頭を上げよ 2006年1月29日(日曜 朝の礼拝)

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頭を上げよ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 21章20節~28節

聖句のアイコン聖書の言葉

21:20 「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。
21:21 そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。
21:22 書かれていることがことごとく実現する報復の日だからである。
21:23 それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。この地には大きな苦しみがあり、この民には神の怒りが下るからである。
21:24 人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる。異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる。」
21:25 「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。
21:26 人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。
21:27 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
21:28 このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」ルカによる福音書 21章20節~28節

原稿のアイコンメッセージ

 ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエス様は、「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」と仰せになりました。イエス様は、エルサレムの神殿が崩壊することを、それも徹底的に破壊されることを予告されたのです。そのイエス様の言葉を聞いて、彼らはこう尋ねます。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」。ユダヤ人である彼らにとって、神殿が破壊されるということは、世の終わりを意味していました。ですから、彼らは、神殿の崩壊を予告されたイエス様に、いつ世の終わりが来るのか。また、その前兆としてどのような徴があるのかと尋ねたのです。けれども、イエス様は「世の終わりはすぐには来ない」と仰せになるのです。彼らは、神殿の崩壊と世の終わりを同一視しておりました。しかし、イエス様はそうではないと仰せになる。徴は、前兆、予兆でありまして、終末のしるしが見られたからといって、世の終わりはすぐには来ないと仰せになるのです。前回も申しましたが、イエス様の教えの前提にあるものは、旧約聖書の歴史認識であります。それは、神が時間と空間とをお造りになり、神がこの歴史を導いておられるということです。神が歴史の創始者であり、歴史の完成者であるということです。この歴史は、神の目的を実現するために進展しているということであります。私たちは今朝も、終末についての教えを聞くわけですが、この旧約聖書の歴史認識に立って、今朝の御言葉に耳を傾けたいと思います。

 今朝の20節以下で、イエス様はエルサレムの滅亡を予告されます。5節以下には、神殿の崩壊が予告されていましたが、今朝の御言葉には、エルサレムの滅亡が予告されているのです。エルサレムは、ユダヤの首都でありました。エルサレムはユダヤの政治と宗教の中心地であります。そのエルサレムが軍隊に囲まれるとイエス様は仰せになるのです。当時、エルサレムは城壁で囲まれていました。その城壁の周りを軍隊が取り囲むというのです。これは、驚くべきことです。イエス様はエルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい、と仰せになりましたが、それはそうでありましょう。突然、首都であるエルサレムが軍隊に囲まれるということは考えられません。それまでに、ユダヤの至るところで戦いがあったはずです。事実、この預言は、紀元66年から70年まで続いたローマ帝国との戦争によって実現するのでありますけども、エルサレムが包囲されるのは、戦争が始まってから3年が過ぎた頃でありました。ですから、エルサレムが軍隊に囲まれることは、いわば敗戦が確定的となったことを意味するのです。また、イエス様はこう仰せになります。「そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない」。

 イエス様は、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、逃げなさいと言われます。都の中にいる人々は、そこから立ち退き、田舎にいる人々は都に入ってはならない、と仰せになるのです。これは、私たちが読みますと当然のように思いますけども、わざわざこのようにイエス様が仰せになったのは、当時そのような状況が起こり得たからです。つまり恐怖と不安にかられた人々が、神のご加護を求めて、エルサレムに留まり、またエルサレムに入ってくるということです。エルサレムには、神がその名を置くと定められた神殿がある。エルサレムは、神の都であるから、決して滅びるはずはない。必ず、神の介入があるはずだと人々は信じたのです。しかし、イエス様は山に逃げなさいと仰せになるのです。そして、事実、クリスチャンたちは、このイエス様の教えに従い、エルサレムからヨルダン川東岸のペラという町に逃れたのでありました。なぜ、イエス様はエルサレムの滅亡を悟れと言われるのか。また、この都から逃げなさいと言われるのか。それは、書かれていることがことごとく実現する報復の日であるからです。書かれていることとは、もちろん聖書に書かれていることです。当時、聖書と言えば旧約聖書しかありませんから、旧約聖書に書かれていることが実現する報復の日であるとイエス様は仰せになるのです。これを聞いて、私は大変不思議に思いました。確かに、旧約聖書を見ますと、エルサレムの滅亡がいたるところで預言されています。しかし、それはバビロン帝国によって紀元前586年にすでに実現したのではなかったか。しかし、イエス様は、エルサレム滅亡の預言が、今度はローマ帝国によって実現すると仰せになるのです。ローマ帝国によるエルサレム滅亡、それは神の報復の日であり、神の怒りがくだる日なのです。ここで、イエス様は明らかにローマの軍隊以上のものを見ています。イエス様はローマの軍隊の背後におられる方、神を見ておられるのです。そして、それは、エルサレムを滅ぼしたバビロン帝国の背後に神の御手を見てきた旧約の預言者たちと同じであったのです。神とイスラエルの契約である申命記第28章には、イスラエルが主なる神の御声に聞き従わず、その戒めと掟を忠実に守らないならば呪いがことごとく臨み、実現すると記されています。その主の呪いの一つにこうあります。「主は遠くの地の果てから一つの国民を、その言葉を聞いたこともない国民を、鷲が飛びかかるようにあなたに差し向けられる」。

 この所に基づいて、旧約の預言者たちは、バビロン帝国も、イスラエルを懲らしめるための主の道具、ムチに過ぎないと理解したのです。それと同じように、主なる神はローマ帝国を用いてエルサレムに怒りを現されるとイエス様は仰せになるのです。それでは、なぜ、神はエルサレムに怒りをくだされるのか。神の怒りを招いたものは何なのか。その答えは、以前学びましたイエス様のエルサレム入城の場面に記されています。まだ誰も乗ったことのない子ろばに乗って、エルサレムに近づかれたイエス様は、その都のために泣いて、こう言われました。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら・・・・。しかし、今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである」。

 ここで、すでにエルサレムの滅亡が預言されていました。そして、それは、神の訪れてくださる時をエルサレムがわきまえなかったからであると言うのです。エルサレムの人々は、主から遣わされた平和の王である主イエスを受けれないばかりか、十字架につけて殺してしまう。ここに、神の怒りがエルサレムにくだる一つの大きな理由があります。しかし、もちろん、それだけではありません。もしイエス様を十字架につけたことだけが理由であるならば、イエス様の死後40年近く経ってからではなく、もっと速くエルサレムは滅ぼされてもよかったはずです。エルサレムの最大の罪、それはイエス様を十字架につけて殺してしまった罪を認めず、悔い改めなかったことにあります。悔い改めるどころか、イエス様の弟子たちを迫害し、殺しさえしたのです。前回学びましたように、キリスト者の迫害こそ、何よりも先んじて起こる終末のしるしでありました。12節以下に記されているように、イエス様を十字架につけたユダヤ人たちは、その弟子たちをも迫害し続けたのです。この頑なさこそ、エルサレムに神の怒りがくだる最大の理由なのです。

 23節に、「それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ」とありますが、これは逃げることができないからですね。身重の女も乳飲み子を持つ女も移動に時間が掛かる、そこには限りがある。逃げねば救われないほどの大きな苦しみがエルサレムに臨むというのです。事実、ユダヤ人の歴史家ヨセフスによれば、紀元70年のローマ軍によるエルサレム陥落において、110万もの人々が死に、9万7千もの人々捕虜となったと言います。この数字には誇張があると考えられますけども、それでも多くの人々が死に、多くの人々が捕虜となったことは事実であります。そして、イエス様は、「異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる」と仰せになるのです。エレミヤは「70年の時が満ちたなら、主なる神はイスラエルを顧みられる」と預言しました。けれども、イエス様は、「異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる」と言うのです。異邦人の時代とは、イエス・キリストにあって、全世界の民に福音が宣べ伝えられる、今の時代のことであります。イエス・キリストがお生まれになるまで、救いはもっぱらユダヤ人を対象としておりました。イエス様がヨハネによる福音書の4章で仰せになっているように、救いはユダヤ人から来るからであります。神のご計画は、イスラエルを通して、そのイスラエルから出るイエス・キリストを通して、全世界の民を祝福することでありました。その異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされるというのです。1948年に、ユダヤ人はナチスドイツのホロコーストの苦難を経て、パレスチナにイスラエル国の建国を宣言しました。しかし、現在もエルサレムにはアラブ人地区があり、エルサレム神殿があった場所には、イスラームの寺院である黄金のドームが建てられているのです。

 25節以降では、終わりの時のしるしというよりも、終わりの日そのものについて教えられています。25節。

 それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。

 神によって秩序が保たれていた太陽や月や星に徴が現れる。また、神によって、ここから先は満ちてはならないと定められていた海がどよめき始める。それは、諸国の民、イエス・キリストを信じない民にとって、恐怖と不安を引き起こします。なぜなら、人々は、この世界に何が起ころうとするのかを知らないからです。恐ろしさのあまり気を失う者も出てくる。それは、そうでありましょう。イエス・キリストを信じない者たちにとって、世の終わり、終末とは、世界の破滅としか映らないからです。続けて、イエス様は、「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」と仰せになります。ここでの「人々」とは、弟子たちだけではない。恐怖と不安に陥る諸国の民、全世界の人々のことです。イエス様は、今から2000年ほど前に、救い主としてベツレヘムの馬小屋で処女マリアより、ひっそりとお生まれになりました。しかし、再びこの地上に来られる時は、大いなる力と栄光を帯びて、誰にでも見られる仕方で、全歴史と全世界の裁き主として来られるのです。今現在は、自分の心の持ち方一つで、イエス・キリストを拒むことができると考えられています。「イエス・キリストは神の御子、救い主です」と伝えても、「それはあなたにとってはそうでしょうが、わたしにとっては違います」と言われてしまう。しかし、終わりの日には、誰もが認めざるを得ない客観的な事実として、イエス様は大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って天から来られるのです。そして、イエス・キリストを信じない者たちは、そのお姿のゆえに、いよいよ恐怖におののくのです。けれども、そのような時に、身を起こして頭を上げることができる者たちがいるのです。それが、イエス・キリストを信じる者たち、教会であります。イエス様は、弟子たちにこう仰せになります。「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」。

 「身を起こして」とは「まっすぐ立って」という意味です。また、「頭を上げよ」とは「天を見上げよ」という意味であります。これはどちらも希望をもって待ち望む姿勢を指しています。人々が、不安に陥り、恐ろしさのあまり気を失いそうな中で、キリスト者だけが、人の子を希望をもって待ち望むことができる。「主イエスよ、来たりませ」と天を見上げることができるのです。

 こう聞いて、それならば、栄光のイエス様を見てから、イエス様を信じればよいのではないかと思うかも知れません。しかし、それは不可能であります。栄光の人の子の到来を、希望を持って待ち望むことは、突然にできることではありません。なぜ、キリスト者が、栄光の人の子を、希望をもって待ち望むことができるのか。それは、主の日の礼拝ごとに、そのような願いに生きているからです。主の日の礼拝ごとに、「御国を来たらせ給え」と祈っているからこそ、終わりの日に、身を起こし頭を上げて主イエスを待ち望むことができるのです。そして、キリスト者は、何より栄光の主イエスが自分たちを解放してくださることを知っているのです。主イエスが私たちを様々な労苦や病から解き放ってくださる。何より、私たちを罪の縄目から解き放ってくださる。そのために、この地上に来てくださったということを知っているからです。それゆえに、私たちは、主イエスとお会いするとき、うなだれてなどいられない。下を向いてなどいられない。その時こそ、信仰の姿勢を正し、顔を天に向けなくてはならないのです。

 今、天におられ、父なる神の右に座しておられるイエス様は、終わりの日に、栄光の裁き主として来られます。裁きと聞くと、私たち人間は身震いする。恐ろしいと感じるのです。それも神の御前に裁かれるとすれば、気を失うほどでありましょう。しかし、イエス様は、御自分を信じる者たちに「身を起こして頭をあげよ」と仰せになるのです。神の裁きの場に立って、誰が神の御前に顔を上げることができるのか。しかし、イエス様は「身を起こして頭をあげよ」と仰せになる。それは、何よりイエス様ご自身が、私たちの罪の身代わりとしての刑罰を受けてくださるからであります。イエス・キリストがあの十字架において、私たちの罪の刑罰を受けてくださった。そのことを信じるゆえに、私たちは、裁き主である人の子を、希望をもって待ち望むことができる。そして、神の御前に顔を上げて立つことができるのです。

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