イエスの権威 2005年11月27日(日曜 朝の礼拝)

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イエスの権威

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 19章45節~20章8節

聖句のアイコン聖書の言葉

19:45 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、
19:46 彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』/ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」
19:47 毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、
19:48 どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。
20:1 ある日、イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいて来て、
20:2 言った。「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」
20:3 イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。
20:4 ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」
20:5 彼らは相談した。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。
20:6 『人からのものだ』と言えば、民衆はこぞって我々を石で殺すだろう。ヨハネを預言者だと信じ込んでいるのだから。」
20:7 そこで彼らは、「どこからか、分からない」と答えた。
20:8 すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」ルカによる福音書 19章45節~20章8節

原稿のアイコンメッセージ

 イエス様は、まだ誰も乗ったことのない子ろばに乗って、エルサレムへと入城されました。イエス様は、ゼカリヤの預言を実現することによって、御自分がイスラエルの王であることを、それも平和の王であることを示されたのであります。そのイエス様が始めに向かったところ、それは神殿でありました。イエス様は神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、彼らにこう言われます。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」

 神殿での商売、それは神殿で礼拝をささげるために、必要なものと見なされておりました。イスラエルの人に義務づけられていた神殿税は、イスラエルの通貨であるシェケルで支払わなくてはなりませんでした。ですから、外国の通貨を持ってやって来る離散のユダヤ人たちのために、両替商が必要でありました。また、いけにえとされる動物は、傷のないものでなければなりませんでした。遠くからせっかく牛や羊を連れてきても、途中で傷がついてしまえば、神殿で献げることはできません。いけにえに傷がついているかどうかは、神殿で働く祭司が厳しく検査したのであります。ですから、遠くから来る人は、銀を携えて、エルサレムに入ってから、いけにえを購入したのでありました。このようなことは、実は、聖書にもちゃんと記されております。申命記の14章24節、25節にはこう記されています(旧約304頁)。あなたの神、主があなたを祝福されても、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所が遠く離れ、その道のりが長いため、収穫物を携えて行くことができないならば、それを銀に換えて、しっかりと持ち、あなたの神、主の選ばれる場所に携え、銀で望みのもの、すなわち、牛、羊、ぶどう酒、濃い酒、その他何でも必要なものを買い、あなたの神、主の御前で家族と共に食べ、喜び祝いなさい。

 ここには、主がその名を置くために選ばれた場所が遠いならば、銀を携えて、現地でいけにえを購入しなさいと記されています。ですから、神殿で商売していた者たちは、律法に適った仕方で、いわば合法的に商売を営んでいたのです。しかも、このことは今に始まったことではありませんで、昔から行われていたことであったのです。けれども、イエス様は、神殿から商人を追い出し始められたのです。これは、真に驚くべきことであります。イエス様もイスラエル人でありますから、これまでに何度も、エルサレム神殿を訪れたはずであります。境内で商売が営まれている。それは、今回はじめて目にした光景ではなかったはずです。いうなれば、いつもの光景であります。それが、今回に限って、なぜ商人を追い出し始められ、彼らを叱責されたのか。私たちは、イエス様が神殿から商人を追い出す、いわゆる「宮潔め」の場面を思いますとき、イエス様が突発的に、ある激情にかられて、商人を追い出し、彼らを叱責なされたと考えるのではないでしょうか。神殿の境内に入ると、商売が行われている。人々の関心は、神礼拝よりも、金儲けに注がれている。それを見て、イエス様が激情に駆られ、商人たちを追い出しはじめられた。こう考えるのだと思います。けれども、ある研究者は、「イエス様は、考えに考えた末、神殿から商人を追い出されたのだ」と言うのです。イエス様が商人を追い出されたこと、それは突発的なことではなくて、むしろ計画的に行われたと言うのであります。確かに、イエス様は、これまでエルサレムを目指して歩んで参りました。ですから、当然エルサレムで何をしようかと考えていたはずであります。その考えた末に、イエス様は神殿から商人を追い出されたと考えられるのですね。そうであれば、このイエス様の行為が一体何を意図しているのかを考えなくてはなりません。それを知る手がかりが、マラキ書の3章の御言葉にあります。3章の1節から4節をお読みします(旧約1499頁)。

 見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は/突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者/見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。だが、彼が来る日に誰が身を支えうるか。彼の現れるとき、誰が耐えうるか。彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁のようだ。彼は精錬する者、銀を清める者として座し/レビの子らを清め/金や銀のように彼らの汚れを除く。彼らが主に献げ物を/正しくささげる者となるためである。そのとき、ユダとエルサレムの献げ物は/遠い昔の日々に/過ぎ去った年月にそうであったように/主にとって好ましいものとなる。

 ここでは、待望している主は突如聖所に来られること。そして、その主によって、レビの子ら、つまり祭司が清められ、献げ物が主にとって好ましいものとなることが預言されております。そして、イエス様が、神殿から商人を追い出され、彼らを叱責されたのも、このためではなかったかと考えられているのです。エルサレムに、王として入城されたイエス様は、神殿から商人を追い出すことによって、まことの神礼拝を回復しようとされたのであります。それは、イエス様のお言葉からも明かでありましょう。商人たちにとって、神殿での礼拝は、おいしい商売でしかありませんでした。礼拝するには、そこでいけにえを購入しなければなりませんから、少々値段が高くとも売れたわけでありますね。また、両替するにも手数料を取ることができたわけです。神礼拝よりも商売に夢中になっている。その様子をイエス様は「強盗の巣」と非難されたのであります。そして、それは単に商人だけではなくて、その商人たちに許可を与え、その利益に預かっていた祭司長や律法学者、民の指導者たちにも向けれられた非難であったのです。イエス様は、神殿から商人を追い出すという、少々乱暴とも言える仕方で、宗教的指導者たちに、悔い改めを迫られたのであります。そして、イエス様は、毎日、境内で教えることによって、神殿を「祈りの家」として回復しようとなされたのです。しかし、このようなイエス様の振るまいは、祭司長たちにとって、許されまじき行為でありました。彼らは、イエス様を殺そうと謀りますけども、どうすることもできませんでした。なぜなら、民衆が皆、夢中になってイエス様のお話に聞き入っていたからであります。

 

 ある日、イエス様が神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒になって近づいて来ました。祭司長、律法学者、長老、この三者は、当時の最高法院を構成していたメンバーであります。いわば、公に権威を与えられている者たちであります。その権威のある者たちが、イエス様にこう尋ねるのです。「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」これは、単なる質問というよりも、尋問に近いものであります。祭司長や律法学者たちは、神殿を管理する者たちでありました。ですから、神殿から商人を追い出し、境内を占拠して民衆を教える、この男に当然のこととして「何の権威があってこのようなことをしているのか」と問うたのです。もし、何の権威もないのに、このようなことをしているのであれば、ただではおかないぞ、という脅しが見え隠れしているのです。それに対して、イエス様はこうお答えになります。「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」

 イエス様は、質問に対して、質問で答えられました。私の質問に答えれば、私も答えようというわけであります。その質問とは、洗礼者ヨハネは、神様から使わされて洗礼を授けていたのか。それとも、彼自身の思いから洗礼を授けていたのかというものでありました。ヨハネの権威の源は何であったのかを問われたのです。彼らは、「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。『人からのものだ』と言えば、民衆はこぞって我々を石で殺すだろう。ヨハネを預言者だと信じ込んでいるのだから。」と相談いたします。そして、彼らは結局「どこからか、分からない」と答えるのです。それは、「言いたくない」ということでありまして、答えることへの拒否でありました。ですから、イエス様も、「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」と答えられたのです。

 この祭司長たちとイエス様との問答を読んで、私たちはどのように考えるでしょうか。まず最初に思いますことは、イエス様はうまく、祭司長たちの問いを切り抜けられたということであります。もし、イエス様が御自分の権威を神に帰するならば、彼らはイエス様を神を冒涜するものとして捕らえられたことでありましょう。しかし、もし、自分の権威を神からのものではないと言えば、神殿の秩序を乱した者として捕らえられたに違いないのです。また民衆も、イエス様に失望して離れていったことでありましょう。ですから、この権威を問う質問は、祭司長たちによって考え抜かれた巧妙な質問でありました。けれども、イエス様は、洗礼者ヨハネを持ち出すことによって、その危機を回避し、むしろ祭司長たちを危機へと直面させるのであります。しかし、そもそも、なぜここでイエス様は洗礼者ヨハネを持ち出されたのでしょうか。それは、イエス様と洗礼者ヨハネの権威の出所が同じであったからであります。つまり、洗礼者ヨハネもイエス様も同じ唯一の神によって権威を与えられた者たちであったのです。ですから、もし洗礼者ヨハネの権威が神から与えられたものであったことを認めないならば、イエス様の権威がどこからのものなのかを理解することはできないのです。私は先程、イエス様は神殿から商人を追い出すことによって、指導者たちに悔い改めを迫られたと申しました。それと同じことが、ここでも言えるのであります。つまり、イエス様は、祭司長たちを再び、洗礼者ヨハネの前へと立たせるのであります。ヨハネの洗礼は、「悔い改めの洗礼」とも呼ばれます。ヨハネは、来るべきお方に先立ち、その民の心を備えさせるために遣わされた先駆者でありました。そして、そのヨハネの呼びかけに多くの人々が耳を傾けたのです。今、神殿でイエス様のお話しに耳を傾けている人々もそうであります。彼らは、ヨハネによって備えられた主の民でありました。けれども、ヨハネの言葉に誰もが耳を傾けたわけではありません。イエス様はかつて7章29節、30節でこう仰せになりました(新約116頁)。「民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもその洗礼を受け、神の正しさを認めた。しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼から洗礼を受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ」。

 神様の御心、それは神から遣わされた洗礼者ヨハネの教えを聞き、主の御前に悔い改めることでありました。悔い改めて、来るべきお方の到来に備えるべきであったのです。しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、ヨハネに耳を傾けませんでした。彼らは、パンも食べずぶどう酒飲まないヨハネを「あれは悪霊に取りつかれている」とあざけったのであります。そして、それは、最高法院のメンバーである祭司長や長老たちも同じであったのです。しかし、イエス様はここで再び、彼らを洗礼者ヨハネの前に立たせようとされるのです。そして、ヨハネの洗礼が天からものであったか、それとも人からものであったかを問われるのです。ここには、ただ危機を乗り越えようとする以上のものがあります。イエス様はここで、祭司長たちと真剣に対話しようとしておられます。そして、ヨハネの洗礼について、あなたはどう考えるのかと迫られたのです。けれども、彼らの考え方は打算的なものでしかありませんでした。彼らは自分がヨハネをどう思うかというよりも、その答えによって引き起こされる不利益のことしか考えなかったのです。そして、結局は、「分からない」という仕方で判断しなかったのです。これを聞いて、イエス様は悲しまれたことでありましょう。それは、彼らの心が御自分に対して開かれていないことを、改めて知らされたからであります。そして、それは彼らの心が神に対して開かれていないことを意味しておりました。心を開こうとしていないものに、いくら話しても無駄でありますから、イエス様は、「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」と答えざるを得なかったのであります。

 さて、今朝の説教題を「イエスの権威」とつけました。今朝の御言葉で権威が問われていることは明かであろうと思います。そこでは、公に権威のある者たちが、イエス様の権威を問うたのでありました。ここでイエス様は、「ヨハネの洗礼は、天からのものだったのか、それとも、人からのものだったか」と権威の出所を問われますけども、元来、イスラエルにおいて、権威はただ神から与えられるものでありました。それは預言者、祭司、王が油注ぎによって任職したことからも明かであります。油を注ぐことによって、神から聖霊が注がれることを表したのです。ですから、祭司たちも、神から権威を与えられて、神殿を管理し、神殿での祭儀を取り仕切っていたのでありました。しかし、もしそうであるならば、彼らが天から権威を与えられた洗礼者ヨハネやイエス様を認められなかったことは、おかしなことであります。同じ神から権威を与えられた者であるならば、互いの権威を認め合うはずでありましょう。けれども、祭司長たちは、ヨハネにもイエス様にも神からの権威を見ることができませんでした。民衆が預言者と信じていたにもかかわらず、祭司長たちは神の権威を認めることができなかったのです。それはなぜか。それはイエス様の存在が、自分たちの利益を脅かすものであったからです。先程も申しましたけども、祭司長たちは、神殿での商売の利益に預かっておりました。また、その収入によって、神殿祭儀が支えられていたのでありましょう。ですから、彼らは、商人たちを追い出したイエス様を認めることはできませんでした。それは自分たちの権威に対する挑戦と映ったのであります。そして、彼らはその自分たちに与えられた権威によって、神から遣わされたイエス様を殺そうとするのです。同じ神から与えられた権威のはずが、なぜこのように衝突するのか。それは、おそらく、祭司長たちが自分たちの権威を、神にではなく、自分たちの職務に帰属すると考えていたからではないかと思います。彼は、自らの権威の源を、祭司長という職務そのものにあると考えていたのです。そして、祭司長という権威の名のもとに、彼は、神殿を金儲けを第一とする強盗の巣としてしまったのです。権威は職務そのものに帰属する。それは、教会の中でも、たびたび行われる過ちであります。私たちの教派の憲法であります政治規準の第42条は、職務の権威についてこう記しています。週報に挟んでおきましたので、御覧ください。第42条をお読みいたします。

「御自身の聖霊と御言葉により、またその民の奉仕によって支配を行うことが、普遍的かつ各個の教会におけるキリストの固有の職務である。教会におけるすべての職務の権威は、キリストに由来し、職務そのものには帰属しない故に、職務に就く者は、他のキリスト者に対して霊的優位性を主張してはならない。彼らは奉仕者、弟子、しもべに過ぎない。」。

 ここでは、はっきりと「教会におけるすべての職務の権威は、キリストに由来し、職務そのものには帰属しない」と記されています。そして、これは聖書が教える真理なのであります。もっとも分かりやすいのはイスラエルの初代の王となったサウルでありましょう。サウルはサムエルに油を注がれ、イスラエルの王となりました。けれども、彼は、主の御声に聞き従わなかったゆえに、その王権を取り上げられてしまうのです。このように、サウルの権威は、王という職務そのものではなくて、サウルを王として立てられた主なる神にあったのであります。教会には、教師、長老、執事という役員が立てられておりますけども、これも同じことが言えます。教師、長老、執事、それらの権威は、職務そのものに帰属するものではなくて、その役員を立てられた主イエス・キリストに由来するものなのです。私も教会役員の一人でありますけども、やはり、このことを忘れてはならないと思っております。また、教会員の方にも、このことを正しく理解していただきたいと願っております。もし、このことを忘れますと、おかしなことが起こって参ります。教会が牧師の私物のように考えられてしまったり、また長老同士が勢力争いをするようなことが起こってしまうのです。けれども、教会における全ての職務は、主イエスによって立てられているがゆえに、その権威を持つのです。このことを忘れないならば、私たちの思いは絶えず、主イエスの御心を求める祈りへ導かれることでありましょう。そして、主イエスにおいて一致して歩んでいくことができるのであります。また、教会役員の権威は、主イエス・キリストに由来するゆえに、仕えるという仕方で行使されるのです。そして、教会員は、主イエスが、その人を役員として立てられたゆえに、その人を敬い、その人のために祈るべきなのです。

 祭司長や、律法学者、また長老たちは、自分たちの権威を職務そのものに帰属するものと考え、権威を我がものといたしました。けれども、私たちは全ての権威が主なる神から来ること、主イエス・キリストから来ることを、わきまえ知りたいと願います。そして、自分たちの利益ではなくて、主の御心を第一とするキリストの体なる教会を、建て上げてゆきたいと願います。

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