終末のしるし 2006年1月22日(日曜 朝の礼拝)

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終末のしるし

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 21章5節~29節

聖句のアイコン聖書の言葉

21:5 ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。
21:6 「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」
21:7 そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」
21:8 イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。
21:9 戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」
21:10 そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。
21:11 そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。
21:12 しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。
21:13 それはあなたがたにとって証しをする機会となる。
21:14 だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。
21:15 どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。
21:16 あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。
21:17 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。
21:18 しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。
21:19 忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」ルカによる福音書 21章5節~29節

原稿のアイコンメッセージ

 イエス様は、今、エルサレム神殿におられます。このエルサレムの神殿は、ゼルバベルによって建てられた第二神殿をヘロデが大改築したものです。ここでのヘロデとは、イエス様がお生まれになった時に、ユダヤの王であったヘロデ大王のことです。バビロン捕囚の後、ゼルバベルによって建てられた第二神殿は、ヘロデ大王の手によって大改築されたのです。ヘロデ大王は、神殿の大改築を紀元前20年に着工し、神殿には1年、聖域には8年の歳月を要したと言われます。けれども、奉献物などによる装飾を含めた完成は、紀元64年を待たなくてはなりませんでした。ですから、イエス様が神殿におられた時も、工事は継続中であったと思われます。このヘロデによって改築された神殿は、大変見事なものであったと言われています。ことわざに、「ヘロデの建築を見たことのない者は美しいものを見たことのない者だ」ということわざがあったほどです。ユダヤ人の歴史家ヨセフスは、エルサレム神殿についてこう記しています。「聖所の外面は、見る者の心や目を圧倒するばかりであった。すべての側面が厚い金の板で覆われていたため、太陽が昇ると燃え盛る炎のような輝きを反射させ、そのため、それを強いて見ようとする者は、太陽の光から目をそむけるように、目をそらさざるを得なかったのである。」。このような神殿でしたから、ある人たちが話題にしていたのは当然なことでありました。エルサレム神殿は、神がその名を置くと言われた場所であり、イスラエルの人々のアイデンティティーと深く結びついておりました。エルサレムの神殿なくして、イスラエルの歴史は語れないし、またエルサレム神殿なくしてイスラエルの宗教も考えることができなかったのです。そのエルサレム神殿が、見事な石と奉納物で飾られているということは、イスラエルの人々にとって、やはり嬉しいことであったと思います。ヘロデ大王が、エルサレム神殿の大改築に着手した理由の一つもそこにあったと言われています。ヘロデ大王は、エドム人の出身でありましたから、イスラエルの人々に人気がありませんでした。ですから、ヘロデはイスラエルの人々の好意を得るために、エルサレム神殿の大改築に着手したと考えられているのです。神殿が立派なものになればなるほど、イスラエルの人々は、これからの自分たちの将来も安泰だと考えたと思います。しかし、イエス様はこう仰せになるのです。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩さずに他の石の上に残ることのない日が来る。」

 これは、驚くべき発言であります。また、過激な発言であります。もっとも、大きく頑丈そうな建物である神殿、また神の臨在の場である神殿が、破壊される日が来ると言うのです。それも、一つの石も崩れずに他の石の上に残ることがないほど徹底的に破壊されると言うのです。このイエス様の「神殿崩壊の預言」をきっかけとして、7節以降では、「終末のしるし」が尋ねられております。イスラエルの人々にとって、エルサレム神殿が崩壊するということは、世の終わりを意味しておりました。彼らは、神殿の崩壊と世の終わりを同一視して、「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか」と尋ねたのです。彼らは、いつ世の終わりがくるのか。その前兆として何が起こるのかとイエス様に尋ねたのです。

 イエス様はそれに対してこう仰せになります。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」

 ここでイエス様は、3つの否定命令を語っています。イエス様は、「惑わされるな」「ついて行くな」「おびえるな」と命じられるのです。わたしの名を名乗る者は、文字通り言えば、自分をキリストであるとする偽キリストのことですが、ここには、主イエスから特別の啓示をうけたと主張する者も含まれると思います。そして、「終わりの時が近づいた」と人々の不安を煽るのです。少し前に、日本でも「世の終わり」ということがだいぶ話題になりました。ノストラダムスの大予言などにもとづいて、世の終わりが来るのではないかと話題になったのであります。ノストラダムスの大予言だけではなくて、キリスト教と看板を掲げる団体においても、世の終わりが近いと唱えていた団体があったようです。海外からのホームビデオを放送するテレビ番組がありますけども、その中に韓国のある団体のものがありました。それは、キリスト教の団体ということでしたが、その団体の教祖の人が、何月何日に世の終わりが来ると預言していた。信者の方はそれを信じて、一つのところに集まり一生懸命お祈りしながら、その時を待っていたのです。しかし、夜の12時近くになっても何も起こらない。ついに、12時を超えて、預言した日付を過ぎてしまった。しばらくの放心状態のあと、人々が騒ぎ始める。「自分は、世の終わりが近いというから、財産を全てささげたのにどうしてくれる」。そのような叫び声があちこちから上がる。そこで、ビデオは終わり、番組のコメンテーターたちは大笑いする。そういうテレビ番組を見たことがあります。滑稽といえば滑稽でありますが、どこか笑えない思いがいたしました。それは、やはり人ごとではないと思われるからです。「おぼれる者はワラをも掴む」ということわざがありますが、不安に駆られた人間は、確信をもって語る人に惑わされやすい、ついて行ってしまいやすいのです。それゆえに、イエス様はここで、私たちに警告なされるのです。「時が近づいた」と語る者に惑わされるな、ついて行くなとイエス様はあらかじめ警告しておられるのです。また、戦争とか暴動のことを聞いてもおびえてはならないと言われます。それは、戦争とか暴動のことを聞いても、すぐに世の終わりがくると考えて、おびえてはならないということです。なぜなら、戦争や暴動は、世の終わりのしるしであっても、世の終わりそのものではないからです。「戦争や暴動は、世の終わりのしるしに過ぎない。そして、それは「起こるに決まっている」と言われる神様のご計画の一部であるのです。もちろん、ここでイエス様は、戦争とか暴動の原因が神様にあると言っているのではありません。戦争や暴動の原因は、何より人間の欲望であり、憎しみ合う心、罪にあります。ここで、イエス様が前提としておられることは、この歴史の主宰者は神であるということであります。神が歴史の創始者であり、歴史を導いておられるお方であるということであります。それゆえに、戦争や暴動も神のご計画の一部であり、それは不可避であると言われるのです。そして、何より世の終わりはすぐには来ないと仰せになるのです。

 今朝の御言葉の小見出しには「終末の徴」とありますし、イエス様ご自身もここで「世の終わり」という言葉を用いておられます。ですから、今朝の御言葉では、終末について、世の終わりについて論じられていることは確かなことであります。しかし、「終末」とか「世の終わり」と聞いてもおそらく多くの方がよく分からないのではないかと思います。私は、この説教を準備していて、大変話しにくいところだなぁと感じました。それは、「終末」や「世の終わり」が時間の理解、歴史の理解と深く結びついているからです。その人がどのような歴史観を持っているかによって、世の終わりの持つ意味というものが大きく変わってくるからであります。この説教を準備するにあたって、私はある1冊の書物を読みました。それはルードルフ・ブルトマンの『歴史と終末論』という本であります。その本の中でブルトマンは、「ギリシャ人は、時間と歴史を自然との類比によって理解した」と語っています。つまり、ギリシャ人にとって、時間は、自ずとそこにあるもの、自然であったのです。そして、そのような時間理解に基づいて、歴史は永遠の円環の中を巡るとものと理解したのです。夜空の星座がある周期ごとに見られるように、また季節が移り変わるように、歴史は巡り巡る循環である捉えられたのです。つまり、そこに始まりとか終わりとかいう概念はないわけであります。けれども、イスラエルの人々、ヘブライ思想は違います。聖書によれば、時間と空間は、神によって造られたものであり、この歴史は神の導きのもとにあります。創造の神は摂理の神でもあるのです。旧約聖書をお読みいただければすぐに分かりますが、旧約聖書は、歴史の主宰者である神の御前に生きていることを自覚している者によって記された書物であります。そこには、神と神の民との歴史が記されており、神の民の罪とそれに対する刑罰と、また祝福の約束が記されています。聖書において歴史は、ある目的をもって進展していきます。それは、神の国の進展という目的であります。ある目的に向かって歴史が進展していく。これは、ギリシャ思想にない考え方です。ギリシャ人は、時間を自然と捉え、それを円環的に理解しておりました。歴史は巡り巡るものだと考えていた。よって、ギリシャの歴史家は、その因果関係を問うても、そこに意味を問うことはありませんでした。ギリシャには歴史哲学なるものは生まれなかったと言われます。それはそうでありましょう。時間が自然であり、歴史が循環であるならば、歴史の意味を問うことはできません。けれでも、ヘブライ思想は、時は神によって造られ、歴史が神の御手のうちにあることを知っていましたから、その歴史の意味を問うことができたのです。そのことは、苦難ということを考えるとよく分かります。苦難と呼ばれる出来事に遭遇する。その時、時間を自然と捉え、歴史を循環するものと考えるならば、そこに意味を問うことはできません。しかし、歴史を神が導いておられることを信じるならば、神に苦難の意味というものを問い、その意味を見出すことができるのです。紀元前586年にエルサレムはバビロン帝国によって陥落いたしました。イエス様は今朝の御言葉で、エルサレム神殿が崩壊することを預言なされましたけども、かつてソロモン王によって建てられた第一神殿はバビロン帝国によって破壊されたのです。このことは、イスラエルの人々にとって真に大きな衝撃でありました。主の神殿が異邦人に踏み荒らされる、これをどう理解すればよいのか。イスラエルの預言者たちは、そこに主の懲らしめ、悔い改めへの招きを見たのです。預言者たちは、その苦難の原因ばかりでなくて、その意味を見出すことができた。それは何より、この歴史がイスラエルの神ヤハウェの御手の中にあうることを彼らが知っていたからです。

 私たちは今朝、「世の終わり」についてのイエス様のお言葉を学んでいるのでありますけども、そのとき私たちは、このヘブライ思想の枠組みの中で世の終わりを捉えなければならないのです。その時はじめてイエス様の教えを正しく受けとめることができるのです。

 先程9節に「戦争とか暴動」という言葉がありましたけども、10節から11節で、イエス様はさらにこう言われます。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。」。

 イエス様は、このようなことが起こったとしても、恐れてはならないと言われます。それは、この歴史が神によって始められ、神によって閉じられることを知っているからです。神は目的をもっておられる。目的をもってこの歴史を導いておられる。その計画の一部として、終わりの時のしるしとしてこれらのことを定めたのだから、それが起こっても恐れてはならないというのです。「恐れてはならない」とは、裏を返せば、「安んじておれ」ということであります。「偽キリストに惑わされ、ついていくな」とは、裏を返せば「イエス・キリストのもとにしっかり留まっていろ」ということであります。そして、その前提にあるものは、この世界の終わりも神の御手を離れては起こらないという信仰に基づく歴史認識なのです。

 これらの終末のしるしを聞いて、ここに記されているものは、もう既に起こったことばかりではないかと思います。人類は、世界規模の大きな戦争を二度経験しました。この地球上では、いつも飢餓に苦しんでいる人々がおります。また、日本においても、世界においても大きな地震がつい最近起こったばかりです。天に現れる著しい徴は、おそらく日食や彗星の接近を指しているのだろうと理解されますから、それらももう起こったことです。ここに記されていることは、どれも起こったことばかり。このことは一体何を意味しているのか。それは、私たちがすでに終わりの時を生きているということです。私たちは終末の時を今、生きているのです。終わりの日は、イエス様が再臨される日でありますから、まだ来ておりませんけども、私たちはすでに終わりの時を生きているのです。それでは、世の終わりの日、つまりイエス・キリストが天から来られ、神の国を完成してくださるまで、私たちは何をすればよいのか。いや、何をするようにように神様のご計画の中で定められているのか。そのことが12節に記されています。「しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなた方に手を下さして迫害し、引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それは、あなたがたにとって証しをする機会になる。」。

 イエス様は、先程、様々な終末のしるしを挙げられましたが、それよりも前に、キリスト者の迫害が起こると言われます。自分の主義主張やイデオロギーのために迫害されるのではない。「わたしの名のために」迫害を受けると言われたのです。キリスト者の迫害、それは戦争や大地震よりも先んじて見られる終末のしるしであると言われるのです。つまり、キリストを信じる私たちそのものが終末のしるしであると言うのです。それでは、どのような迫害を受けるのか。イエス・キリストの名によって語るゆえに、会堂や牢に引き渡される。王や総督の前に引っ張られていくのです。しかし、それは私たちにとって、イエス・キリストを証しをする機会となると仰せになるのです。キリスト教はどのように広まっていったのか。それは迫害を通してであると言えます。迫害を受けることによって、その迫害自体がイエス・キリストについての証しとなったのです。捕らえられる、こう予告されれば、その時はどのように弁明しようかと考えるものであります。私たちも、このような御言葉を読みますと、自分がこのような迫害を受けたらどうしようかとしきりに心配するものであります。けれども、イエス様は、弁明の準備をするまいと心に決めなさいと言われます。何を言おうか、今から考えたりするなと言われるのです。なぜなら、どんな反対者でも、対抗も反論もできない言葉と知恵をイエス様が授けて下さるからです。また迫害は、最も親しい人間関係からも起こります。「あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる」というのです。また、イエス様の名を信じ、イエス様のことを伝えるがゆえに、全ての人に憎まれるというのであります。このような迫害の予告に続いて、「しかし」とイエス様は仰せになります。「しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命を勝ち取りなさい。」。

 これは、明らかに矛盾しているように聞こえます。「中には殺される者もいる」と語った後で「しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」というのです。この地上の命のことだけを考えるならば、これははなはだ矛盾であります。しかし、忍耐によって勝ち取る命が、死を乗り越える永遠の命であることが分かるならば、この矛盾は解けるのです。殺されたとしても、それが主イエスの名のためならば、私たちの髪の毛の一本も決してなくならない。それほど確かな主の守りの中に、私たちは生かされているのです。

 ここで、問われていることも、やはり歴史観であると言えましょう。歴史をこの地上だけの人間の歴史と考えるのであれば、キリストのゆえに迫害されることは、馬鹿げたこと、全く損なことであります。けれども、歴史を時間を超えた永遠へと続く神の歴史と考えるならば、このイエス様の言葉は真実であることが分かるのです。信仰によって、歴史を神の歴史と捉えるときはじめて、私たちは損とも思える迫害を忍耐することができるのです。ここで、「忍耐する」と訳されている言葉は、「ある状況の下に留まり続ける」という意味であります。イエス・キリストの名の下に留まり続ける。悪口を言われようが、憎まれようが、鞭打たれようが、イエス・キリストを崇めて生き続ける。それがここでの忍耐であります。なぜ、このように忍耐することができるのか。それは、何よりイエス・キリストいうお方に私たちの希望がかかっているからです。私たちの心の奥底に、聖霊によって希望が与えられているからです。あるいは、喜びが与えられていると言ってもよい。何の希望もないのに、人は忍耐することなどできません。また喜びがなくて迫害に耐えることなどできないのです。イエス様は、私たちに希望も喜びを与えられずに、ただ我慢していろと仰せになられたのではありません。聖霊において、共にいてくださる。その現実の中で、忍耐しなさいと仰せになるのです。19節に「命を勝ち取りなさい」とありますが、これは「命を確保しなさい」ということであります。なぜなら、弟子たちは、すでにイエス・キリストの命に生かされている者たちであるからです。イエス・キリストの交わりに生きつつ、その命を確保することが私たちに求められているのです。

 今朝の御言葉のはじめに、見事な石と奉納物で飾られた神殿が、徹底的に破壊されるというイエス様の預言の言葉を聞きました。しかし、イエス様を信じる者たちは、髪の毛の一本も決してなくならないほどの主の守りに置かれるのです。これは、まことに、対照的であります。そして、その対照は、私たちの体が、聖霊を宿す神の神殿であるというパウロの言葉を思い起こすときに、いよいよ明らかとなります。神は、私たちの体を神殿とされるほどに、私たちと親密な交わりに生きてくださるのです。それを他でもないイエス様が実現してくださるのです。この迫害の道を誰より先に、歩まれるのは、この預言をなされているイエス様ご自身であります。イエス様ご自身が友人とも呼べるユダに裏切られ、総督の前に引っ張られ、殺されてしまうのです。けれども、イエス様は死から三日目に復活なされます。それは、御自分を信じる者たちに永遠の命が与えられていることを確かに示すためでありました。この主イエスに出会うときに、私たちの歴史観が変えられる。いや、歴史観だけではない。人生観や世界観が変えられるのです。この地上で損得ばかりを考えていた者が、神の国の建設という神の一大プロジェクトに参与する者となる。永遠という神の歴史に生きる者とされるのです。その時、イエス・キリストの名のために迫害されることの意味が見えてくる。迫害される私たちを通して、そこにイエス・キリストの命が立ち現れることを私たちは知るのです。たとえ殺されても、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない、というイエス様の約束が真実であることを知ることができるのです。

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