平和の王イエス 2005年11月20日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

平和の王イエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 19章28節~44節

聖句のアイコン聖書の言葉

19:28 イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。
19:29 そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、
19:30 言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。
19:31 もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」
19:32 使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。
19:33 ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。
19:34 二人は、「主がお入り用なのです」と言った。
19:35 そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。
19:36 イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。
19:37 イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。
19:38 「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」
19:39 すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。
19:40 イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」
19:41 エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、
19:42 言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。
19:43 やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、
19:44 お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」ルカによる福音書 19章28節~44節

原稿のアイコンメッセージ

 イエス様は、ムナのたとえを、お話しになられてから、先頭に立って進み、エルサレムへと上って行かれます。そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベドファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、こう言われます。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」

 イエス様は、ここで弟子たちに子ろばを連れてくるようにとお命じになります。それは、子ろばに乗って、エルサレムへと入るためでありました。これまで、歩いて旅を続けてきたイエス様が、なぜ、子ろばに乗ろうとなされたのか。それは、ゼカリヤ書9章の預言を実現するためでありました。旧約聖書の1489頁をお開きください。ゼカリヤ書の9章9節から10節をお読みいたします。

 娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗ってくる/雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車をエルサレムから軍馬を断つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ。

 これは、メシア預言の一つであります。この預言を実現する者として、イエス様は子ろばに乗ってエルサレムへ入城されるのです。つまり、イエス様は、子ろばに乗ることによって、ゼカリヤが預言した王が自分であると主張されたのです。それにしても、なぜ「子ろば」なのでしょうか。馬ではなくて、なぜ子ろばなのか。それは、このゼカリヤの預言からも分かりますように、この王が平和の王であるからです。馬は、戦いにおいて用いられますが、平和な日常においては、むしろ、ろばが用いられました。イエス様は、そのろばに乗って来られるのです。また、王がろばに乗って来る、もう一つの理由は、この王は神に従い、勝利を与えられた柔和な王であるからです。軍事力によって、これから勝利を得ようとする高ぶった王ではなくて、神に従うことによって、すでに勝利を与えられた謙遜な王として、ろばに乗ってやって来るのです。このように、ろばは、平和を象徴する動物であったのです。

 ルカによる福音書に戻りましょう。新約聖書の147頁です。

 ここで、イエス様は、まだ誰も乗ったことのない子ろばを求めておられます。子ろばなら、何でもいいというわけではなくて、イエス様は「まだ誰も乗ったことのない」子ろばを求められたのです。それは、この子ろばが神様のご用のために用いられるからでありました。サムエル記上の6章に、ペリシテ人に奪われた神の箱が帰ってくるというお話しが記されています。ペリシテ軍は、イスラエル軍を破り、神の箱を奪ったのでありますけども、それによって様々な災いが彼らを襲ったので、イスラエルに神の箱を送り返そう、ということになりました。そのとき、彼らは、新しい車と、まだ軛をつけたことのない雌牛によって、神の箱を運ばせたのでありました。このように、イエス様も、まだ誰も乗ったことのない子ろばを求めることによって、自分が神の子であることを示されたのです。

 使いに出された者たちが出かけて行くと、イエス様の言われた通りでありました。つまり、村に入ると、まだ誰も乗ったことのない子ろばがつながれているのを見つけたのです。そして、彼らは、これまた言われた通り、子ろばをほどいてイエス様のもとへ連れて行こうといたします。しかし、それを見たろばの持ち主たちは、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言うのです。これは、当然のことでありますね。突然、見ず知らずの男たちが、自分たちの子ろばを連れて行こうとしているのですから、何事かと思ったことでありましょう。それに対して、二人は、これまたイエス様が言われた通りに「主がお入り用なのです」と答えたのです。ここで、主と訳されている言葉は、「持ち主」と訳されている言葉と同じであります。どちらも、ギリシャ語のキュリオスという言葉が使われているのです。子ろばの持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と問うたのに対し、弟子たちは、「子ろばの持ち主がお入り用なのです」と答えたのであります。これを聞いて、持ち主たちは、目を丸くしたことでありましょう。子ろばの持ち主が必要としている?子ろばの持ち主?それは他ならぬ私たちではないか、と思ったかも知れません。しかし、二人は、無事に子ろばをイエス様のところに連れてきましたから、持ち主たちも納得してくれたのでありましょう。それは、彼らが「天と地に満ちるものは、主のものである」ということを知っていたからであります。子ろばにも、主なる神という本来の所有者がおられることを、彼らは知っていたのであります。そのことをわきまえていたゆえに、彼らは、弟子たちの言葉を受けとめることができたのです。

 ろばを引いてきた二人は、鞍の代わりに、自分の服をかけ、イエス様をお乗せしました。そして、イエス様が進んでいくと、弟子たちは自分の服をその道に敷いたのであります。列王記下の9章にエリシャの油注ぎによって、イエフという人がイスラエルの王になるというお話しが記されています。そこでも、イエフの家臣たちは、おのおの上着を脱ぎ、彼の足もとに敷き、「イエフが王になった」と宣言したのでありました。それは、ちょうど、弟子たちが自分の衣服を脱ぎ、イエス様を王と祝福するのと同じであります。新共同訳聖書は、「人々は自分の服を道に敷いた」、と記しております。けれども、元の言葉をみますと、ここではっきりと「人々」という言葉が記されているわけではありません。元の言葉では、特定できない「彼ら」という意味であります。ですから、ある研究者は、これは「弟子たち」を指していると語っております。わたしもここでの「人々」は弟子たちを指していると思います。なぜなら、イエス様のことで神を賛美したのは、弟子の群れだけであったからであります。イエス様がオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美したのであります。私たちは、イエス様のエルサレム入城と聞きますと、とても華やかな光景を思い浮かべるのであります。パレードのように、みんなが喜んでイエス様を迎え入れた、そのような光景を想像いたします。確かに、マタイによる福音書を見ますと、群衆も自分の服を道に敷いて、こぞって賛美いたします。「ダビデの子にホサナ」とイエス様を迎え入れるのであります。しかし、ルカによる福音書の記述によれば、服を道に敷き、賛美を献げるのは、弟子の群れだけなのです。群衆は冷ややかなものでありまして、ファリサイ派の人々は、むしろ弟子たちを黙らせようとするのであります。この頃は、ちょうど過越の祭りの季節でありましたから、エルサレムには多くの人々がやって来ました。その一つのグループがおかしな仕方で入城してきた。まるで、ゼカリヤの預言を実演するかのように、ろばに乗って一人の男がやって来たのです。そして、その弟子たちは、声高らかにこう歌うのです。「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」。

 「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように」。これは、詩編118篇からの引用であります。この詩編118篇は、巡礼の歌でもありましたから、弟子たちもこの歌を歌ったのかも知れません。ただし、彼らは、まるっきり同じではなくて、「王に」という言葉が付け加えて歌ったのであります。ここで、弟子たちははっきりと、イエス様を主から遣わされた王であると告白しているのです。そして、その方をまさに、王として祝福を持って迎え入れたのであります。この言葉に続いて、「天には平和、いと高きところには栄光」という言葉が続きます。これは、イエス様がお生まれになった夜に、天使たちが歌った賛美を思い起こさせます。イエス様がお生まれになった夜、天使たちは、こう歌ったのでありました。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。

 天使たちは、地には平和と歌いました。しかし、ここで弟子たちは「天には平和」と歌ったのであります。それは、まだ、この地には平和が訪れていないということでありましょう。イエス様がエルサレムへと入城される。それだけでは、地に平和は実現しないということであります。それはなぜでしょうか。それは、エルサレムの人々がイエス様を王として迎え入れようとしないからであります。弟子たちは、声高らかに賛美しました。声を張り上げて賛美したのであります。それは、彼らがあらゆる奇跡を目の当たりにし、本当にこの方こそ、主の御名によって遣わされた王であると信じたからであります。そして、おそらく、弟子たちは、エルサレムの人々にも声を合わせて、この賛美を歌ってもらいたいと願ったのではないでしょうか。イエス様こそ、主の名によって来られる王である。この言葉が口づたいに広がって行く。そのことを弟子たちは期待したのではないか。いや、むしろイエス様がそのことを期待されたのではないかと思うのであります。けれども、先程も触れましたように、ファリサイ派の人々は、群衆の中からイエス様に向かって「先生、お弟子たちを叱ってください」と言いました。そんなことを言っていたら、大変なことになりますよ、と警告したのであります。過越の祭りの季節でありますから、エルサレムには、普段より多くのローマ軍が駐屯しております。治安を守るために、いつもより多くのローマ兵がいたわけであります。そのローマ兵が、この弟子たちの言葉を聞いたらどうなるか。そう心配したのであります。エルサレムは、ローマの総督ポンテオ・ピラトによって統治されておりました。エルサレムには王はいなかったわけです。エルサレムどころか、イスラエルは王を持つことができなかったのであります。もし、自らを王と公言する者がいれば、その人は、ローマ皇帝への反逆罪に問われる危険があったのであります。ですから、ファリサイ派の人々は、イエス様に弟子たちを叱って黙らせるようにと求めたのです。それによって、今しばらくローマ皇帝によってもたらされた平和にとどまろうとしたのです。しかし、イエス様はこうお答えになるのです。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫び出す」。これは面白い表現であります。イエス様を、主の御名によってきたる王であると告白すること。それは、決して黙らせてはならない真理なのであります。その神の真理を黙らせようとするならば、神は石を用いてでも、その叫びを続けられるだろう、とイエス様は仰せになるのです。それほどまでに、イエス様が王であることは、大胆に主張されなくてはならないのです。

 現代において、政治形態は、王制から議会制へと移っております。ですから、「イエス様が王である」と聞いても、あまりピンとこないかも知れません。近代の民主主義は、主権在民を謳っておりますし、私たちの憲法である日本国憲法も国民主権を1つの大きな柱としております。国民みんなが王である、そう言ってもよいかも知れません。そして、私たちは、それぞれの生活においても、自分自身を王としているのであります。それぞれが、これは「私の人生だ」「私が自由にしていい人生だ」と主張しているのであります。そして、このことは、人間社会において、正しいことであります。互いに互いの権利を重んじて生きる。それが、人権を重んじるということでありましょう。それは、ちょうど子ろばの持ち主たちが、ほどいて引いていこうとする弟子たちに、子ろばの所有権を主張するのと同じであります。持ち主たちの主張は、弟子たちに対しては正しかったのであります。けれども、その子ろばの本来の持ち主であるイエス・キリストに対して、所有権を主張するならば、それは間違いなのであります。それと同じように、私たちが他人に対して、これは「私の人生だ」と言うことが正しくとも、イエス・キリストに対して同じことを主張するならば、それは、間違いなのであります。

 私は先程、王と聞いても現代の私たちにはピンと来ないのではないか、と申しました。けれども、聖書が教えることは、私たちには王がいるということであります。そして、その方は、平和の王であるということであります。天の平和をこの地上にもたらしてくださる王なのであります。

 私たちが王と聞いて、ピンとこない理由、それはおそらく、私たちが王を望んでいないということにあると思います。歴史を通してあまりにも悪い王様ばかりを見てきましたので、王と聞いただけで拒否反応が起こるのであります。しかし、そもそも、王とは主なる神からの賜物でありました。サムエル記上の8章に、イスラエルの民がサムエルに王を立ててくれるよう求めた、ということが記されております。そもそも民が王を求めたのは、ペリシテ人に悩まされていたからでありました。それまで、イスラエルは、部族ごとに固まっており、ゆるやかな連合体を形成していたのであります。しかし、それではペリシテ人と闘うことはできませんので、イスラエルを一つにまとめ上げる王を求めたのであります。民の期待は、王が先陣を切って進み、イスラエルの戦いを闘うことでありました。ここには、現実的な危機があります。ペリシテ人という敵から、自分たちの命や財産を守るという現実的な必要があったのであります。そのために彼らはサムエルに王を求めたのです。そして、もし、私たちが今、王を求めていないならば、それはなぜなのかを、問わなくてはならないと思います。王など必要ないほどに、私たちは満たされているのか、私たちは平和なのかと言えば、そうではないと思います。現代社会においても、様々な危機を見ることができます。それは人間関係の破綻から、犯罪や事故、病に至るまで様々であります。そして、いくら私たちが、自分は自由だと思い、自分の主人は自分自身だと言い張ったとしても、最後には、死という得体の知れないものに捕らわれていくのであります。その死を前にして、人は自分がどれほど無力であるのかを思い知らされるのです。つかの間の平和でしたら、味わうことはできるかも知れません。ファリサイ派の人々が、ローマ軍を恐れて、弟子たちを黙らせようとしたように。あるいは、かつて、ソロモンが軍馬を多く持つことによってイスラエルに平和をもたらそうとしたように。様々な手段を用いて、つかの間の平和なら、味わうことができるかも知れません。けれども、平和の王であるイエス・キリストを受け入れないならば、大きな破滅が持っているのであります。41節には、エルサレムのために涙を流すイエス様のお姿が描かれています。エルサレム、それは「平和の基」という意味であります。神の平和がこの都をおとずれ、そして、この都から全世界に神の平和がもたらされる、そう預言されてきた都であります。けれども、そのエルサレムの住民は、旧約聖書が預言してきた王であるイエス・キリストを迎え入れようとしないのであります。43節以下には、こう記されています。「やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう」。これは、ローマ帝国によるエルサレム陥落の預言であります。そして、この預言は、およそ40年後に現実のものとなります。なぜ、神の都エルサレムがローマ帝国によって滅ぼされたのか。「それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」とイエス様は仰せになるのです。これが、神から遣わされた平和の王を拒んだエルサレムの末路でありました。そして、それは、平和の王を拒む全ての者の末路でもあるのです。ここで、イエス様は都のために泣いて言われました。私たちはこのことを忘れてはいけないと思います。イエス様は自分を拒み、最後には自分を十字架へと引き渡す都エルサレムのために涙を流されたのであります。

 先程、イエス様は、「弟子たちを叱ってください」といったファリサイ派の人々に「もしこの人たちが黙れば、石が叫び出す」と仰せになりました。そして、44節でも同じ「石」という言葉が使われております。ですから、「石が叫び出す」というイエス様の言葉を、44節の「石」と重ねて解釈するひとも多いのであります。石が残らず崩れ落ちること、それは、エルサレム神殿の完全な崩壊を意味しております。ですから、ここでイエス様は、「もし、イエスは王であるという告白がなくなるのであれば、神殿が崩れ落ちる、そのようにして石が叫びをあげる」と言われたとも解釈することができるのです。天の平和をもたらす、平和の王を拒むとき、そこに破滅が訪れる。そのことを紀元70年のエルサレム陥落は雄弁に物語っているのであります。

 弟子たちは、「天には平和、いと高きところには栄光」と歌いました。真の平和は神のもとにあるのであります。その神との平和を得なければ、誰も本当の平和に生きることはできません。この平和の王であるイエス・キリストを受け入れるとき、天使たちが歌った「地には平和、御心に適う人にあれ」という言葉が実現するのであります。そして、「イエス・キリストは王である」と告げ知らせるのは、弟子である私たちしかいないのであります。世の人々は、私たちを黙らせようとするかも知れません。あるいは、私たちの言葉に無関心かも知れません。けれども、私たちは、それが聖書の証しする真理であるがゆえに、大胆に宣べ伝えていかなければならないのであります。もし、この平和の王を拒むならば、滅びが待っている。そのことを知るがゆえに、私たちも涙ながらに福音を宣べ伝えていかなければならないのです。私たちの人生には、本当の所有者がおられます。私たちをわが民と呼んでくださる平和の王がおられるのであります。「イエス・キリストは王である」と大胆に告白して行きたいと願います。

関連する説教を探す関連する説教を探す