖書だけでなくて、新約聖書をも神の言葉として受け入れていますが、イエス様ご自身がそのように理解しておられたのです。私たちは、主イエスのお言葉を、決して滅びない、とこしえに立つ言葉としてより頼み歩むことができる。キリストの言葉に信頼して、終わりの時にあって落ち着いた生活をすることができるのであります。

 続いて、イエス様はこう仰せになります。「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。」。

 この34節は、元の言葉から直訳しますとこうなります。「あなたがた自身に注意しなさい、放縦や深酒や生活の煩いで心が鈍くならないように」。もう一度申します。「あなたがた自身に注意しなさい、放縦や深酒や生活の煩いで心が鈍くならないように」。

 新共同訳聖書は、「あなたがた自身」という言葉が抜けているのですが、イエス様が何よりも注意せよと仰せになったのは、私たち自身なのです。それはそうでありましょう。放縦や深酒、生活の思い煩いは、どれも私たち自身の心から出てくるものです。放縦とは、自分の思いのままに振る舞うことですから、その原因は自分自身です。深酒も、他人に強制されて飲むというよりも、酔っぱらって何もかも忘れてしまいたいという願望のもとに、自ら進んで飲むのだと思います。また、日常の生活を思い煩うのも自分自身です。生活の必要を自分だけでどうにかしようと父なる神を忘れる時に、私たちは思い煩うのです。なぜ、放縦や深酒、生活の思い煩いが戒められているのか。それはこれらが私たちの心を鈍くしてしまうからです。放縦や深酒、生活を思い煩う時に、そこで私たちは、やがて主イエスが来られるということをすっかり忘れてしまう。やがて自分が主イエスによって裁かれるということをすっかり忘れているのです。心が鈍くなるとは、罪に対して心が鈍くなるということでもあります。確かに、私たちは主イエス・キリストの十字架の贖いによって、罪赦されております。しかし、だからと言って、罪に鈍くなってよいというわけではないのです。ましてや、罪を犯してよいということではありません。私たちは、イエス・キリストにあって罪赦された者として、義とされた者として、罪から自らを遠ざけ、罪と戦い続けなければならない。それゆえに、私たちは心が罪に対して鈍くならないように、自分の心に注意を払わなければならないのです。もし、心が鈍くなっているならば、栄光の人の子が来られるその日は、不意に罠のようにあなたがたを襲うことになるとイエス様は警告なされるのです。イエス様が、私たちに終末のしるしを教えてくださったのはなぜか。これは当たり前のことではないと思います。黙っていても良かったことかもしれません。しかし、あえてイエス様は世の終わりについて教えてくださった。それは、私たちが、主イエスの再臨に備えるためであります。終末のしるしに目を向けつつ、神の国の完成を待ち望むためであります。いや、ただ待ち望むのではない。私たち自身が神の国の完成を目指しつつこの地上を歩むためであります。しかし、往々にして、そのイエス様の御意志に反して、終末のしるしが理解されてきたのも事実であります。先程イエス様は、「すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない」と仰せになりました。ですから、終末のしるしによって、主イエスはまだ来ないと信仰的に眠りこける者たちが出てきたのです。まだ、主人は帰って来ないから、自分たちの好き勝手に生活していようという思いが、私たちの心の中にいつも入り込んでくるのです。しかし、もしそのように過ごしているならば、その日は私たちにとって破滅をもたらす罠となるのです。なぜ、罠となるのか。心の準備が整っていない、不意打ちの出来事であるからです。そして、その日は、パレスチナの地だけではない。地中海世界だけではない。あらゆる所に住む、全世界の人々に襲いかかるのです。主イエスが再び来られる日、心が鈍くなっていてはならない。主イエスをすっかり忘れて過ごしているようであってはならない。もし、そうであるならば、それは解放の日ではなくて、破滅をもたらす罠となるとイエス様は警告なされるのです。そうならないために、イエス様はこうお命じにるのです。「しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」。

 この36節を元の言葉から直訳しますとこうなります。「目を覚ましていなさい、いつも祈りながら、起ころうとしているこれらのことから逃れて、人の子の前に立つことができるようにと」。もう一度申します。「目を覚ましていなさい、いつも祈りながら、起ころうとしているこれらのことから逃れて、人の子の前に立つことができるようにと」。

 イエス様がここで、まず命じておられることは、「目を覚ましていなさい」ということです。主イエスに対して心を鈍くしてはならない。主イエスに対して心をいつもしなやかに、柔らかくしておかなくてはならない。それがここでの「目を覚ましている」ということであります。その「目を覚ましていなさい」という命令に続いて「いつも祈りながら」と続くのです。そうすると、新共同訳とは随分違う印象を受けるのではないかと思います。新共同訳は「祈ること」それ自身が第一の目的とされているように読むことができます。「目を覚まして祈りなさい」とありますから、祈ることが第一の目的だと読むことができるのです。しかし、元の言葉を見ます、第一の目的は「目を覚ましていること」であって、「いつも祈ること」は、目を覚ましているための手段であるということが分かるのです。つまり、放縦や深酒、生活の煩いが、心を鈍くさせるための手段であったように、いつも祈ることは、主の御前に目覚めていることの手段だと言えるのです。それでは、どのようなことを、いつも祈ればよいのか。それは「起ころうとしているこれらすべてのことを逃れて、人の子の前に立つことができるように」ということです。ここでの「起ころうとしているこれらすべてのこと」は、先程と同じ、あらゆる終末の徴を指しております。具体的に言えば、キリスト者の迫害、戦争や暴動、大きな地震、飢饉や疫病、天体の異変などであります。それらから逃れることができるように祈りなさい、とイエス様は仰せになるのです。それらはすべて神の御手の内に起こることでありますが、だからと言ってそれを甘んじて受けよとはイエス様は仰せにならない。イエス様は逃れることができるように祈りなさいと仰せになるのです。もちろん、主イエスの名のために、主イエスを宣べ伝えるために、迫害を受けるならば決して恥じてはなりませんし、忍耐して命を勝ち取らなければなりません。けれども、自分から迫害されることを求めたり、もっと言えば殉教を求めたりすることはあってはならないことであります。戦争や暴動、大きな地震、飢饉や疫病など、それは主なる神のご計画の中で起こっていることでありますけども、だからといって甘んじて受け入れよとは言われない、それらから逃れることができるように、いつも祈りなさいとイエス様は仰せになるのです。そして何よりも、人の子の前に立つことができるように祈りなさい、と仰せになるのです。ここでの「人の子の前に立つ」とは、ただキリストの裁きの場に立つというよりも、キリストの弟子、キリストの僕として立つということであります。つまり、キリストに贖われた主の民の一員として立つことであります。イエス様は、人の子の前に立つことができるように、いつも祈るならば、目を覚ましていることができると私たちに教えてくださるのです。そのように祈りつつ歩む時、私たちの心が鈍くなることはないのであります。それはそうでありましょう。やがて自分が裁かれることを覚えながら、心を鈍くすることは不可能であります。先程私は、心を鈍くするとは、罪に対して心を鈍くすることであると申し上げました。なぜ、罪に対して心が鈍くなるのか。それは自分がやがて裁かれる身であるということを忘れるからです。いや、もっと言えば、私たちの罪のために、主イエスが既に裁かれたということを忘れるからであります。主イエスが私たちの罪の身代わりにどれほどの恥と苦しみをお受けになられたのか。その流された血潮の重みを忘れる時、私たちの心は鈍くなのです。

 私たちキリスト者が裁きを受けると聞くと違和感を覚える方もいらっしゃるかも知れません。しかし、聖書は、私たちキリスト者も裁きを受けることを明確に教えています。ペトロの手紙一によれば、神の裁きは教会から始まるとさえ記されています。例えば、コリントの信徒への手紙二第5章10節に、こう記されています(新約330頁)。「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ、悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて報いを受けねばならないからです。」。

 私たちが、キリストの裁きの座の前に立つとき、ただイエス・キリストを信じたか、ということだけが問われるのではないのであります。主イエスから、「あなたはわたしを信じているか」。「はい、あなたを信じています」。「それではよろしい、じゃあ次ぎ」ということでは終わらないのであります。キリストによって贖われた者として、キリストの恵みに生かされている者として、どのように生きたかが問われるのです。パウロの言葉によれば、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ、悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて報いを受けねばならないのです。イエス・キリストを信じて、ああ、これで神に義としていただけると安心し、心を鈍くするならば、その日は、まさしく破滅をもたらす罠となるのであります。そうならないように、私たちは、人の子の前に立つことができるように、いつも祈りつつ、目を覚ましていなければならないのです。「人の子の前に立つことができるように」、祈りつつ歩んで参りたいと願います。

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