祈りを聞くイエス 2005年10月30日(日曜 朝の礼拝)

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祈りを聞くイエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 18章35節~43節

聖句のアイコン聖書の言葉

18:35 イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。
18:36 群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。
18:37 「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、
18:38 彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。
18:39 先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。
18:40 イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。
18:41 「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。
18:42 そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」
18:43 盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。ルカによる福音書 18章35節~43節

原稿のアイコンメッセージ

 イエス様がエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしておりました。盲人ですから、目は見えないわけです。しかし、耳はよく聞こえました。彼は、群衆が通っていくのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねます。そう尋ねざる得ないほどに、多くの人々がまとまって歩いていたのでしょう。この頃は、ちょうど過越の祭りの季節でありましたから、多くの人々がエリコを通ってエルサレムへと上ってゆきました。おそらく、イエス様ご一行も、このエルサレムへの巡礼団と一緒になって、エリコへ入ろうとしていたのだと思います。旧約聖書の詩編120篇から134篇には、「都に上る歌」と表題がつけられています。この「都に上る歌」を歌いながら、イスラエルの人々は、その地方ごとにまとまって、エルサレムへと上って行ったのです。しかし、いつも道端に座っていた盲人が、「これは、いったい何事ですか」と尋ねるほどでしたから、おそらく、イエス様を囲んで、ひときわ大きな群れが形成されていたのでしょう。ちょうど、有名人のまわりに人垣ができるように、多くの人々がイエス様を取り囲み、ひしめきあっていたのだと思います。

 「これは、いったい何事ですか」。この盲人の問いに対して、ある人は「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせます。すると盲人は、こう叫ぶのです。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」。

 「ナザレのイエス」とは、ナザレの出身であるイエスという意味です。これは、当時の普通の言い方でありました。この呼び方に、特にイエス様に対する信仰は込められていません。しかし、これを聴いて、盲人は、こう叫ぶのです。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」。これは、どこかおかしいと思いませんか。「ナザレのイエスのお通りだ」、こう聴いたならば、盲人の叫びは、「ナザレのイエスよ」となるはずではないでしょうか。しかし、彼は「ダビデの子イエスよ」と叫んだのです。そして、ここには、「イエスこそ、メシア、救い主である」という信仰告白が込められているのです。「ダビデの子」、これは、メシアをあらわす呼び名の一つです。旧約聖書は、メシアが、ダビデの子孫から生まれると預言しております。サムエル記下の7章12節から14節にはこう記されています。旧約聖書の490頁をお開きください。12節から14節をお読みいたします。  

 あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が過ちを犯すときは、人間の杖、人の子らの鞭をもって彼を懲らしめよう。

 ここには、ダビデ王に対するナタンの預言が記されています。いわゆるダビデ契約と呼ばれるところです。ここでは、ダビデの子孫が王国を立てること。そして、神がその王座をとこしえに堅く据えてくださることが約束されています。この神の約束のゆえに、メシアはダビデの子孫からお生まれになると考えられるようになったのです。

 もう一箇所、開いてみましょう。イザヤ書の9章5節から6節です。旧約聖書の1074頁をお開きください。5節から6節をお読みいたします。

 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。

 ここでも、メシアはダビデの子孫からお生まれになること。そして神がその王座と王国をとこしえに立てられ支えられることが預言されているのです。

 ルカによる福音書に戻りましょう。新約聖書145頁です。

 今、ご一緒に確認しましたように、メシアは、ダビデの子孫からお生まれになると預言されておりました。この盲人は、イエス様こそ、そのダビデの子であると叫んだのです。つまり、イエス様こそ、来るべきメシアであると叫んだのでありました。しかし、イエス様の先を行く人々は、この盲人を叱り黙らせようとしました。なぜ、盲人を叱り黙らせようとしたのか。私たちは、以前15節以下で、子供をイエス様のもとに連れてきた人々を弟子たちが叱ったということを見ました。その時申し上げたことですが、弟子たちが人々を叱ったのは、イエス様は子供と関わるようなお方ではないと考えたからでありました。当時、子供は、半人前、取るに足りない存在と考えられておりました。イエス様は、そのような子供とは関わりがないと弟子たちは考えたのです。おそらく、人々が盲人の物乞いを叱ったことも同じ理由であったと思います。盲人の物乞い、それはまさしく社会の周辺に追いやられていた人でありました。そのような人とイエス様と何の関わりがあるか、そう人々は考えたのだと思います。あるいは、ただ単に、この盲人によって、巡礼団の歩みが乱されるのを嫌ったためであったのかも知れません。どのような理由であれ、人々は盲人を叱りつけ、黙らせようとしたのです。しかし、この盲人は、ますます「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けるのです。まるで、親に置いてけぼりにされた子供のように、彼はますます大きな声で叫び続けるのであります。

 この盲人が叫び続けたのは、当然でありますね。なぜなら、彼にとって、これがイエス様にお会いするたった一度のチャンスであったからです。目が見えれば、イエス様のお顔を覚えて、また、後でお願いすることもできたかも知れません。しかし、この盲人には、今しかないのです。今しかない。今、イエス様にお会いできなければ、二度と会うことができない。それを知るがゆえに、彼はますます大きな声で叫び続けたのです。

 イエス様は、立ち止まって、盲人をそばに連れてくるように命じられました。おそらく、彼は、手をとられながら、イエス様のもとにやって来たのでありましょう。彼が近づくと、イエス様はこうお尋ねになりました。「何をしてほしいのか。」。

 なぜ、イエス様は、ここで、わざわざ「何をしてほしいのか」と尋ねられたのでしょうか。確かに、この盲人は「憐れんでください」としか言っておらず、何をして欲しいのかは述べていません。またここで、私たちが知っておくべきことは、この「憐れんでください」という言葉は、物乞いが施しを願うときの、決まり文句であったということです。もしかしたら、ここにこそ、人々が盲人を叱った理由があったのかも知れません。人々は、盲人の物乞いが、イエス様からただ単に施しを求めていると思って、叱ったのかも知れないのです。しかし、そうでないということが、このイエス様の質問によって明かとされるのです。「何をしてほしいのか」、このイエス様の質問に対して、盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と答えました。盲人が求めていたのは施しではありません。施し以上のことでありました。なぜなら、旧約聖書は、「来るべきメシアは、盲人の目を開けることがおできになる」と預言していたからです。そして、そのように願うことによって、彼はイエス様が本当にメシアであると信じていることを言い表したのです。

 私たちは、このイエス様のお姿にある戸惑いを覚えるのではないでしょうか。イエス様は、盲人の目を見えるようにすることがおできになります。そのような力をもっているのです。そして、目の前には、盲人が立っている。それならば、イエス様は、何も言わずに目を見えるようにしてあげてもよいのではないか。なぜ、わざわざ「何をしてほしいのか」と尋ねたのでしょうか。また、イエス様に近づいたのは、彼、盲人でありました。イエス様は連れてくるように命じたわけでありますけども、イエス様のもとにやって来たのは、盲人の方です。道端に座っていた盲人が立ち上がり、手を引かれながら、イエス様のもとに自分の足で歩いてきたのです。ここでも、私はある戸惑いを覚えます。なぜ、イエス様の方から、盲人に近づいて下さらなかったのか。

 私は、以前、ある先生が、この所から説教をされたのを聴いたことがあります。そこで、とても印象深く覚えていることは、イエス様は、はじめ盲人の叫びを素通りされたというのです。そして、この叫びが最も大きくなったところで、そこで初めてイエス様は足を止められたというのです。それは、盲人の叫びが最も大きくなるのをイエス様は待っていたからだと言われるのです。盲人のイエス様を求める心が最も大きくなったところで、イエス様は足を止めてくださったと言われるのです。

 イエス様は、この盲人の叫びが最も大きくなったところで足を止められた。そして、自らの足で、御自分のところまで来ることを求められました。そして、さらに、何をしてほしいのかを自分の口で言い表すことを求められたのでありました。それはなぜが。それは、この盲人を信仰から信仰へと導かれるためでありました。イエス様は、このようにして、この盲人を信仰から信仰へと導かれたのです。そして、これは、イエス様が祈りにおいて、私たちを取り扱われる仕方でもあるのです。イエス様は、ヨハネによる福音書の16章26節、27節でこう仰せになりました。その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。

 イエス様は、ここで、はっきりと「わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない」と仰せになりました。つまり、あなたがた自身が、わたしの名によって願うようにと求められたのです。私たちは、神様は全てのことをご存じであられると信じております。しかし、だからといって、自分の願いを声に出して祈らなくてもよいということではないのです。むしろ、私たちは、神様が全てをご存じであるがゆえに、ますます、私たちの願いを自らの口で言い表さなければならないのです。そして、それは何より、私たちと神様との信頼関係を保ち、さらに深めていくために必要なことなのです。神様が、私たちの願いをなかなか聞き上げてくださらない理由もそこにあります。もし、私たちが願ったことが、即座に全て適うとすれば、祈りは願いごとを叶える魔法の杖となってしまいます。いわば、祈りは神を気ままに動かすことのできる呪文となってしまうのです。しかし、もちろん祈りはそのようなものではありません。祈りとは、見えざる神との対話であります。ですから、私たちは、自らの願いを押しつけるのではなくて、神様の人格を重んじつつ願い続けるのです。そして、私たちは、願い続けるということによって、いよいよ神様を信ずる者とされてゆくのです。神様が、私たちの思いを越えて、それを最も相応しい時に実現してくださることを信じ、絶えず祈り続ける。そのことによって、神様は、私たちを、より親しい関係へと導かれるのです。

 私は、先程、ある先生の言葉を引用して、イエス様は、「この盲人の叫びが最も大きくなるまで待っておられた」と申しました。確かにそう言えるのだと思います。けれども、私はこのようにも思うのです。イエス様は、ここで立ち止まらざるを得なかったのではないかと。なぜなら、もし、素通りするならば、イエス様は御自分がダビデの子であることを否定することになってしまうからです。ますます大きく叫び続けた盲人の言葉には、もはやイエスという名は記されておりません。彼はただ「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫んだのです。イエスという名を忘れてしまったかのように、彼はただ「ダビデの子よ」と叫び続けたのであります。その叫びに一体誰が答えることができるか。それは、わたしだけではないか。そうイエス様は、ここで立ち止まってくださった。いや、まさにダビデの子であるがゆえに、イエス様は立ち止まらざるを得なかったのです。

 イエス様は、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」と仰せになりました。イエス様は、盲人が「ダビデの子よ」と叫び続けたこと、自分の足で近づいてきたこと、そして、その告白に相応しい願いを自分の口で言い表したこと。これらをひっくるめて、「あなたの信仰」と仰せになるのです。そして、その願いを、まさにダビデの子として叶えてくださったのです。盲人はたちまち見えるようになり、神を誉めたたえながらイエス様に従ってゆきました。盲人は、見えるようになったからと言って、イエス様のもとを離れ去っていったのではありません。たちまち見えるようになった盲人は、神を誉めたたえながらイエス様に従ったのです。イエス様は、彼はの肉体の目だけではなく、心の目も開いてくださいました。彼は、イエス様によって、肉体の目が開かれたとき、本当にこの人がダビデの子であることを知らされたのです。盲人は、イエス様に「主よ、目が見えるようになりたいのです」と願いました。ここで、「目が見える」と訳されている言葉は、「天を見上げる」とも訳すことができます。つまり、ここで盲人が願った言葉には、二つの願いを聞き取ることができるのです。一つは、目が見えるようになるという願い。そしてもう一つは、神を見上げることができるようにという願いであります。そして、イエス様は、この二つの願いを同時に聞き上げてくださったのです。私たちの教会には、目の不自由な方はおられません。それなら、今朝の御言葉は、私たちと関わりがないのかといえば、そうではありません。なぜなら、私たちも「天を見上げることができますように」と祈らざるを得ない者たちであるからです。主イエス・キリストの御姿が見えなくなる、その臨在が感じられなくなる。そのような状態に私たちもしばしば落ち込んでしまうのです。そのことに気づくとき、この物語は、私たちの物語となります。そして、ここに、実に配慮のこもった主イエスの姿を見ることができるのです。イエス様は、祈りを通して、私たちを信仰から信仰へと導かれてゆきます。そして、御自分の真実のゆえに、イエス・キリストを信じる私たちを、決してお見捨てになることはないのです。

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