皇帝と神 2005年12月11日(日曜 朝の礼拝)

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皇帝と神

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 20章20節~26節

聖句のアイコン聖書の言葉

20:20 そこで、機会をねらっていた彼らは、正しい人を装う回し者を遣わし、イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした。
20:21 回し者らはイエスに尋ねた。「先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。
20:22 ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
20:23 イエスは彼らのたくらみを見抜いて言われた。
20:24 「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」彼らが「皇帝のものです」と言うと、
20:25 イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
20:26 彼らは民衆の前でイエスの言葉じりをとらえることができず、その答えに驚いて黙ってしまった。ルカによる福音書 20章20節~26節

原稿のアイコンメッセージ

 イエス様は、ゼカリアの預言を実現する平和の王として、子ろばに乗ってエルサレムへと入城されました。そして、神殿の境内から商人たちを追い出し、そこをまるで占拠するかのように、民衆を教え、福音を告げ知らせ始めたのです。そのような振る舞いは、当然、当時の指導者であった祭司長、長老、律法学者たちとの衝突を招くことになります。19章の47節には、毎日、神殿の境内で教えるイエス様を、祭司長たちが殺そうと謀ったと記されています。また、20章の19節にも、「ぶどう園と農夫」のたとえを聞いて、イエス様に手を下そうとする祭司長たちの姿が記されています。けれども、祭司長たちはそれを実行することはできませんでした。なぜなら、彼らは民衆を恐れたからであります。民衆の中に、イエス様こそ、イスラエルを救うメシアではないか、という期待が広がっていたのであります。その民衆を恐れて、彼らはイエス様に手を下すことができなかったのです。

 そこで、祭司長たちや律法学者たちが考えたことは、ローマの総督ポンテオピラトの支配と権力にイエス様を引き渡そうということでありました。当時、イスラエルはローマ帝国の占領下にありましたから、このローマの権力を利用して、イエス様を無き者にしてしまおうと考えたのです。民衆の手前、自分たちでイエスを処刑するのはどうも無理らしい。それならば、ローマ帝国に反逆する者として訴え、処刑してもらえばよい、こう考えたのです。

 そこで、彼らは、正しい人を装う回し者を遣わし、イエス様の言葉じりをとらえようとします。ローマ帝国の支配に反対することを、イエス様の口から言わせ、総督に訴えようというのです。回し者らはイエス様にこう尋ねます。「先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」

 回し者らは、はじめにイエス様をほめちぎります。持ち上げるわけです。あなたは、おっしゃることも、教えることも正しいお方。また、人の顔色を見て真理を曲げることなく、神の道を大胆に教えておられる方、そう私たちは心得ています、と言うのです。イエス様をそのように持ち上げることによって、これからする質問にいやがおうでも答えさせようとするのです。私は先程、回し者らはイエス様はほめちぎった、持ち上げたと申しましたけども、しかし、彼らがここでイエス様について語っていることはどれも真実であります。しかし、最後の言葉、私たちは「知っています」という言葉だけが偽りなのです。もし、本当に知っていたなら、総督の支配と権力にイエス様を引き渡そうとはしなかったでしょう。すでにここに、彼らの偽りがあるのです。

 回し者らは、イエス様が答えねばならないように仕向けた後で、こう切り出します。「ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」

 当時、ローマ帝国は、14歳から65歳までの男子に対して、年に1デナリの人頭税を課していました。1デナリは、当時の労働者の1日分の賃金ですから、金額としては、それほどの負担ではなかったと思います。しかし、神の民と自負するイスラエルの民にとって、異邦人であるローマ人に税金を納めることは、堪えがたい屈辱でありました。使徒言行録の5章37節を見ますと、人頭税を取り立てるための住民登録の際、ガリラヤのユダという人が立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたと記されています。彼らは、「ローマ帝国に税金を支払うことは神に対する反逆だ」とさえ考えたのす。そして、民衆の間にも、来るべきメシアは、異邦人に税を納めるという屈辱からイスラエルを解放してくれるという期待が広まっていたのです。

 回し者らは、正しい人を装う者たちでありました。ここでの「正しい人」とは、律法を守ることに熱心な人という意味であります。皇帝に税金を納めることに、まるで心を痛めているかのように、皇帝に税金を納めることは律法に適っているかどうか教えてほしい、と尋ねたのです。もちろん、これは見せかけでありまして、本来の目的は、イエス様の口から「皇帝に税金を納めることは律法に適っていない」と言わせることでありました。そう言わせることができればしめたもので、早速、総督に訴え出ようとしていたのです。

 「皇帝に税金を納めるべきか、いなか」。この質問は、祭司長や律法学者たちによって考え抜かれた巧妙な問いでありました。もし、「皇帝に税金を納めるべきではない」と答えれば、総督の支配と権力に引き渡されてしまう。しかし、「皇帝に税金を納めるべきである」と答えるならば、民衆はイエス様から離れていったに違いないのです。

 イエス様は、このような彼らのたくらみを見抜いて、こう仰せになりました。「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」

 イエス様は、彼らに、デナリオン銀貨を見せるようにと言います。彼らがデナリオン銀貨を持っていることを見越して、彼らのふところからデナリオン銀貨を出させるのです。イエス様ご自身がふところから、デナリオン銀貨を出されたのではありません。イエス様は、彼らのふところからデナリオン銀貨を出させたです。そして、事実、彼らはデナリオン銀貨を持っていたのであります。エルサレム神殿の神殿税がイスラエルの通貨であるシェケルで支払われたように、皇帝への税金は、ローマの通貨であるデナリで支払われねばなりませんでした。彼らがデナリオン銀貨を持っていたこと。それは一体何を意味するのか。それは、彼らが皇帝に税金を納めているということであります。また、彼らが、ローマ帝国によってもたらされたあらゆる恩恵の中に生きているということであります。ローマ帝国によって、まかりなりにも秩序が保たれ、交通網が整備され、人と物資の行き来が可能となり、経済活動を営むことができる。また、ローマ帝国の官憲によってまかりなりにも正義と平和が保たれ、落ち着いた生活を送ることができる。このようなローマがもたらした恩恵に、彼らは預かっていたのです。彼らがデナリオン銀貨をもっていたことは、そのことを示しているのであります。続いてイエス様は、言われます。「そこには、だれの肖像と銘があるか。」

 当時のデナリオン銀貨には、皇帝ティベリウスの横顔と、「神なるアウグストの子・ティベリウス」という文字が刻まれておりました。ですから、彼らは、「皇帝のものです」と答えます。それを受けて、イエス様は、こう仰せになるのです。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

 権力者が、自分の像を刻み込んだ貨幣を発行することは、それを使用する民から税を徴収する権利があることを意味していたと言われます。例えば、私たちが用いているお金も硬貨には「日本国」と刻まれていますし、紙幣には「日本銀行券」と記されています。それは、私たちが日本国という恩恵にあずかっていることを意味し、また、そのお金を用いて便利に生活している以上、国に税金を納める義務があるということを意味しているのです。

 イエス様は、「皇帝のものは皇帝に返せ」と仰せになりました。それは、デナリオン銀貨に、皇帝の肖像と銘が刻まれていたからであります。それを用いて生活している以上、皇帝に税金を納めるべきであるとイエス様は仰せになるのです。しかし、イエス様のお言葉はそれだけでは終わりません。その後に、「神のものは神に返しなさい」という言葉が続くのです。イエス様は、「神のものは神に返しなさい」と仰せになりました。それでは、「神のもの」とは一体何なのでしょうか。それは、私たち自身であると言えます。皇帝の肖像と銘が刻まれているゆえに、デナリオン銀貨が皇帝のものであるように、人間は、神のかたちに似せて造られ、心に神の言葉が刻まれているゆえに、神のものであると言うことができるのです。ここで、イエス様は、皇帝と神という二つの勢力が対等に並んであるかのように言われたのではありません。神は、皇帝よりも遥かに包括的な主権を持っておられるのです。全ての人は、神のかたちに似せて造られたがゆえに、何よりも神を敬い、神に従わなくてはならないのです。

 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。この言葉は、皇帝の支配と権力に歯止めをかける言葉でもあります。自らを神格化しつつあったローマ皇帝に、人間を造られた真の神がおられ、その神の領域に入ってきてはならないことを教えるのです。政治をつかさどる為政者も、神に依存しており、神によって立てられた者であることを悟らせるのです。そして、その国民は、その為政者が、神によって立てられたゆえに、為政者を敬い、為政者に従うべきなのです。しかし、そこには、もちろん、限界があります。それは、神のものである私たち自身を為政者が要求する場合です。国家のために命を捨てよ、そう為政者が要求する時、為政者は、その権限を越えて、神のものを要求しているのです。

 皇帝の権威が神に依存していること。そのことは旧約聖書の中にもはっきりと記されています。例えば、バビロンの王ネブカドネツァルに仕えたダニエルは、神が王を立てられるということを何度も語っています。ダニエル書の2章37節には、こう記されています。旧約聖書の1382頁をお開き下さい。2章の37節。

 王様、あなたはすべての王の王です。天の神はあなたに、国と権威と威力と威光を授け、人間も野の獣も空の鳥も、どこに住んでいようとみなあなたの手にゆだね、このすべてを治めさせられました。

 また、天からの声は、ネブカドネツァル王にこう告げました。4章の28節。

 ネブカドネツァル王よ、お前に告げる。王国はお前を離れた。お前は人間の社会から追放されて、野の獣と共に住み、牛のように草を食らい、七つの時を過ごすのだ。そうしてお前はついに、いと高き神こそが人間の王国を支配する者で、神は御旨のままにそれをだれにでも与えられるのだということを悟るであろう。

 このように、神が王を立てられるということ。そして、それゆえに王を敬わなければならないことは、イスラエルの国だけではなくて、異邦人の国においても真理として教えられているのです。そして、それゆえに、ダニエルは、良心に責められることなく、王に仕えることができたのであります。異邦人の王に仕えるダニエルの姿に、私たちは、「皇帝のものは皇帝に返しなさい」という、その具体的な姿を見ることができるのです。けれども、ダニエルは、王の命令であれば、どのような命令であっても従ったのではありません。6章には、ダニエルが獅子の洞窟に投げ込まれるというお話しが記されています。なぜ、ダニエルは獅子の洞窟に投げ込まれたのか。それは、王の勅令に背いて、神に礼拝を献げたからです。ダニエルは、「向こう三十日間、王を差し置いて他の人間や神々に願い事をする者は、だれであれ獅子の洞窟に投げ込まれる」という王の勅令を知っていた上で、あえて、いつものとおり二階の部屋に上がり、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美を自分の神に献げたのです。そして、ダニエルは獅子の穴に投げ込まれる。しかし、神は天使を送って獅子の口を閉ざし、ダニエルを守られたのでありました。このように、ダニエルは、王の勅令であろうと、神を礼拝することを決してやめなかったのです。ダニエルは、王の命令よりも、神の命令に従ったのであります。そして、それは正しいことであったのです。主がダニエルを獅子の口から守ってくださったこと。そのことが何より、ダニエルの正しさを証ししているのです。

 また、3章には、ダニエルの三人の友達のお話が記されております。ネブカドネツァル王は、大きな金の像をつくり、これを拝むようにと全諸族の民に命じました。そして、ひれ伏し拝まない者は、直ちに燃え盛る炉に投げ込まれるとおふれを出したのです。けれども、ダニエルの三人の友人であるシャドラク、メシャク、アベド・ネゴは、王の神に仕えず、金の像も拝もうとしませんでした。王は、三人を引き出して、こう言います。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、お前たちがわたしの神に仕えず、わたしの建てた金の像を拝まないというのは本当か。今、角笛、横笛、六弦琴、竪琴、十三弦琴、風琴などあらゆる楽器の音楽が聞こえると同時にひれ伏し、わたしの建てた金の像を拝むつもりでいるなら、それでよい。もしも拝まないなら、直ちに燃え盛る炉に投げ込まれる。お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか。」

 この王の言葉に対して、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは、こう答えます。

「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。そうでなくても、ご承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」

 これを聞いて、ネブカドネツァル王は、血相を変えて怒り、いつもの七倍も熱くした燃え盛る炉に三人を投げ込むのです。しかし、神は、主の天使を遣わし、三人を守られるのであります。栄光と賛美、それらは主なる神に帰されるべきものであります。神を神として礼拝すること。それが神のものを神に返すということでありましょう。ですから、王が偽りの神を礼拝するように求めたとき、シャドラクたちは、きっぱりとそれを拒絶したのです。それは、彼らが、神が全世界をお造りになり、全世界を治めておられる王の王、主の主であることを知っていたからであります。

 新約聖書の最後の書であるヨハネの黙示録は、皇帝を神として崇めることを拒絶し、迫害の中に生きる教会に対して啓示されたものであります。皇帝が皇帝のものばかりではなく、神のものをも要求し始める。けれども、黙示録は、信仰に踏みとどまり、忍耐するようにと命じるのです。そればかりか「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」とさえ語るのであります。そして、事実、多くのキリスト者が皇帝を神として拝むことを拒否し、殉教の死を遂げたのでありました。彼らは、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」というイエス様のお言葉に忠実に従ったのです。

 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。この言葉は、全ての権威の源は神にあり、皇帝もその神に立てられた者に過ぎないことを知るとき、始めて正しく理解できます。神との関わりなしに皇帝を考えるのではなくて、神が皇帝を立てられたがゆえに、皇帝を敬い、皇帝のために祈るべきなのです。そして、私たちも、主にあって、為政者を敬い、為政者のために祈るべきなのです。けれども、もし、為政者が神のものを要求するならば、私たちは、はっきりと否と言わなければならないのであります。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。このイエス様のお言葉を、私たちはそれぞれの生活の中で、実現してゆきたいと願います。

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