悪い農夫のたとえ 2005年12月04日(日曜 朝の礼拝)

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悪い農夫のたとえ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 20章9節~19節

聖句のアイコン聖書の言葉

20:9 イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。
20:10 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。
20:11 そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。
20:12 更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。
20:13 そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』
20:14 農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』
20:15 そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。
20:16 戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。
20:17 イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』
20:18 その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」
20:19 そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。ルカによる福音書 20章9節~19節

原稿のアイコンメッセージ

 イエス様は、ゼカリアの預言を成就する王として、ろばに乗って、エルサレムへと入城されました。それから、神殿の境内へと入り、そこで商売をしていた者たちを追い出されたのであります。そして、境内を占拠するかのように、イエス様は民衆を教えはじめられたのです。このイエス様の振るまいは、神殿の管理を委ねられていた祭司長、律法学者、長老たちの反感を買うことになります。また、イエス様の振るまいは、彼らに1つの疑問を抱かせました。それは、何の権威によって、このようなことをしているのかという疑問であります。祭司長、律法学者、長老たち、彼らは当時の最高法院の構成メンバーでありました。公に、権威を与えられた者たちであったのです。その権威ある者たちが、イエス様に、「あなたは何の権威があってこのようなことをしているのか。その権威を与えたのは誰か」と問うたのであります。これに対して、イエス様は、逆に、洗礼者ヨハネの権威の出所を尋ねられました。それは、洗礼者ヨハネとイエス様の権威の出所が同じ、唯一の神からのものであったからです。洗礼者ヨハネは、イエス様に先だって遣わされた先駆者でありました。そのヨハネの権威が天からのものと認めることができないならば、イエス様の権威を認めることはできないのです。結局、彼らは、「どこからか、分からない」と答えますけども、これは「答えたくない」ということであります。ですから、イエス様も、「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」と答えられたのです。祭司長たちの心がイエス様に対して閉ざされているがゆえに、イエス様はそう答えざるを得なかったのであります。

 さて、祭司長たちとの対話はここで終わりまして、今朝の御言葉には、イエス様が民衆に対して、ある譬えをお話しになったということが記されています。けれども、この場に、まだ祭司長たちがいたということを忘れてはなりません。民衆と共に、その場にまだ、祭司長たちはいるのです。その祭司長たちの存在を意識しながら、イエス様は民衆に、この譬えをお話しになられたのです。はじめに、譬え話そのものを見て行きたいと思います。

 ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出ました。当時、このようなことは珍しいことではありませんでした。大地主たちは、外国や都会に移り住むことが多かったからです。この人も、いわゆる不在地主であったようであります。しばらくして、主人は、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへと送りました。これは、主人と農夫たちで事前に取り決めていたことであったのでしょう。契約を結んでいたのであります。農夫とは、いわば小作人でありまして、主人のぶどう園で働かせてもらう代わりに、収穫の一部を主人に納めると決めていたのです。何もここで、主人は全部の収穫をよこせと言っているのではありません。事前に取り決めておいた、取り分を納めさせるために、主人は僕を遣わしたのです。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして何も持たせないで追い返しました。そこで、主人は他の僕を送るのでありますけども、農夫たちはこの僕をも袋ただきにし、侮辱して何も持たせずに送り返すのです。更に、三人目の僕を送りますが、農夫たちは、これにも傷を負わせてほうり出しました。そこで、ぶどう園の主人は思案いたします。「どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう」。僕は、いわば奴隷でありますから、農夫たちは軽く扱ったのだろう。しかし、私の愛する息子を遣わせば、農夫たちもこの子を敬い、その言葉に耳を傾けるに違いない、そう主人は考えたのです。しかし、農夫たちは、その息子を見て互いに論じ合い、こう申します。「これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる」。そして、息子をぶどう園の外に放りだして、殺してしまったのです。主人は、農夫たちも、息子ならば敬ってくれるだろうと考えました。けれども、現実に農夫たちがしたことは、息子を殺してしまうということであったのです。それも、彼が主人の独り息子であることを知っていたうえで、いや、彼が主人の独り息子であったからこそ、農夫たちは彼を殺したのでありました。農夫たちは、なぜ、主人の独り息子を殺してしまったのか。彼らは、独り息子が死ねば、主人の跡取りがいなくなり、主人の財産は自分たちのものになると考えたのです。この農夫たちの言葉は、私たちには奇妙に思えるかもしれません。しかし、当時、主人に跡取りがなく、その土地が「持ち主のいない土地」となった時、それを使用している人のものになるという慣習がありました。事実、農園の主人が、死んだり、帰ってこなくなったりすると、農園がそこで働いていた人たちのものになるということがあったそうです。ですから、農夫たちは、跡継ぎである独り息子を殺すことによって、主人の財産を我がものにしようとしたのでありました。さて、それでは、ことはそのように運んだでありましょうか。農夫たちが望んだ通り、ぶどう園は、農夫たちのものとなったのか。もちろん、そうではありません。ぶどう園の主人は戻って来て、農夫たちを殺し、ぶどう園を他の者に与えるに違いない、とイエス様は仰せになるのです。

 さて、この譬え話の意味を考えてみたいと思います。主人が作り、農夫たちに貸したぶどう園、これは神の民イスラエルを指しております。旧約聖書において、しばしばイスラエルは、ぶどう園に例えられてきました。イザヤ書の5章には、「ぶどう畑の歌」が記されており、その7節には、「イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑」と記されています。ですから、主人は、主なる神を指し、農夫たちは、イスラエルの管理を委ねられた宗教指導者、当時で言えば、祭司長、律法学者、長老たちを指しているのです。そして、主人から遣わされた僕たち、これは旧約時代の預言者たちのことであります。この中には、洗礼者ヨハネも含まれていることでありましょう。そして、最後に主人から遣わされた愛する息子、それはイエス様御自身を指しているのです。イエス様は、祭司長たちに「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」とお答えになりました。けれども、イエス様は譬え話という仕方で、自分の権威が誰から与えられたものなのかを示されたのです。つまり、イエス様は、御自分が主なる神から遣わされた独り子であることを示されたのであります。また、ぶどう園を与えられる「他の人たち」とは、イエス・キリストを信じる弟子たちを指しております。それは、ユダヤ人に限定されない。全世界の民からなるキリストの教会であります。マタイによる福音書の並行箇所を見ますと、ぶどう園は「神の国」と言い換えられています。神の独り子であるイエス・キリストを拒否し、殺してしまう。そのような仕方で、神の国は、ユダヤ人という一民族から、イエス・キリストを信じる全ての者たちに、与えられるのです。

 この対応関係を頭に置きながら、もう少し詳しく、この譬え話を見てゆきたいと思います。始めに、主人について考えてみたいと思います。まず覚えておきたいことは、主人は、農夫たちを信用してぶどう園を貸して、長い旅に出たということです。自分が留守の間も、忠実に働いて、豊かな実りをもたらすだろうと信頼して、ぶどう園を貸したのです。どのくらい経ったかは分かりませんけども、契約に従って、収穫を納めるようにと僕を送りました。どの僕も傷をおって、何ももたずに帰ってくるのでありますけども、それでも、主人は、まだ農夫たちを信頼しているのです。農夫たちが契約を忠実に守ることを期待していたのです。そして、愛する息子なら敬ってくれるに違いないと最後に息子を遣わすのです。愛する息子を遣わすということ、それは、このぶどう園が主人にとってどれほど大切なものなのかを物語っています。しかし、農夫たちが愛する息子を殺したことを知ったとき、疑いの余地がないほどに、彼らに契約を守る意思がないことを知るのです。それゆえに、主人は戻ってきて農夫たちを殺し、ぶどう園の所有者として、ぶどう園を他の人たちに与えてしまうのです。

 次に、農夫たちについて考えてみたいと思います。農夫たちは、主人からぶどう園を借りて、働いておりました。けれども、何年もの間、主人からは音沙汰がありません。ぶどうが初めての収穫をもたらすまで、四年ほど要すると言われます。その四年の間、彼らはぶどう園で一生懸命働いたのだと思います。そして、収穫の季節になり、ぶどうの木は、豊かな実を結んだのでありました。その時、主人から僕が遣わされてきたのであります。それまで、喜んでいた農夫たちの顔に、暗い影が差しこみ始める。その僕を見るまでは、農夫たちはぶどう園をまるで自分たちのもののように考えていたのです。しかし、そこに主人の僕が遣わされて来る。僕を通して、このぶどう園は自分たちのものではないということを改めて知らされるのです。そのことに、農夫たちは、我慢できませんでした。ですから、彼らは、僕を袋ただきにして何も持たせずに追い返したのです。農夫たちは、収穫を自分たちだけのものとし、主人に渡すことを拒否しました。最初に結んだ契約など、まるでなかったように、収穫を自分たちだけのものにしようとしたのです。それから、また何人か、僕が遣わされてきます。けれども、農夫たちは、同じように僕たちを痛めつけて、何も持たせず送り返しました。最後に、主人の息子が遣わされてきた時、彼らは、跡取りである息子を殺せば、ぶどう園は自分たちのものになると考えたのです。収穫だけではなくて、ぶどう園そのものが、自分たちのものになるのではないかと考え、主人の息子を殺したのです。しかし、なぜ、このような馬鹿げたことを考えたのでしょうか。主人が、その息子を殺した農夫たちに財産を与えるなどと、なぜ馬鹿げたことを考えたのか。それは、農夫たちが、主人をまるで死んでしまったかのように考えていたからです。彼らは主人が生きているにも関わらず、まるで存在しないかのように考えたのです。ですから、彼らは跡取り息子を殺せば主人の財産が自分たちのものになると考えたのです。農夫たちは、主人が生きていることをまったく忘れておりました。それほどまでに、主人は、この農夫たちにぶどう園の管理を任せきっていたのです。主人がまるでいないかのように、そう考えることができるほどに、農夫たちは、自由を与えられていたのでした。そして、その自由によって、彼らは、ぶどう園が、あたかも自分たちのものであるかのように錯覚したのです。神というお方は、まさしく、そのようなお方であります。まるで御自分がいなかいのように、私たち人間に自由を与えてくださるのです。それゆえ、私たちも、しばしば、自分に主人がいることを忘れてしまうのです。私たちの主はイエス・キリストであり、私たちが手にしているものは、すべて主からの預かりものに過ぎないことを忘れてしまうのであります。それでは、私たちにとってのぶどう園とは何なのか。それは、私たちの存在そのもの、私たちの全ての生活、特に教会生活と言えます。ですから、私たちは、すべてが主からの預かりものであり、その管理を委ねられているに過ぎないことを、知らなくてはならないのです。そして、まだ、イエス様を信じていない方は、今まで、これは私のものだと思っていたものが、実は、神様から管理を委ねられていたものに過ぎないことを知っていただきたいと思います。イエス様は、私たちに主人がいることを教えてくださるために、いや、私たちの主人となってくださるために、この地上にお生まれになられたのです。そして、イエス・キリストを主人として迎え入れ生きるところに、本当の人生があるのです。ハイデルベルク信仰問答の問1は「生きるにも死ぬにも、あなたのただ1つの慰めは何ですか」と問い、こう告白しています。「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです」。わたしが自分のものではなく、キリストのものである。それが生きるにも死ぬにも唯一の慰めであると語るのです。それはなぜでしょうか。それは、イエス・キリストが死から甦られた真の救い主であるからです。そのキリストのものであることが、私たちの唯一の慰めであるとハイデルベルク信仰問答は告白しているのです。今朝の御言葉で言えば、ぶどう園が、主人のものであることが、農夫たちの慰めでなければならなかったのです。自分たちの働いた実りを、主人に納めることができる。そこに、農夫たちは喜びを見出すべきであったのです。しかし農夫たちが一生懸命働いていたのは、主人のためではありませんでした。彼らは自分たちのために働いていたのです。そして、そのような歩みは、やがて、主人を無き者のように見なし、主人の息子を殺してしまうという狂気へと突き進むのです。しかし、主人は、生きておられます。そして、必ずこの農夫たちを裁かれるのです。

 このイエス様の譬えを聞いて、民衆は「そんなことがあってはなりません」と言います。彼らは、旧約聖書に親しんでいたイスラエルの民であります。ですから、このぶどう園がイスラエルを指していることは、すぐに分かったはずです。神の民としての特権と祝福が、他の人たちに与えられる。それを聞いて、民衆は「そんなことがあってはなりません」と言ったのです。それは、そうでありましょう。神は全世界の民の中からイスラエルを嗣業の民として、また宝の民として選ばれたのでありました。しかし、イエス様は、その特権と祝福が他の人たちに与えられると言うのです。ですから、民衆は、「そんなことがあってはなりません」と叫ぶのです。しかし、イエス様は彼らを見つめてこう仰せになります。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』/その石の上に落ちる者は誰でも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」

 「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」。これは、詩編118篇からの引用であります。隅の親石とは、2つの壁を支える礎の石のことです。家を建てる者が、役に立たないと思って捨てた石を、神は隅の親石とされた。祭司長たちによって、メシア不適格として捨てられたイエス様を、神は復活させ、新しいイスラエルの礎の石とされるのです。そして、イエス・キリストという石の上に落ちるものは誰でも打ち砕かれ、その石が誰かの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまうのです。つまり、神は、イエス・キリストを、新しいイスラエルの礎の石にしたばかりではなく、このイエス・キリストによって全世界の民を裁かれるのです。

 民衆が叫んだ、「そんなことがあってはなりません」という言葉。この言葉は、直訳すると「決してそうではない」となります。そして、この言葉は、使徒パウロが愛用した言葉でもありました。例えば、ローマ書の3章5節、6節には、こう記されています。

 人間の論法に従っていいますが、怒りを発する神は正しくないのですか。決してそうではない。もしそうだとしたら、どうして神は世をお裁きになることができましょう。

 このようにパウロは、読者が考えるであろう誤った考えを想定して、それを否定するかたちで、手紙を書き進めて言ったのでした。しかし、ここでは、イエス様の言葉に対して、民衆が「決してそうではない」と言ったのです。そして、イエス様は、その彼らを見つめて、詩編118編の意味を問うたのでありました。この時のイエス様のお気持ちは、どのようなものであったのでしょうか。民衆の「決してそうではない」という強い否定の言葉を受けて、何を言っているか、聖書にこう書いてあるではないか、そう勝ち誇って、詩編118編を引用なされたのか。私は、そうではないと思います。むしろ、この民衆の言葉は、イエス様の言葉でもなかったか。ちょうど、パウロが自分で問いを設定し、それを否定したように、イエス様も民衆と同じく、「そんなことがあってはなりません」と言いたかったのではないか、と思うのです。農夫たちが、主人の息子を殺してしまう。神に仕えるはずのイスラエルの指導者が、神の御子であるイエス様を殺してしまう。そんなことがあってはなりません。できることならば、イエス様もそのように叫びたかったのではないか、と思うのです。けれども、イエス様は、自分が農夫たちに殺されることを、ご存じなのであります。自分が家を建てる者から捨てられねばならない石であることをご存じであられたのです。

 はじめに申しましたけども、祭司長たちはまだこのイエス様のもとに留まっておりました。イエス様が民衆にどんな話しをしているのか聞いていこうと思ったのかも知れません。しかし、よく聞いていると、イエス様が実は、自分たちのことを語っていることに気づいたのです。新共同訳聖書は、「律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえ話をされたと気づいた」と記しています。しかし、ここで「当てつけて」と訳されている言葉は、意訳でありまして、直訳すると「自分たちに」となるのです。元の言葉では、「当てつけて」という意味はないのです。はじめ、イエス様は民衆に譬えを話されたが、その譬えを最後まで聞くと、実は、祭司長たちに語られた話であった、とルカは記しているのです。私は、この「当てつけて」という訳は、誤訳であると思います。「当てつける」とは、はっきりそれと言わずに、何かにかこつけて悪く言うことを言います。ここを「当てつけて言った」と訳してしまいますと、イエス様が祭司長たちをまるで挑発しているかのように読むことができます。けれども、元の言葉から直訳すると「イエスが自分たちに、このたとえをはなされたと気づいた」となるのです。イエス様は、ここで、祭司長たちを、やれるものならやってみろと挑発しているのではありません。むしろ、権威を我がものとしていた祭司長たちに、その権威を与えた主なる神がおられることを悟らせようとなされるのです。そして、神の独り子であるイエス様を殺すことが、取り返しのつかない破滅をもたらすことを警告されたのです。しかし、このイエス様のメッセージは、彼らの心には届きませんでした。彼らはこのたとえ話の中に自分たちを見出したにもかかわらず、イエス様に手を下そうとするのです。それほどまでに、彼らは、主なる神を見失っていたのでありました。 

 私たちも、イエス・キリストから、ぶどう園を預かっている者たちであります。教会役員だけではない、すべての信徒が羽生栄光教会という主のぶどう園を預かっているのです。私たちは、イエス様が再び天から来られる日、その実りを主なる神にお献げするのです。私たちの目的は、教会が大きくなることではありません。私たちが教会の成長を願うのは、より豊かに主に仕えるためであります。教会の働きを通して、救われる民が起こされ、一人でも多くの方に、イエス・キリストという主人を知っていただくためであります。教会の繁栄が目的となるならば、いくら経済的に豊かになり、多くの人が集められたとしても、それは単に宗教的な事業が成功したに過ぎないのです。それは、主人を忘れた農夫たちの働きと何ら変わりのないものとなってしまうのです。

 私が神学校に入学する前、一年間ほどアルバイトをして、お金を貯めていた時がありました。そのとき、一緒にアルバイトをしていた人に、「私はクリスチャンで、神学校に行くためにお金をためている。そのためにアルバイトをしている」と申しました。それを聞いて、その人はこう言いました。「それなら、自分で宗教をつくったらどうですか」。お金を貯めて、神戸まで行って、何年も勉強して牧師になるよりも、自分で宗教をつくったらどうですか、こう言ったわけです。それを聞いてこう思ったのです。「もし自分で新興宗教を起こして、それが広まったとしても、一体に何になるのか」。そして、それは人生の全てにおいて言えることではないかと思います。人はなぜ生きるのか。そう問われて、誰がその答えを知っていることでありましょう。ある人は、お金を稼ぐためにといいます。また、ある人は、偉くなるためにといいます。また、ある人は、家庭を守るためにと言うかも知れません。けれども、お金を稼いで、偉くなって、そして家庭を築くのが人生の目的なのか。それが、人の命を支え得るものなのか。旧約聖書のコヘレトの言葉には何と記されていますか。「すべては空しい」とつぶやかずにはおれなかったコヘレトが辿り着いた結論は次のようなものでありました。

 すべてに耳を傾けて得た結論。「神をおそれ、その戒めを守れ。」これこそ人間のすべて。

 神を忘れた人生は空しい。そうコヘレトは結論するのです。神という主人を忘れて、いくら社会的に成功しようが、それは空しいのであります。けれども、自分には、イエス・キリストという主人がおられることを知っているならば、そこに人は真の生き甲斐を見出すことができるのです。なぜなら、この方だけが、死を越えて私たちを導びいて行かれる神であられるからです。私たちの主人であるイエス・キリストは生きておられる。このことを、今朝改めて覚えたいと願います。

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