ムナのたとえ 2005年11月13日(日曜 朝の礼拝)

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ムナのたとえ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 19章11節~27節

聖句のアイコン聖書の言葉

19:11 人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。
19:12 イエスは言われた。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。
19:13 そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。
19:14 しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。
19:15 さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。
19:16 最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。
19:17 主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』
19:18 二番目の者が来て、『御主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。
19:19 主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。
19:20 また、ほかの者が来て言った。『御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。
19:21 あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』
19:22 主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。
19:23 ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』
19:24 そして、そばに立っていた人々に言った。『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』
19:25 僕たちが、『御主人様、あの人は既に十ムナ持っています』と言うと、
19:26 主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。
19:27 ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。』」ルカによる福音書 19章11節~27節

原稿のアイコンメッセージ

 ダビデの子と呼ばれるイエス様が、ダビデの町エルサレムへと近づかれたこと。それは、人々の中に、ある期待を呼び起こしました。それは、神の国はすぐにでも現れるのではないか、という期待であります。このまま、イエス様がエルサレムで王に君臨され、神の御支配を打ち立ててくださるのではないか。そう人々は考えたのであります。そのような人々にイエス様は、一つのたとえをお話しになりました。それが今朝の「ムナのたとえ」であります。

 ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へと旅立つことになりました。ある立派な家柄の人とありますから、貴族のような人でありましょう。その人が王の位を受けるために、遠い国へと旅だったというのであります。これは少し分かりにくいと思いますが、当時、ローマ帝国が地中海世界を支配しており、諸国の王は即位するために、ローマ皇帝の了解を取り付ける、ということを致しました。日本でいうならば、江戸時代に、どこかの国の殿様になろうとする人が、江戸にまで出向いて来て、将軍様のお墨付きをもらうようなものであります。

 遠い国へと旅立つことになった、この人は、10人の僕を呼んで10ムナの金を渡し、「わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい」と言いつけます。16節を見ますと、どうやら10人は、この10ムナを、均等に1ムナづつ分けたようであります。1ムナとは、100デナリオンにあたると言われています。1デナリオンが、労働者の1日分の賃金といわれますから、1ムナは、およそ3ヶ月分の給料ということになります。今で言えば、60万円ぐらいでありましょうか。商売を始めるには、少し足りないように思いますけども、ともかく、僕たちは、主人から1ムナづつあずかったのでありました。

 他方、国民は、この立派な家柄の人を憎んでいたので、後から使者を送って、「我々はこの人を王にいただくない」と言わせました。遠い国に使者を遣わして、「この人を王にしないでほしい」と述べたのであります。その国には、彼を慕っていた人だけではなく、彼を憎んでいた人もいたのです。後から、使者を遣わすほどですから、案外多くの国民が、この人を憎んでいたのかも知れません。

 どのくらい経ったのかは分かりませんけども、しばらくした後、彼は王の位を受けて、遠い国から帰って参ります。そこで、まず最初にしたことは、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうということでありました。最初の者が進み出て、「御主人様、あなたの1ムナで10ムナもうけました」と申します。主人は、「良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、10の町の支配権を授けよう」と言いました。1ムナという金額は、王となったこの人にしてみれば僅かな額でありまして、まさに小さな事と言えたでありましょう。しかし、それに対する報いは、10の町の支配権を授けるという真に大きなものであったのです。

 さらに2番目の者が来て、「御主人様、あなたの1ムナで5ムナ稼ぎました」と申します。主人は、「お前は5つの町を治めよ」と言います。1ムナで5ムナ稼いだ。それゆえに、5つの町を治めることができたわけです。稼いだムナの数と治める町の数が比例の関係にあることが分かります。

 また、他の者が来てこう申しました。「御主人様、これがあなたの1ムナです。布に包んでしまっておきました。あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも駆り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。」

 この他の者は、「商売せよ」という主人の命令に従いませんでした。彼は、主人から預かった1ムナを布に包んでしまっておいたのです。そして、その理由を、「主人が厳しい方で、恐ろしかったからである」と、主人のせいにしたのであります。

 それに対して主人はこう申します。「悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息つきでそれを受け取れたのに。」

 主人は、この僕を「悪い僕だ」と断言します。これは、言い換えれば「役に立たない僕」ということです。なぜなら、彼は、主人の思いを知りながら、それをあえて行わなかったからです。そればかりか、自分が怠惰であったことの責任を主人になすりつけたからであります。そして、主人は、その彼の口からでた言葉にしたがってこの僕を裁くであります。誤解しないように申しますが、ここで、主人は、この人の言葉を認めているわけではありません。つまり、自分が預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間であると認めているわけではないのです。むしろ、「知っていたのか」と言っているように、それは、この僕の思い込みであったのです。けれども、ここで主人は、その僕の思いこみから出た言葉に従って、つまり厳しい方として、あなたを裁こうと仰せになっているのです。そして、そうならば、銀行に預けるべきであったと問いただすのであります。

 私たちは、どこかで、この最後の僕に同情を覚えるのではないかと思います。商売でありますから、増えるだけではなくて、減ることも考えられたでしょう。黒字ばかりではなくて、赤字になることも考えられるわけです。それを考えるならば、商売なんかしないで、布に包んでおけば、少なくとも預かった1ムナが減ることはないわけであります。おそらく、この最後の僕もそのことを心配して布に包んでいたのではないか、と私たちは考えるのです。けれども、御言葉をていねいに読んでいくと、どうやら、そのような心配をして、この僕は、布に包んでおいたわけではないということが分かるのであります。むしろ、この僕は、初めから商売などする気もないで、ただ預かったお金をそのまま布に包んでおいた、と考えられるのです。もっと言えば、この人は、主人のお金など預かりたくなかった。そんなことにわずらわされたくなかったとさえ思われるのです。そうでなければ、ここで主人が指摘しているように、商売をしなかったにせよ、それを銀行に預けたはずでありましょう。この人自身に財産があったかどうかは分かりませんけども、もしかしたら、自分の財産はちゃんと銀行に預けていたかもしれません。けれども、主人のお金となると、ただ布に包んでしまっておいただけであったのです。初めの僕と2番目の僕は、主人から預かったムナを生かし、活用いたしました。それを生かしたわけです。16節で、「1ムナで10ムナもうけました」と訳されている言葉は、原文から直訳すると「あなたの1ムナが10ムナもうけました」となります。まるで、母親が子供を産むように、1ムナが10ムナをもうけた、と言っているのであります。主人は、「銀行に預けておけば、利息つきで受け取れた」と申しましたが、ここでの利息も、利子でありまして、まさに、お金がお金を産むという言葉が使われているのであります。けれども、布に包んでしまっておいた1ムナは、何も生み出さないわけであります。ある研究者は、初めの僕と二番目の僕は、主人から預かった1ムナを生かした。しかし、最後の僕は、1ムナを殺してしまったと語っております。同じ、1ムナをあずかりながら、なぜそれを生かそうとしないのか。それは、この最後の僕が、主人に対して謝った理解を持っていたからであります。

 主人は、そばに立っていた人々にこう言います。「その1ムナをこの男から取り上げて、10ムナ持っている者に与えよ」。僕たちは驚いて、「御主人様、あの人は既に10ムナ持っています」と言うと、主人は言います。「言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまで取り上げられる。」

 ここには、主人からあずかった1ムナを生かさなかった、生かそうとしなかった僕への裁きが記されています。この最後の僕に、1ムナを預けていても、彼はそれを生かそう、増やそうとする気持ちがないわけですから、その1ムナは、最も多く稼いだ人に与えられるわけであります。

 さらに、主人はこう申します。「ところで、わたしが王になることのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ」

 主人は、後から使者を送り「我々はこの人を王にいただきたくない」と言わせた国民のことを忘れてはいませんでした。主人は、王として国を統治するために、自分を憎む国民を敵と呼び、その死刑を言い渡すのであります。

 さて、ここまで、たとえ話そのものを見てきましたが、ここからは、このたとえ話の意味を考えてみたいと思います。王の位を受けて帰るために、遠い国へと旅立つことになった立派な家柄の人、これは、この譬えを話しておられるイエス様御自身を指しております。人々は、イエス様がエルサレムに上り、すぐにでもイスラエルの王となられると考えておりました。けれども、イエス様は、王の位を受けて帰るためには、遠い国へと旅立たねばならないと仰せになるのです。そして、遠い国へ旅立つとは、天の父なる神の御許へ帰ること、昇天を指しているのです。

 そのイエス様から1ムナづつ受け取った僕とは、イエス・キリストを信ずる者たち、つまり私たちを指しております。そして、1ムナとは、いろいろ解釈がありますけども、キリストの福音を指していると考えられることが多いのであります。キリストの福音、それは「命の言葉」であります。命は命を生み出す。それゆえに、救われた者の群れには、さらに救われる者が起こされ、その群れは成長していくのであります。わたしは先程、16節を直訳すると「あなたの1ムナが、10ムナもうけました」となると申し上げました。ここでの主語は、「わたし」ではなくて、「あなたの1ムナ」なのであります。これと同じようなことを実は、使徒パウロも福音宣教の文脈の中で語っております。コリントの信徒への手紙一の15章9節から10節にこう記されています。わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にはならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。

 ここで、パウロは、働いたのは実はわたしではなく、働いたのは、わたしと共にある神の恵みであると語っています。それは、ちょうど僕が「あなたの1ムナが、10ムナもうけました」と報告したのと同じであります。私は先程、最後の僕が1ムナを生かし、活用できなかったのは、主人を間違った目で見ていたからだ。主人を誤って理解していたからだと申し上げました。しかし、この1ムナを生かした僕は、主人を正しく知っていたのです。それはちょうど、パウロが主の恵みをよく知っていたゆえに、他のどの使徒よりも多く働くことができたのと同じであります。10ムナ稼いだ僕は、他の僕よりも、主人がどれほど恵み深いお方であるか、その恵みをよく知っていたのであります。それゆえに、彼は忠実に、主人の言いつけに喜んで従うことができたのであります。その反対に、最後の僕は、主人が恵み深いことを知りませんでした。それどころか、預けなかったものを取り立てる貪欲で無慈悲な方と決めつけたのであります。それゆえに、彼は何もしなかった。いや、何もする気が起きなかったのであります。

 私たちは、こういうお話しを聞きますと、すぐに考え込んでしまうのであります。はて、自分はどの僕にあたるだろうか。もしかしたら、最後の僕ではないだろうか。そう心配してしまうのであります。もちろん、それは、イエス様が天から帰ってこられる日、キリストが全世界の王として帰ってこられる日までは分かりません。そう言うと、不安になってしまうかもしれませんけども、どの僕にあたるか、それを今知る手がかりは、自分がどのようなイエス・キリストを信じているかということであります。イエス・キリストをどういうお方として見ているか、ということであります。イエス・キリストを、一つのも赦さない厳しいお方であると考えているならば、私たちは何もできなくなってしまうことでありましょう。けれども、イエス・キリストを私たちに、罪の赦しをもたらすために、私たちに代わって刑罰を受け復活なされたお方と知っているならば、私たちは主から頂いている恵みを大胆に用いることができるのであります。自分が今、主の恵みに生かされている。キリストの福音によって今の自分があるのである。そのことを知っているならば、私たちは、福音を宣べ伝えずにはおれないのではないでしょうか。伝えるな、という方が無理でありまして、イエス様のことを語り出してしまうのであります。イエス・キリストという主人があまりにも恵み深いお方だから、そのことを知っているがゆえに、私たちは一人でも多くの方に、この方を知っていただきたい。この方を正しく知っていただきたいと願うのであります。

 最後の僕は、主人を誤って理解しておりましたが、この主人を憎んだ国民は、主人をまったくを理解しておりませんでした。「我々はこの人を王にいただきたくない」と言った国民、それはイエス様をメシアと認めない当時のユダヤ人を指しております。イエス様を、神を冒涜する者と断罪し殺してしまう、当時のユダヤ人たちを指しております。しかし、現代に即していえば、これは、イエス・キリストを信じていない全ての人々のことであります。イエス・キリストを信じていない全ての人が、この「敵ども」に含まれるというと、ショックを受けるかもしれません。けれども、イエス・キリストは、十字架と復活において、全世界の、全ての人々の主となられたのであります。ですから、イエス・キリストの十字架と復活以降、全ての人々が二者択一の決断を迫られているのであります。わたしは関係ないと言える人は誰もいないのです。二者択一の決断、それは、この方を王としていただきたいか、それとも、この方を王といしていただきたくないか、ということであります。それによって、神との関係が決まってくるのであります。なぜなら、イエス・キリストを全世界の王として立てられるのは、全世界をお造りになられた神であられるからです。イエス・キリストを拒むこと。それは神を拒むことと同じであるのです。

 もし、今、キリストを王として迎え入れたくないと思っているならば、イエス様が王として、再び来られる日、その人は、永遠の滅びへと引き渡されてしまうのであります。天からイエス・キリストが再び来られる日、それは神の国が完成される日であります。神がすべてのすべてとなられる日であります。その日において、神を憎む者がいる場所は、もはやどこにもないのであります。ですから、このイエス様の最後の言葉は、自分を受け入れない者たちへの警告であります。イエス様は、滅びることがないように、今、私を王として受け入れてほしいと訴えているのであります。

 イエス様への敵意、それは当時の人々が、イエス様を正しく理解していないためでありました。パウロは、ローマ書の10章で、ユダヤ人は神に熱心に仕えているが、それは正しい認識に基づくものではなかった。それゆえに、イエス・キリストを受け入れることができなかったのだ、と記しております。

 イエス・キリストを正しく伝えることができるのは、今、その恵みに生かされている私たちだけであります。そして、その時、私たちが忘れてはならないことは、天におられるイエス・キリストが、私たちと共におられるということです。天におられるイエス・キリストが聖霊において、共にいてくださるということであります。この「ムナのたとえ」の主人は、人間でありますから、僕と共にいたわけではありません。しかし、イエス・キリストは、神でありますから、聖霊において私たちと共にいてくださるのです。私たちと共に働いてくださるのであります。いや、私たちを通して働いてくださるのであります。そのことを、忘れるならば、私たちの奉仕は、喜びがなくなってしまいます。けれども、天におられるイエス様が私たちと共にいてくださり、私たちの奉仕を導いてくださり、最後には万事を益としてくださるならば、私たちは大胆に主の恵みに生きることができるのです。1ムナで10ムナをもうけるとき、それが自分の力によるものではない。それは私を通してあなたが働いてくださったからだと私たちは驚きの喜びをもって告白できるのです。しかし、主はその私たちに、大きな報いを与えてくださいます。イエス・キリストと共に、全世界を統治する王として、私たちを迎えてくださるのです。その恵みに、ここに集う全ての者が預ることができますように。私たちが、今、主の恵みに生かされていることを改めて覚えたいと願うのであります。

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