神の前に生きる 2006年1月15日(日曜 朝の礼拝)

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神の前に生きる

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 20章45節~21章4節

聖句のアイコン聖書の言葉

20:45 民衆が皆聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた。
20:46 「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。
20:47 そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
21:1 イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。
21:2 そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、
21:3 言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。
21:4 あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」ルカによる福音書 20章45節~21章4節

原稿のアイコンメッセージ

 民衆が聞いているとき、イエス様は弟子たちにこう言われました。「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」

 イエス様は、ここで、律法学者を批判しています。律法学者とは、神の掟である律法を権威をもって教える学者のことであります。つまり、当時のユダヤ社会の指導者と見なされていた者たちです。イエス様は、その権威ある者たちを、民衆が聞いている公の場で非難したのです。しかし、ここでイエス様は、ただ律法学者を非難したのではなくて、弟子たちへの警告として、いわば反面教師として律法学者を非難したのでありました。イエス様は弟子たちに、「律法学者に気をつけなさい」と仰せになります。それは、「律法学者のように振る舞ってはならない」、「律法学者の見せかけの行為に巻き込まれてはならない」ということであります。以前も、お話ししましたが、当時のユダヤの国は、政治と宗教が一体的な社会でありました。イスラエルは、神の民でありまして、神がその民を治めるのは、モーセを通して与えた律法によってでありました。律法とは、逆さにしてみれば分かりますが、法律のことであります。ですから、律法学者は、今で言えば法律家、弁護士のような働きをも担っていたのです。そのような律法学者がイスラエルにおいて、重んじられたことは、当然のことでありました。律法学者は、神の言葉である律法の教師であるがゆえに、神の民から重んじられたのです。ですから、イエス様は、ここで律法学者を重んじてはならないと言っているのではありません。そうではなくて、ここでイエス様が問題とされていることは、律法学者自身が、重んじられることを求めているということなのです。律法学者は、律法の教師でありますから、彼らが何より求めることは、神が重んじられるということでなくてはならなかったはずです。しかし、彼らはいつのまにか、神が重んじられることよりも、自らが重んじられることに喜びを見出すようになってしまったのです。私も、聖書を教える教師でありますから、人ごとではないと思っております。説教者は、イエス・キリストの言葉を語るがゆえに、教会において重んじられなければなりません。これは、確かなことであります。しかし、説教者は、いつしかそれを勘違いする危険を持っているのです。神様に栄光を帰すはずの説教者が、自分の栄光を求めるようになる。その誘惑は、いつも説教者の心に入り込んできます。しかしながら、その誘惑も、幸いなことに長くは続きません。なぜなら、教会の交わりから一歩外に出れば、私が御言葉の教師であるということで、重んじてくれる人はほとんどいないからです。皆がクリスチャンではありませんから、牧師であるということで私を重んじる人はほとんどおりません。けれども、イスラエルでは状況が異なっておりました。日本では、1%ほどの人しか、聖書の権威を認める人はおりませんけども、イスラエルでは、100%に近い人が、聖書の権威を認めていたわけです。それゆえに、私の受けている誘惑に比べて、当時の律法学者たちが受けていた誘惑は遥かに強いものであったろうと思います。そして、多くの律法学者がこの誘惑に負けていたわけです。神の栄光を現すべき宗教行為においても、人は自分の栄光を現す誘惑にさらされているのです。

 今朝、特に注目したいのは、47節の「やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」という言葉です。ここに、「やもめ」とありますが、続く21章のお話しの中にも「やもめ」が登場してきます。今朝は、章をまたがってお読みしていただきましたけども、このところは、この「やもめ」という言葉で繋がっております。やもめとは、夫を亡くした未亡人のことを言います。やもめは、社会的に弱者であり、虐げられやすい立場にありました。ですから、神は、やもめに特別な憐れみを示し、人々にもやもめを正義と愛をもって扱うようにと命じられたのです。ですから、律法学者に求められることは、何よりやもめに神の愛を示し、やもめの権利を守ることでありました。しかし、イエス様は、律法学者がやもめの家を食い物にしていると非難されるのです。律法学者が、やもめの家をどのようにして食い物にしていたのか、正確には分かりませんが、次のように推測されます。律法学者は、やもめから法律相談を受けたとき、法外な相談料を取った。また、生前の夫からやもめの世話を委任された弁護士として、やもめの財産を横領した。このようなことが考えられるのです。ともかく、律法学者は、身寄りのないやもめが捧げる神への信頼を、自分たちの利益のために利用したのでありました。

 また、イエス様は、律法学者たちは、見せかけの長い祈りをすると言って非難します。人に自分が敬虔であると思わせるために、長い祈りをすると非難しているのです。祈りとは、神様との人格的な交わりです。宗教行為の最も本質的な営みであります。その祈りでさえも律法学者は、自分の栄光を現す手段としていたのです。私たちも人前でお祈りする時、同じような誘惑を受けることがあると思います。人が聞いているとなれば、どこかで、その人を意識してしまう。そして、神様に捧げているはずの祈りが、知らず知らずに人に聞かせることを目的とした祈りになってしまうことがあるのです。決して他人ごとではない警告が、ここに記されているのです。

 最後に、イエス様は、「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」と断言なさいました。律法学者は、神から与えられた権威を、自らのために用いるがゆえに、人一倍厳しい裁きを受けるというのです。私たちも、主イエスから、与えられた権威を濫用し、自らを重んじる機会とするならば、人一倍厳しい裁きを覚悟しなければならない。特に、重い責任を主から委ねられている者たちは、このことを肝に銘じておかなければならないのであります。

 さて、イエス様は、律法学者を非難した後、目を上げて金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられました。当時、エルサレム神殿には、ラッパのかたちをした13の賽銭箱が置いてあったと言います。その賽銭箱に金持ちたちが献金を入れるのをイエス様は見ていたのです。そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、こう言われたのです。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」

 レプトン銅貨とは、最小の貨幣で、1デナリの128分の1に当たると言われます。1デナリは、当時の日雇い労働者の一日分の賃金と言われますから、レプトン銅貨2枚はごく僅かな金額です。分かりやすく言うと、10円玉2枚を貧しいやもめは献金した、そう考えて良いと思います。当時、賽銭箱の隣りには、祭司たちがおり、誰が、いくら、何の目的で捧げたかを帳簿に付けていたと言われます。その捧げられた金額を、祭司が大きな声で読み上げたというのです。その様子を想像してみて下さい。金持ちたちは、これ見よがしに、大金を献金する。例えば、10万円を献金する。そうすると、祭司は、何々さんが、10万円献金した、と大きな声で告げる。それを聞くとき、おそらく金持ちは、気持ちがよかったと思います。先程の祈りと同様、献金は、その人の信仰と深く結びつけて考えられます。祈りの言葉が整っていればいるほど、その信仰は成熟したものと見なされやすい。それと同じように、献金の額が多ければ多いほど、その人の信仰も立派だと見なされやすいのです。もちろん、祈りと信仰、また献金と信仰は深く結びついています。しかし、それゆえに、自らの栄光を現すという誘惑も入り込みやすいのです。また、この金持ちからの献金の額を読み上げる祭司の顔も、喜びにあふれていたのではないかと想像できます。そこに、貧しいやもめがやって来て、レプトン銅貨二枚を献金する。そして、それを祭司たちが読み上げる。その時の周りの反応も、私たちは、容易に想像することができます。「たったそれぽっちか」とあざける者が出てくる。また、祭司さえ、薄ら笑いを浮かべて「レプトン銅貨二枚」と読み上げたかも知れないのです。けれども、イエス様はそれを御覧になってこう仰せになるのです。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた」。驚くべき言葉であります。なぜ、そのように言うことができるのか。それは、金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである、と言うのです。例えば、金持ちは10万円を献金し、やもめは20円を献金したとする。10万円は20円の5000倍でありますから、私たちの常識からすれば、金持ちの方がたくさんの献金をしたと言えます。しかし、イエス様は、どれだけ献金したかというよりも、そこにどれだけの犠牲が伴っているかを御覧になるのです。よく私たちは、献金を「献身と感謝のしるし」といいます。献身のしるしである献金には何より、痛みが伴うのであります。金持ちたちはたくさんの献金をしました。しかし、それは有り余る中から捧げたに過ぎない。自分の生活費はちゃんと確保して、余った分を献金したに過ぎなかったのです。しかし、このやもめは違います。乏しい中から持っている生活費を全部捧げたというのです。彼女の全財産はレプトン銅貨二枚だけであった。これは、明らかにマイナスであります。一日の生活費が1デナリオンでありましたから、それに到底及ばない金額しかやもめは持っていなかったのです。献金したから、生活費がなくなったのではありません。献金する前から、やもめの今日一日の生活費は不足していたのです。そのなけなしのお金をやもめは神に献げた、とイエス様は仰せになるのです。ここで、私たちは不思議に思う。なぜイエス様は、金持ちたちが有り余る中から献金したと知っていたのだろうか。また、なぜイエス様は、レプトン銅貨二枚がやもめの生活費の全部であると知っていたのだろうか。その答えは、イエス様が神の子であるからとしか考えられません。イエス様は、いくら捧げたかということではなくて、私たちのふところの事情も全てご存じであるのです。すべては主イエス様から頂いたものでありますから、イエス様は私たちが持っている富を把握しておられるのです。金持ちたちややもめのふところ事情を知っておられる。それゆえに、イエス様は、この貧しいやもめがだれよりもたくさん入れた、と仰せになられたのです。

 今朝の御言葉には、献金の場面が描かれておりますから、よく献金の勧めなどに用いられます。この貧しいやもめのように、乏しい中からでも喜んで捧げましょう、このようなメッセージがよく語られます。けれども、私は、そのような勧めを聞いて、イエス様は本当にそのようなことを言っているかなぁと疑問に思うのです。イエス様は、弟子たちに、「あなたがたもこのやもめのように捧げなさい」とは仰っておりません。また、この所から、献金は少なくてもいいのだ、と結論する人もおりますけども、もちろん、そうではありません。なぜなら、イエス様がこのやもめを喜ばれたのは、献金が少なかったからではなくて、それが彼女の全ての生活費であったからです。どうも、分かりづらいのであります。なぜ、分かりづらいのか。それは、私たちが他人の献金について評価しようとしているからです。私たちが、他人の献金というものを評価しようとするならば、おそらく今朝の御言葉は謎のまま終わるのではないかと思います。そうはいっても、イエス様が評価しているではないか、と反論されるかも知れません。けれども、イエス様は特別でありますね。イエス様はいいのです。なぜなら、イエス様は献金を受け取られる側の神の子であられるからです。しかし、もし、私たちが他人の献金についてとやかく言うならば、これは大きな間違いだと思うのです。つまり、どのくらい献金するかは、神様とその人の間で決定されるべき自由な事柄であるのです。私たちの教会では、誰がいくら献金したかということを公表いたしません。会計を担当してくださっている執事さんしか知りません。それを誰にも教えません。私も皆さんがどのくらい献金をしているかを知りません。これは、当たり前だと思うかもしれませんが、献金額を公表する教会もあるのです。それこそ、賽銭箱の横で、献金額を読み上げる祭司のようなものでありましょう。しかし、私たちの教会は、献金額を公表しない。それはなぜかと言えば、献金が強いられたものではなくて、自発的なものであるべきだと考えるからです。献金する動機が、人にどう思われるかではなくて、ただ神様に対する思いから、自由に捧げていただきたいと願っているからです。そもそも、このやもめは、イエス様にほめられようと思って、生活費の全部を捧げたのではありません。彼女は、イエス様が自分について語ったことも知らなかったと思います。そして、イエス様と顔を合わせることもなく、彼女はこの場から去っていったのです。やもめは、ただ神への信頼のゆえに、持っている生活費全てを捧げたのです。ただそれだけであります。彼女は捧げたいから捧げたのです。誰かの模範になろうなどとは全く考えていない。ただ、彼女は自由に捧げただけであります。なぜなら、彼女は、ただ神にだけより頼む、聖書が語るところの貧しい者であったからです。

 ここで、生活費と訳されている言葉は、元々は「いのち」という意味を持つ言葉です。生活費の全てを捧げるとは、その命を神に捧げるということでありましょう。イエス様は、このやもめを御覧になってどれほど喜ばれたかと思う。神殿は完全に強盗の巣になってしまったのではなかった。神を信頼するがゆえに、貧しいやもめは命とも呼べる生活費の全てを捧げたのです。そして、それはイエス様がこれから歩まれる十字架の道を指し示しているのです。ある書物に、このやもめが献金した賽銭箱は、貧しい人への寄付のための賽銭箱であった、と記されていました。私は初めそれを読んだ時、まさか、そんなことはないだろうと思いました。貧しさの極みにいるようなやもめが、貧しい人のために寄付をした。そんなことは考えられないと思ったのです。けれども、この貧しいやもめの姿にイエス様のお姿を重ねるとき、そうかもしれないと思います。このやもめは、貧しい人の寄付として、なけなしのレプトン銅貨2枚を捧げたのかもしれない、こう思うのです。なぜなら、イエス様は、私たちのために貧しくなられ、御自分の命さえも神に捧げてくださったお方であるからです。イエス様は、私たちのために貧しくなり、御自分の命さえ神に捧げてくださった。このことを、私たちが本当に知るとき、乏しい中から生活費の全てを献げた、このやもめの気持ちが分かってくるのだと思います。

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