メシアはダビデの子か 2006年1月08日(日曜 朝の礼拝)

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メシアはダビデの子か

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 20章41節~44節

聖句のアイコン聖書の言葉

20:41 イエスは彼らに言われた。「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。
20:42 ダビデ自身が詩編の中で言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。
20:43 わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで」と。』
20:44 このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」ルカによる福音書 20章41節~44節

原稿のアイコンメッセージ

 クリスマス礼拝、新年礼拝としばらく、ルカによる福音書から離れておりましたけども、今朝からは再び、ルカによる福音書の御言葉を聴いていきたいと思います。久しぶりということもありますので、少し前の方から語ってみたいと思います。

 イエス様は、まだ誰も乗ったことのない子ろばにお乗りになり、エルサレムへと入城されました。イエス様は、ゼカリヤの預言を実現する平和の王としてエルサレムへと入城されたのです。それから、イエス様は、神殿の境内にお入りになり、商売をしている者たちを追い出される。それは、「祈りの家」であるはずの神殿が、金儲けの場となっていたからです。このような振る舞いは、当然、神殿祭儀をつかさどっていた祭司長たちの反感を招きました。イエス様は、毎日、神殿の境内で民衆を教え、福音を告げ知らせておりました。そこに、最高法院を構成する祭司長、律法学者、長老たちが参りまして、イエス様と議論をいたします。彼らも、イエス様に教えを乞いに来たのかといいますと、そうではありません。祭司長たちは、イエス様をおとしいれるために、イエス様に質問を投げかけたのです。初めの質問は、権威に対する質問でありました。神殿の境内から商売していた人々を追い出し、そこで民衆を教える、その権威を誰が与えたのか、と祭司長たちはイエス様に問うたのです。これに対して、イエス様は、逆にヨハネの洗礼の出所をお尋ねになります。私の質問に答えるならば、私も答えよう、というわけです。けれども、彼らは、その質問に答えることができませんでした。なぜなら、彼らはヨハネの権威が天からのものであったことを否定する者たちであり、民衆を恐れたからです。先駆者であるヨハネの権威を認められないならば、イエス様の権威を認めることはできませんから、イエス様は「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」と答えられました。けれども、イエス様は、その答えを「ぶどう園と農夫のたとえ」の中で、お語りになるのです。その譬え話の中で、ぶどう園の主人から遣わされ、農夫たちに殺されてしまう愛する息子、それが自分である、とイエス様は教えられるのです。そして、御自分の上に「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」という御言葉が実現すると仰せになられたのです。家を建てる者、イスラエルの指導者たちが、役に立たないと思って捨てた石、その石である自分が、新しいイスラエルの礎となると仰せになられたのです。そればかりか、神は、この石に全世界の裁きを委ねられると仰せになられたのです。祭司長たちや律法学者たちは、この譬えの農夫たちが自分たちのことを指していることが分かりました。それでは、彼らは民衆と共に「そんなことがあってはなりません」と叫んだかと言うと、そうではありません。祭司長たちは、この譬え話にある通り、イエス様に手を下そうとしたのでありました。

 祭司長たちや律法学者たちは、宗教的な権威に訴えて、イエス様を陥れようとしましたが、それが難しいことが分かり、こんどは政治的な権威に訴えようとします。つまり、彼らは、ローマの総督ポンテオピラトの支配と権力のもとにイエス様を引き渡そうとしたのです。律法学者たちは、回し者を遣わし、「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているか、適っていないか」と質問します。もし、「適っている」と答えるならば、民衆は、がっかりしてイエス様のもとを去っていたでありましょう。また、もし「適っていない」と答えるならば、皇帝の支配に逆らう者として、訴えられたに違いなのです。イエス様は、彼らのたくらみを見抜いて、彼らのふところからデナリオン銀貨を出させました。彼らがデナリオン銀貨を持っていたこと。それは、彼らがローマ皇帝の支配の恩恵にあずかっていることを示しています。そして何より、彼ら自身がローマ皇帝に税金を納めていたことを示しているのです。続けてイエス様は、デナリオン銀貨には誰の肖像と銘が刻まれているかと尋ねられました。彼らが「皇帝のものです」と答えると、イエス様はこう言われます。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。イエス様は、皇帝の権威というものをここで認めておられます。しかし、さらに大きな権威があることを思い起こさせるのです。ここでの「神のもの」とは、神のかたちに似せて造られた私たち人間そのものであります。デナリオン銀貨に、皇帝の像と銘が刻まれているゆえに、皇帝のものであったように、人間は神のかたちに似せて造られ、その心に神の言葉が刻まれているゆえに、神のものであると言えるのです。ここで、イエス様は皇帝の権威が遥かに及ばない、神の権威があるということを教えられたのです。ここでも律法学者たちのもくろみは失敗に終りました。

 さて、今度は、復活があることを否定するサドカイ派の人々がイエス様に質問いたします。サドカイ派は、祭司を中心とする上流階級の人々でありました。彼らは、モーセ五書のみを神の言葉として認めておりました。彼らがモーセ五書を読む限り、復活については何も教えていない。そればかりか、復活信仰と矛盾することが命じられていたのです。そのことを彼らはここで、イエス様に問うたのです。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけなければならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると、復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。」。

 もし、復活するならば、妻の奪い合いになるのではないか、そうサドカイ派の人々は問うたのであります。これに対して、イエス様はこう答えられました。「この世の子らは、めとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。」。

 当時、ファリサイ派の人々も、また多くの民衆も死者の復活を信じていました。けれども、それは、この世の延長線上のことでしかなかったのです。復活した後も、また同じような生活が続くと彼らは考えていたのです。けれども、ここでイエス様はまったく新しいことを教えられるのです。「復活の世においては、結婚という制度はない。そこでの人々の関係は、夫と妻、親と子、というものではあり得ない。なぜならば、復活にふさわしいとされた者たちは誰もが神の子とされるからだ」とイエス様は仰せになるのです。復活の世には、一つの家族しかありません。それはイエス・キリストを信じる者たちからなる神の家族であるのです。

 さらに、イエス様は彼らが正典とするモーセ五書の中から、復活があるということを教えられました。「死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」。

 主は、御自分をアブラハムの神だった。その次に、イサクの神だった。それから、ヤコブの神であった、と語ったのではありません。そうではなくて、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と語っている。このことは、主にあってアブラハムも、イサクも、ヤコブも生きていることを教えているのだ、とイエス様は仰せになるのです。つまり、神と神を信じる者の関係は、死によっても引き裂かれることはない、ということであります。夫と妻、親と子といった関係は、死によって終わりを迎えることでありましょう。けれども、神との関係、神との交わりは死によって終わることはない。それゆえ聖書は、神と私たちとの交わりを永遠の命と呼んでいるのであります。

 このイエス様の答えを聞いて、イエス様に反感を覚えていたはずの律法学者たちも驚嘆しました。律法学者の中には「先生、立派なお答えです」と言う者もいたのです。そして、彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしませんでした。イエス様の知恵に到底太刀打ちできないことがよく分かったからであります。

 さて、今朝の御言葉は、この続きとして記されています。これまで、多くの問答がなされてきましたけども、今朝の御言葉はその最後の問答といえます。そして、この最後の問答では、イエス様の方から、彼らに質問を投げかけているのです。これまでの問答は、どれも祭司長たちや律法学者、あるいはサドカイ派の人々から始まったものでありました。けれども、ここでは、イエス様の方から、彼らに尋ねているのです。ここでの「彼ら」が、どの人々を指すのかは特定しにくいのでありますけども、これまでの文脈からすれば、サドカイ派の人々に限定されない、律法学者たちや民衆を含む幅の広い人々と言えます。イエス様は、誰もが立ち入ることのできる神殿の境内で教えていたわけですから、そこには様々な人々が集まっていたと思います。その彼らにイエス様は、こう言われるのです。 

 「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。ダビデ自身 が詩編の中で言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで」と。』このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」

 メシアとは、油注がれた者という意味でありました。イスラエルにおいて、王や祭司が任職する時、油を注いだ。油を注ぐということによって、神から特別な賜物が与えられたことを現したのです。後に、このメシアという名称は、待望される救い主を指す言葉となりました。そして、旧約聖書は、この救い主がダビデの子孫から出ると預言していたのです。私たちは、これまで、ルカ福音書をはじめから学んできましたけども、ルカは、イエス様がダビデの家系に連なる者であることをはっきりと記して参りました。イエス様を聖霊によって身ごもったマリアは、ダビデ家のヨセフのいいなずけでありました。イエス様は、血筋では、ダビデの家に連なるものではありませんでしたけども、家系としてはダビデの家に連なるものであったのです。また、ルカは、イエス様がダビデの町ベツレヘムでその産声を上げたことを記しました。また、系図の始めには、「イエスはヨセフの子と思われていた」と記しております。エリコの盲人も、イエス様を「ダビデの子よ」と呼びかけたのでありました。そして、イエス様ご自身も、その呼びかけを無視なさらず、盲人の願いを叶えられたのありました。

 ですから、イエス様はここで、ご自分がダビデの子である、ダビデの家系に連なる者であることを否定しているのではありません。むしろ、イエス様がここで問うていることは、「メシアは、ダビデの子という名称だけで捉えられるか」ということであります。メシアを「ダビデの子」という言葉で言い尽くすことができるのか、ということであります。

 私は、先程、ファリサイ派の人々や多くの民衆が復活を信じていたけども、それはこの地上の生活の延長線上のことでしかなかった、と申しました。復活の世においても、今と同じような生活が続く彼らは考えていたのです。しかし、そのことは、いたしかたないことであると思います。私たち人間は、今知っているものでしか、ものを考えることができないからです。見たことのないものを説明するとき、すでに見たことのあるものを用いてそれを説明しようといたします。また、味わったことのないものを説明するとき、すでに味わったことのあるものを用いて説明しようとするのです。ですから、復活の世での生活を考える時に、その手がかりとなるものは、今の地上の生活しか彼らにはなかったわけですね。そして、それは、来るべきメシアについても同じ事が言えたわけです。彼らは、メシアと聞いて、自分たちが既に知っている人物を手がかりに考えるわけであります。そして、それがあのダビデ王だったわけです。人々は、来るべきメシアをダビデのような救い主と期待したのでありました。ちょうど、復活の世の生活を、この地上の生活から考えたように、人々はメシアを自分たちがよく知っているダビデのような人物であると期待したのです。ですから、ここでのイエス様のお言葉、「どうして人々は『メシアはダビデの子だ』と言うのか」、これはメシアがダビデの家系に属するか、属さないかを問うているのではなくて、「どうして人々は、『メシアはダビデのような人物である』と考えるのか」と問うているのです。もう一度申します。ここでイエス様は、メシアがダビデの家系に属するか、属さないかを問うているのではなくて、「どうして人々は、『メシアはダビデのような人物である』と考えるのか」と問うているのです。

 「ダビデの子」、これはエリコの盲人ですら叫んだぐらいですから、民衆に広く行き渡っていた、メシアの理解でありました。けれども、私たちが注目すべきは、イエス様の口から、「私はダビデの子である」と言われたことは一度もないという事実であります。イエス様は御自分のことを「ダビデの子」と言われたことは一度もないのです。イエス様はいつも「人の子」という名称を用いておられました。今朝の御言葉からも分かりますように、イエス様は、御自分が「ダビデの子」と呼ばれることに消極的であります。また、メシアをダビデの子と定義することにも消極的であります。それはなぜか、と申しますと、この「ダビデの子」という名称が、民族主義的、政治的色彩というものを色濃く持つ呼び名であったからです。メシアを「ダビデの子」と呼ぶ時、そこで期待されるものは、軍事力によって、イスラエルをローマ帝国の支配から解放し、かつてのダビデ王国のような栄光を、イスラエルにもたらすことでありました。けれども、イエス様は、メシアとは、そのような民族主義的な、政治的なものなのか、と問いかけておられるのです。そして、そのことをダビデの詩編から考えさせようとしておられるのです。先程は、サドカイ派の人々が、モーセの言葉を用いて、復活信仰に疑問を投げかけましたけども、今度は、イエス様が、ダビデの言葉を用いて、メシアをダビデのような救い主と考えることに疑問を投げかけておられるのです。

 ここで、引用されている詩編は110篇であります。当時、この詩編は、メシア預言として広く知られていたようです。そのことを前提として、イエス様はここで詩編110篇を引用しております。そこで、ダビデはこう語っておりました。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで」と。』

 初めの「主」も「わたしの主」も元のギリシャ語を見ますと、同じ「キュリオス」という言葉で記されています。けれども、この所を、ヘブライ語の旧約聖書で見ますと、はじめの「主」はヤハウェと記されています。そして、次の「わたしの主」はアドナイと記されているのです。ヤハウェとは、神様の固有のお名前です。そして、アドナイとは主人という意味であり、神様にも人間にも用いられる名称でありました。ですから、はじめの「主」は、これは明らかに神様のことであります。そして「わたしの主」は、神様とは異なる人物であり、しかも主人と呼ばれる者のことなのです。そして、人々は、この「わたしの主」をメシアを指していると解釈していたのであります。王であるダビデが、メシアを主と呼んでいる。そして、神はこのメシアを、ご自分の右の座にお着けになる。古来、王の右の座には、皇太子や大臣が座り、その国を王と共に支配した言われています。ダビデは、メシアが神の右の座に着き、神と共にこの世界を支配すると預言したのです。そうであるならば、メシアは、どうしてダビデのような救い主と言えるのか、こうイエス様は問うているのです。

 今朝の御言葉には、「ダビデの子についての問答」と小見出しが付けられています。しかし、実は、ここに問いは記されていても、答えは記されてはおりません。イエス様の一方的な問いかけで話しは終わっているのです。それは、おそらく、誰もこのイエス様の問いかけに答えることができなかったからだと思います。ダビデのようなメシアではなくて、ダビデが主と呼ぶほどのメシア、それが一体どのようなメシアなのか。誰も想像することができなかったのです。それは、人間の理解を超えたメシアであったからです。そして、この時、おそらく、イエス様の弟子たちも、それがどのようなメシアなのかが分からなかったと思います。律法学者や祭司長たちだけではない。イエス様の弟子たちも、ダビデ王が主と呼ぶほどのメシアとは、どのようなメシアかが分からなかったのです。しかし、その弟子たちが、やがて胸をはって、この問いに答える姿を、後にルカは記しております。それは、使徒言行録の2章であります。新約聖書の216頁をお開きください。ここには、ペトロの説教が記されています。イエス様が十字架の死から復活され、それから40日後に天へと昇られた。それから10日後に、イエス様は約束されていた聖霊を遣わされたのです。その聖霊を受けて、ペトロは、11人と共に立ち説教したのでありました。32節から36節をお読みいたします。

 「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで。」』だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」。

 ここで、ペトロも、イエス様が引用なされた詩編110篇を引用しております。そして、神の右に上げられるとは、復活されたイエス様が天にお昇りになられたことを預言していたのだと説き明かしたのです。そして、何より、十字架に死に、復活されたイエス様を、神はメシアとなされたことを大胆に宣言したのであります。

 それでは、この詩編にある「あなたの敵」とは一体誰のことなのか。もし、メシアを「ダビデのような人物」と考えるならば、ここでの敵は異邦人、何よりもローマ人であると言えます。けれども、そのメシアが、「ダビデの主」、つまり神の子であるならば、その敵は、ローマ人ではなくて、神に敵対する悪魔、サタンなのであります。それは、罪の力と言い換えることもできます。なぜなら、ペトロは、悔い改めて、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるならば、罪の赦しをいただくことができる、と語っているからです。また、ここでの敵は死の力とも言い換えることができます。なぜなら、使徒パウロも、第一コリント書の15章で、この詩編110篇を引用し、「最後の敵として死が滅ぼされる」と語っているからです。サタンの支配、罪の支配、死の支配、そのようなものに勝利してくださった救い主、それがイエス・キリストなのであります。私たちの存在を、その根本から救ってくださるお方、それがイエス・キリストなのです。

 ペトロは、この説教をこう結んでおります。39節。「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」

 ダビデの属するユダヤの民だけではありません。この約束、メシアによる救いは、主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているのです。イエス・キリストは、ユダヤ人だけの救い主ではない。全人類の救い主、主となられたのです。なぜなら、イエス・キリストは、ダビデの子以上のお方、神の右に座する神の子であられるからです。

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