今日、訪れた救い 2005年11月06日(日曜 朝の礼拝)

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今日、訪れた救い

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 19章1節~10節

聖句のアイコン聖書の言葉

19:1 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。
19:2 そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。
19:3 イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。
19:4 それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。
19:5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
19:6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
19:7 これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」
19:8 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
19:9 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。
19:10 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」ルカによる福音書 19章1節~10節

原稿のアイコンメッセージ

 イエス様は、エリコへとお入りになります。エリコは、エルサレムの玄関口でありました。エルサレムへと上る人々は、このエリコで一泊休んで、それからエルサレムへと上るのが常でありました。エリコは、「ナツメヤシの町」と呼ばれ、そこから多くの木材や香料が採れたと言われています。ユダヤ人の歴史家ヨセフスは、エリコをパレスチナで最も肥沃な土地と呼んでおります。そのエリコに、ザアカイという人がおりました。この人は、徴税人の頭で、金持ちであった、と聖書は記しています。当時、イスラエルの国は、ローマ帝国の占領下に置かれていました。そのローマ帝国の手先となって、同胞のユダヤ人から税金を取り立てるのが、徴税人の仕事でありました。ですから、当然、同胞のユダヤ人からは嫌われておりまして、裏切り者のように考えられておりました。また、しばしば、決められた金額よりも、多くを取り立てて、私腹を肥やしていたことから盗人と同じように考えられていました。先程申しましたように、エリコは、大変豊かな町であります。そして、ザアカイは、その徴税人の頭でありましたから、大変な金持ちであったと思います。しかし、その反面、ザアカイは、町中の人々から蔑まれ、嫌われていたのです。

 このザアカイが、どういう訳かイエス様がどんな人かを見ようといたしました。当時、徴税人は罪人と呼ばれ、神から見捨てられた者と考えられていました。それもザアカイは、徴税人の頭でありましたから、いわば罪人の中の罪人であったわけです。そのザアカイが、なぜイエス様を見ようとしたのか。それは真に不思議なことであります。彼は、これまで罪人と呼ばれ、人々から白い目で見られてきました。ですから、彼は自分が、イスラエルの神から遠く離れていると考えていたはずであります。もし、周りのみんなから、「おまえは罪人だ。神とは関わりがない」と言われたらどうでしょうか。自ずとそのように思えてくるのではないでしょうか。そして、「それなら罪人で結構、行けるところまで行ってやる」そう彼は考えて、徴税人の頭にまで昇りつめたのではないかと思うのであります。そのザアカイがイエス様を見ようとした。これは、真に不思議であると申しましたが、おそらく、ザアカイは、イエス様が「徴税人や罪人の仲間」と噂されていたことを聴いていたのだと思います。徴税人や罪人の仲間イエス。その噂を聞いて、ザアカイは、ぜひ、そのイエスという人がどのような人かを見てみたいと願ったのであります。

 ザアカイは、イエス様がどんな人か見ようとします。しかし、彼は背が低かったので、群衆に遮られて見ることができませんでした。ザアカイは、背が低かった。ここに、このお話しが人々から愛される一つの理由があると思います。徴税人の頭、そう聴けば、強面の大男を思い浮かべるのではないでしょうか。しかし、ザアカイは、群衆に遮られて見ることができないほど背の低い、小男であったのです。また、ある人は、ザアカイが徴税人になったのは、彼が背が低かったからではなかったかとさえ想像しています。背が低かった。そこに劣等感を抱いて、ザアカイは手っ取り早くお金を稼ぐことのできる徴税人になったと言うのです。

 ここで、「群衆に遮られて」とありますが、この言葉からもいろいろなことを思い浮かべることができます。ザアカイは、徴税人の頭であり、町中の嫌われ者でありましたから、わざとザアカイが見えないように人々は遮ったのではないか、そう想像することができます。また、人垣をかき分けて、前に進み出ようとしても、誰もザアカイを通してあげようとしなかったのではないか、とも考えられます。イエス様を出迎え、人垣を作っていた群衆にすれば、メシアと噂されるイエス様と徴税人の頭であるザアカイとに何の関わりがあるかと考えたに違いないのです。

 背の低いザアカイは、群衆に遮られてイエス様を見ることができません。しかし、ザアカイは諦めませんでした。イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木によじ登るのです。当時、イスラエルの人は、よほどのことがなければ走らなっかたと言われます。また、いい大人が木によじ登ることはみっともないことでありました。けれども、ザアカイはそのようなことを気にも留めていなかったと思います。彼の思いはただ一つ、イエスというお方を見てみたいということでありました。

 イエス様は、その場所に来ると、上を見上げてこう仰せになります。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」

 イエス様は、木にのぼっていた男をザアカイと呼ばれました。イエス様はその男の名前を呼んでくださったのです。私は、ここで想い巡らすのでありますけども、もしかしたら、ザアカイは、この時、久しぶりに人から名前を呼ばれたのではないかと思うのです。ザアカイとは、「清い人」「正しい人」という意味の名前です。彼の両親は、生まれてきた我が子が、清い人となるように、正しい人となるようにという願いを込めて、この「ザアカイ」という名前を付けたのでありましょう。しかし、皮肉なことに、彼はその名前とほど遠いものとなっていたのであります。ですから、おそらく、誰もザアカイという、この名前を呼んでくれる人はいなかったのではないかと思うのです。町の人々は、おそらく、彼のことをザアカイとは呼ばなかったでしょう。名前を口にするのも汚らわしい、それほどまでに嫌われていたのではないでしょうか。けれども、ここでイエス様は、はっきりと「ザアカイ」という名前を呼んでくださったのです。名前を呼んでくださるということ。それは、イエス様がザアカイを一つの人格として重んじておられるということであります。ザアカイだけではありません。イエス様は、ここに集う私たち一人一人の名前を呼んでくださり、一人一人をかけがえのない存在として重んじてくださるのです。

 イエス様は、ザアカイに急いで降りてくるように命じます。そして、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と仰せになるのです。これは、元の言葉から直訳しますと「今日は、あなたの家に泊まらなければならない」となります。あなたの家に泊まること、それが私の定めだ、そうイエス様は仰せになっているのです。ザアカイは、急いで降りてきて喜んでイエス様を迎えました。ザアカイは、即座にイエス様のお言葉に従ったのです。これを見た人たちは皆つぶやきました。つぶやくとは、不平をいうことであります。なぜ、人々はつぶやいたのか。それは人々が期待していたことと反することをイエス様がここでなされたからです。メシアと噂されるイエス様が、よりによって、町中の人々を苦しめていた罪深い男のところに行って宿をとった。このことに、誰もつふやかずにはおれなかったのです。おそらく、ここで、群衆のイエス様への評価は下がったのではないかと思います。イエス様に対する熱が冷めてしまったと思います。それは、つぶやいた人々がイエス様のことを「あの人」と呼んでいることからも伺い知ることができます。民衆がもつメシアへの期待は、何よりローマ帝国の圧政からイスラエルを解放してくれることでありました。そのメシアと噂されるイエス様が、こともあろうに、徴税人の頭の家に宿を取った。これは、民衆にとって、ひとつの躓きでありました。先程も申しましたように、徴税人は、ローマ帝国の手先となって働く者でありました。その頭の家に、宿を取るとは、どういうことか。人々が不平を言ったのも、当然と言えるのです。

 8節から場面が、エリコの道端からザアカイの家へと移っております。皆がつぶやき、イエス様を「あの人」と呼ぶのに対して、ザアカイは、立ち上がって、こう申します。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」

 このザアカイの言葉を読んで、私たちは戸惑を覚えます。彼に一体何が起こったのでしょうか。イエス様から何か説得されたのでしょうか。おそらく、そうではなかったと思います。彼は、イエス様を自分の家に向かえて、イエス様と食卓を囲む中で、立ち上がってこう言わずにはおれなかったのです。おそらく、ザアカイは、富を蓄えることを生き甲斐としていたような人であったと思います。「罪人と言われようが、神から見捨てられた者と言われようが、どうでもよい。私には富がある」、そう自分に言い聞かせて生きてきた人であったと思います。富こそが彼の生き甲斐であり、彼を支えてきたものでありました。しかし、ザアカイはその財産の半分を貧しい人に施すと言うのであります。また、何かだまし取っていたら、それを四倍にして返しますと言うのであります。これは、彼の内側からほとばしった言葉でありましょう。つまり、自発的に、心の底から沸き出てきた言葉であったということであります。それを言わしめたものは、果たして何なのか。ザアカイの上に一体何が起こったのでしょうか。それは、ザアカイがイエス・キリストを通して神様と出会ったからであります。神様と出会う、このことを通して、ザアカイは変えられたのです。ザアカイは、これまで、神様と自分は関わりがないものと考えておりました。そう考えなければ、彼は到底仕事を続けていくことはできなかったと思います。町中の人々からそう言われてきましたし、自分もいつの間にかそう思っていたのです。けれども、イエス様を通して、神様はこの自分との関わってくださることがよく分かったのであります。イエス様を通して、神様は自分の名を呼んでくださり、御心にとめていてくださるお方であることが分かったのであります。イエス・キリストを通して、神様が罪人である自分とも関わってくださるお方であることが分かったのであります。

 不平をいった人々は、この神様の姿に躓いたのです。それは、彼らがイエス・キリストを通してではなく、自分が思い描く神を信じていたからです。私たちは、このつぶやいた人々としばしば同じ過ちを犯すのではないでしょうか。例えば、私たちは罪を犯します。それは、人にも言えないような深刻な罪かも知れません。その時、自分は、もう神様とは関わりがなくなってしまったと思うかも知れません。神は、このような自分を受け入れてくださるはずはないと思うかも知れません。けれども、それは間違いであります。神は罪人である私たちと共にいてくださるのです。また、兄弟姉妹の罪を聴いたり、目の当たりにすることがあるかも知れません。その時、私たちは、その人を神様ともう関わりがない者と裁いてしまいやすいのです。けれども、やはりそれも間違いであります。イエス・キリストにおいて、御自身を現してくださった神は、その人と共にいてくださるのです。

 イエス様は、ザアカイの言葉を聞いてこう言われます。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

 イエス様は、「今日、救いがこの家を訪れた」と仰せになります。いわば、救いの宣言をなされたわけです。しかし、もちろん、これはザアカイの施しの結果ではありません。ザアカイの施しが功績として数えられて、その見返りとしてイエス様はここで救いを宣言されたのではありません。ザアカイの施し、それはむしろ、救いがこの家を訪れたことの、確かなしるしであったのです。ザアカイは、これまで、罪人と呼ばれてきました。しかし、彼は、本当のところイエス様に出会うまで罪が分からなかったのだと思います。もちろん、罪とは神の掟に背くことである、ということは知っていたでしょう。しかし、罪というものが何であるか、本当のところ彼には分からなかったのです。それが分かったのは、イエス様との交わりにおいてであったのであります。イエス様を通して、神様のご人格に触れて、そこで初めて罪というものが分かったのです。このままではいけないということが分かったのであります。私たちもそうだと思います。いくら、神の律法を教えられて、それをあなたは破っている。だから、あなたは罪人だと言われても、生活を変えることはできないと思います。罪であることは分かっていても、そこから抜け出せない自分がいるのです。そして、どこかに、どうせ私は罪人だと開き直っている自分がいるのであります。それを変えてくださるのは、ただイエス・キリストだけであります。イエス・キリストを通して、神様と出会う時、人は変わることができるのです。神様から愛されていることを本当に知った時、人は変わらざるを得ないのであります。

 イエス様は、「今日、救いがこの家を訪れた」と仰せになりました。救いは、ザアカイだけではなくて、その家族にも及ぶのです。そして、さらには、エリコに住む貧しい人々へと神の救いは広がっていくのです。イエス様は、ザアカイを「アブラハムの子」と呼んでくださいました。それは、ザアカイも神の契約の民であるということであります。人々が罪深い男と呼んだザアカイを、イエス様はアブラハムの子と呼んでくださいました。そして、これが神の目に映る彼の本当の姿なのであります。ザアカイはイエス様のお言葉を通して、自分が、何者であるのかを知らされたのです。ここに集う私たちも、イエス・キリストへの信仰を通して、アブラハムの子とされております。私たちも神の祝福を受け継ぐ、契約の民の一員とされているのであります。

 イエス様は最後にこう仰せになります。「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

 ここに、神の御子であるイエス様が、この地上にお生まれになられた目的が記されています。イエス様は、失われたものを捜して救うためにこの地上に来てくださいました。そして、ここに、イエス様がザアカイの家に、今日、泊まらなければならなかった理由があるのです。

 「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」。この言葉を実現するために、イエス様は、これから十字架の待つエルサレムへと上ってゆきます。そして、この失われたものの中に、ここに集う私たちも含まれていたのであります。

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