復活はあるか 2005年12月18日(日曜 朝の礼拝)

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復活はあるか

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 20章27節~40節

聖句のアイコン聖書の言葉

20:27 さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。
20:28 「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
20:29 ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。
20:30 次男、
20:31 三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。
20:32 最後にその女も死にました。
20:33 すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」
20:34 イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、
20:35 次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。
20:36 この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。
20:37 死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。
20:38 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」
20:39 そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。
20:40 彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。ルカによる福音書 20章27節~40節

原稿のアイコンメッセージ

 イエス様が、神殿の境内で民衆を教え、福音を告げ知らせておられると、今度は、サドカイ派の人々が近寄って来ました。サドカイという名称は、ソロモン王時代の大祭司ツァドクに由来すると考えられています。サドカイ派はファリサイ派と並ぶ、宗教一派でありました。当時のイスラエルの宗教は、一枚岩ではなくて、いくつかの宗派からなっていました。ファリサイ派が、中流階級から構成されていたのに対し、サドカイ派は上流階級から構成されていました。サドカイ派は、祭司や貴族を代表するものたちであり、イスラエルを治める側であったのです。よって、彼らは宗教よりも政治に多くの関心を持っていました。彼らは現実主義者であり、ローマ帝国との妥協的平和を維持したいと考えていたのです。その彼らにとって、メシアと期待されるイエス様は、目障りな存在でした。何とかしてイエス様をやりこめてやりたい、民衆の前で恥をかかせて、その人気を奪ってやりたい、こう彼らは考えたのだと思います。そして、サドカイ派の人々は、イエス様に、復活について尋ねたのです。けれども、27節にありますように、サドカイ派の人々は復活があることを否定する者たちでした。イエス様に尋ねなくとも、自分たちの立場ははっきりしているわけです。彼らは、死んだら無になる。死んだらそれで終わりだ、こう考えていたのです。ですから、ここで、サドカイ派の人々は、教えてもらいたいという気持ちからイエス様に尋ねたのではなくて、議論をしてやろうという思いで、イエス様に復活について尋ねたわけです。当時、ファリサイ派や多くの民衆は死者の復活を信じておりました。そして、イエス様もファリサイ派と同じように、復活を信じていたと見なされていたようです。サドカイ派が復活がないと考えていたこと、それは彼らがモーセ五書だけを正典としていたことと関わりがあります。サドカイ派は、宗教的には保守的でありまして、モーセによって記されたとされるモーセ五書、つまり、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記しか、神の言葉としての権威を認めていませんでした。これに対して、ファリサイ派は、預言者の書物や詩編といった諸書をも正典としておりました。そればかりか、彼らは先祖の口伝をも、口伝律法として正典と同じように扱っていたのです。イエス様の時代、どれが正典で、正典でないかということは、合意がなかったのです。はじめて、これが旧約正典であるという合意ができたのは、ローマ帝国によってエルサレムが陥落した後、紀元90年のヤムニア会議においてでありました。ですから、当時は、それぞれの宗派によって、正典とするところが違っていたわけです。そして、サドカイ派は、はじめの5つの書物、モーセ五書にしか、神の権威を認めていませんでした。それゆえに、彼らは、復活があることを否定していたのであります。なぜなら、モーセ五書を見る限り、復活ということは教えられていなかったからです。もし、皆さんが、旧約聖書のどこで復活について教えていますか、と尋ねられたら何と答えられるでしょうか。おそらく、ダニエル書12章2節を上げて答えるのではないかと思います。ダニエル書12章2節には、こう記されています(1401頁)。「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り/ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。」

 また、イザヤ書の25章7節、8節も復活の希望について教えています。(1098頁)。「主はこの山で/すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼし/死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。」

 これらの聖句を示して、旧約聖書にも復活の希望が記されている、と答える事ができます。しかし、サドカイ派の人々にしてみれば、ダニエル書もイザヤ書も、正典ではありませんでしたから、もしサドカイ派の人々に、復活があることを論証するならば、その根拠をモーセ五書の中から示さなければならなかったのです。そして、サドカイ派の人々が読む限り、モーセ五書は、復活について何も教えていなかったのです。それどころか、モーセ五書を見れば、復活信仰と相容れないようなことが書いてあると言うのです。それを彼らは、イエス様に問うたのでありました。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」

 ここで、サドカイ派の人々は、申命記の25章の規定を取り上げて論じています。申命記の25章の5節から6節には、こう記されています(旧319頁)。「兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。」

 これは、いわゆるレビラート婚と呼ばれるものです。イスラエルの中から家系を絶やさないために取られた制度でありました。イエス様の時代には、この制度はもう廃れていたと言われています。しかし、聖書をみれば、モーセは、このような仕方で、イスラエルの中から家系を絶やさないようにと命じていたのです。そこで、サドカイ派の人々はこう問うのです。「もし、復活があるならば、その女は、復活の時、誰の妻になるのか」。そして、復活ということが、モーセの教えにそぐわないことを明らかにするために、七人の兄弟が一人の女を妻にするという、考えにくいことを想定したのであります。もし、復活があるならば、この女は誰の妻になるのか。妻の奪い合いになりはしないか。そう質問するのであります。このような質問は、ここで始めてなされた質問というよりも、サドカイ派とファリサイ派の間で、よく議論されたことであったようです。いわば、ファリサイ派の人々の口を封じるためのサドカイ派の切り札とも言える議論でありました。ファリサイ派は、自らをモーセの弟子とする者たちでありますから、そのファリサイ派の人々に、モーセ自身がレビラート婚を定めているけども、復活した時にはどうなるのか。そう質問して、ファリサイ派の人々を困らせたのです。この問いに対してファリサイ派の人々は、こう答えたと伝えられています。その女を妻にする権利は、まず長男にある。もし長男がそれを拒否するならば、次男にある。そして、次男が拒否するならば、三男にある。こう答えたと言うのです。しかし、イエス様は、ここでファリサイ派とは全く違う答えを為されました。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。」

 ファリサイ派の人々が、長男に妻をめとる権利があると考えたのに対して、イエス様は、「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない」と仰せになりました。これは、全く新しい考え方であります。ファリサイ派の人々は、復活を信じておりましたけども、それは、この地上の生活の延長線上のことでしかありませんでした。また同じような生活が続くと彼らは考えていたのです。しかし、イエス様は、この地上の生活と復活の世の生活とは異なる、と仰せになるのです。「復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない」と言うのであります。その第一の理由として、この人たちは死ぬことがなく、天使に等しい者とされるからです。もはや死ぬことがない。それゆえに、子孫の繁栄のための結婚という制度は、不必要となるのです。もちろん、結婚は、子孫の繁栄だけが目的ではありませんけども、結婚の大切な目的の一つは、子孫の繁栄でありました。創世記の1章に記されているように、神様が人を造られたとき、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」と祝福をなされました。その「産めよ、増えよ」という神様の祝福を実現する場として、神様は結婚という制度を定められたのです。また、復活の世で、子孫を繁栄する必要がないのは、数が満ちているからでありますね。小羊の命の書に名前が記されている数え切れないほどの多くの者たちで数か満たされているからです。天国の定員は一杯なわけです。そしてもはや死がない以上、さらに人数を増やす必要はなくなるわけであります。また、「めとることも嫁ぐこともない」、その第二の理由として、復活にあずかる者は、神の子とされるからです。この地上には、多くの家族があります。しかし、来るべき世には、一つの家族しかないのです。それは神を父とする、神の家族であります。この地上での夫と妻、親と子という関係が、主にある兄弟姉妹という関係になるのであります。教会で互いに兄弟姉妹と呼び合うことは、この復活の世を先取りしているのです。復活にふさわしいとされた者たち全てが一つの家族であるわけですから、そこで、めとったり、嫁いだりすることはないのです。こう聞いて、何だか寂しいなぁと思う方もいらっしゃるかも知れません。復活の世にあっても、自分はあの人の夫であり続けたい。あるいは、自分はあの人の妻であり続けたいと思うかも知れません。けれども、結婚という制度は、この地上に生きている間だけの制度であるのです。結婚の誓約にもありますように、結婚は「死が二人を分かつまで」有効とされるおごそかな誓約なのです。しかし、復活の世において、結婚関係が解消されることは、夫と妻が見知らぬ二人になるということではありません。むしろ、復活の世においては、私たちの聖化が完成され、全き信頼に生きる者とされるのです。私たちの交わりを妨げるもの、それは不信感でありますね。信じることができない。信用ならない。こういう人とは、交わりを持つことはできません。もし、できたとしても、それはうわべだけのお付き合いであります。けれども、復活の世においては、その不信感が全くないわけであります。完全に信頼しきって互いに交わることができるのです。この地上で、夫婦関係はもっとも居心地の良い間柄でありますけども、それを越えた関係を、復活の世では誰とでも持つことができる。それは、私たちの想像を越えた、神の家族として完全な愛の交わりなのです。

 イエス様は、ファリサイ派とは異なる復活の世界を教えられました。そして、さらに、復活が確かであることを、サドカイ派の人々に教えられたのです。「死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」

 イエス様は、サドカイ派の人々が正典と認めるモーセの書から復活を論証なされました。『柴』の個所とは、モーセが神から召命を受けた出エジプト記の3章を指しています。イエス様の時代、まだ章や節の区分はありませんから、『柴』の個所と言われたのです。そこで、羊飼いとして働いていたモーセは、不思議な光景を目にします。柴が火に燃えているのに、いつまでたっても燃え尽きない。モーセは、この不思議な光景を見届けようと近づいて行きました。その時、神は、柴の間からモーセにこう語りかけたのです。「わたしはあなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。主は、自分をアブラハムの神であった、イサクの神であった、ヤコブの神であったと言われたのではありません。まるでアブラハム、イサク、ヤコブが生きているかのように、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と仰せになられたのです。そして、イエス様は、ここに死者が復活することが教えられていると言うのです。なぜなら、神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神だからであります。このことは、一体何を意味しているのでしょうか。それは、アブラハム、イサク、ヤコブが主にあって生きているということなのであります。そして、彼らが、かの日には復活するということなのです。死というものは、私たちから容赦なく様々なものを奪っていきます。その一つに人間関係があります。死というものは私たちから人間関係を奪っていく。親を亡くした子供はどんなに悲しいことか。また、子供を亡くした親はどんなにつらいことか。死は、様々な人間関係を私たちから奪っていきます。しかし、死は、神との交わりを奪うことはできないのです。それは、神が死に勝利される命を持っておられるからです。神が死者を生き返らせ、無から有を呼び出すお方であるからであります。私たちは、よく、亡くなった人に対して、「何々さんは、私たちの中で永遠に生き続ける」という言葉を耳にいたします。特に、有名な方が亡くなると、そのような言葉をメディアを通して耳にいたします。しかし、私は、その言葉を聞いて、その私たちもやがて死ななければならない、と思うのです。「何々さんは、私たちの中で永遠に生き続ける」。しかし、その私たちが永遠に生きるわけではないのです。けれども、それが永遠の命をもっておられる神様の言葉であったとしたらどうでしょうか。もし、この言葉を、死者を生き返らせ、無から有を呼び出す神様が語るのであれば、それは真実なのであります。イエス様は、最後に、「すべての人は、神によって生きているからである」と仰せになりました。すべての人は、神に対して生きている。こう仰せになられたのです。そして、ここに聖書が教えるところの「いのち」があるのです。いのちとは何か。私たちは、今生かされていますから、そのことを改めて考えることはないかも知れません。しかし、命とは何なのか、このことをいつも問うていただきたいと思います。命とは何なのか。それは神との交わりに生きることです。神に造られ、神に贖われた者として、神を礼拝して生きるところに、いのちがあるのです。心臓が動いて、息をしている。それだけで、生きていることにはなりません。神に対して生きなくては、人は、本当の命に生きることができないのです。アブラハム、イサク、ヤコブといった族長たちも神に対して生きた者たちでありました。ですから、彼らはたとえ死んでも、神との交わりから閉め出されることはないのであります。なぜなら、神との交わりは、死によって断ち切られるものではないからです。死は、地上の人間関係に終わりをもたらすことでありましょう。けれども、神との関係は死によって失われることはないのであります。そして、ここに、復活の世の人間関係が、夫と妻、親と子といったものではなくて、主にある兄弟姉妹である理由があるのです。この地上の人間関係は過ぎ去って行きます。しかし、主にある交わりは永遠に続くのです。

 そもそも、なぜ、サドカイ派は、復活があることを否定したのか。その根本的な理由は、彼らが生きて働く神を信じていなかったからです。復活信仰というものは、どこから出てきたのか。それは、神を正しく知ることによってでありました。神を神として正しく知った時、神との交わりは死によって終わるものではないと信じることができたのです。そして、神はイエス様を死から三日目に復活させることによって、その復活の希望を確かなものとしてくださったのです。イエス様は、35節で、「死者の中から復活するのにふさわしい人々」と仰せになりました。それはどのような人々を言うのか。それは、神がイエス・キリストを死者の中から復活させたと信じる者たちであります。生きる神を信じるということ。それは、イエス・キリストを死者の中から復活させた神を信じるということなのです。

 このように、復活とは、今、この地上で、生ける神との交わりに生かされている者だけが、信じることのできる現実なのです。私たちは、イエス・キリストによって、すでにこの永遠の命に生かされております。それゆえに、神と私たちとの交わりが、死を越えて続いてゆくことを信じることができるのです。今、イエス・キリストを通して、生ける神を礼拝しているがゆえに、その交わりが死を乗り越えて続いて行くことを信じることができるのです。

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