死と復活の予告 2005年10月23日(日曜 朝の礼拝)

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死と復活の予告

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 18章31節~34節

聖句のアイコン聖書の言葉

18:31 イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。
18:32 人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。
18:33 彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」
18:34 十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。ルカによる福音書 18章31節~34節

原稿のアイコンメッセージ

 これまでイエス様は御自分の死と復活について2度予告してきました。イエス様がはじめて、御自分の死と復活を予告されたのは、9章の21節以下であります。ちょうど、ペトロの信仰告白の直後でありました。イエス様の「それではあなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いに対し、ペトロは、弟子たちを代表して「神からのメシアです」と答えます。イエス様は、そのことを誰にも話さないように命じ、それから、御自分の死と復活を予告されたのです。なぜ、イエス様は、自分がメシアであることを誰にも言い表さないようにと命じられたのか。それは、人々が期待していたメシアと、イエス様のメシアとしてのお姿がかけ離れていたからです。当時の人々は、メシアと聞けば、イスラエルをローマ帝国の支配から解放してくれる政治的メシアを思い浮かべました。しかし、イエス様が弟子たちに教えられたメシアの姿とは、人々に排斥されて、殺され、三日目に復活する苦難の僕の姿であったのです。弟子たちは、イエス様のことを「神からのメシア」と告白したのですけども、実は、それがどのようなメシアであるかはまだ分かっていませんでした。ですから、イエス様は、弟子たちに、誰にも話さないようにと命じられたのです。そして、イエス様は、御自分の死と復活を予告することにより、御自分がどのようなメシアであるかを弟子たちに教え始められたのです。

 2番目の死の予告は、9章の43節後半に記されています。イエス様は、山の上で、そのお姿が変わり、モーセとエリヤと御自分の最期について話し合っておりました。それから山を下りると、悪霊に取りつかれた子を目の当たりにいたします。その子の父親は、「弟子たちに悪霊を追い出してくれるよう頼んだができませんでした」と申します。それを聴いて、イエス様は「何と信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子供をここに連れてきなさい。」と仰せになったのです。それから、子供を癒し父親にお返しになる、その直後に、イエス様は弟子たちに、再び御自分の死を予告されたのです。私たちは、この繋がりをどう理解すればよいのでしょうか。それは、イエス様が人々の不信仰のゆえに、自らの死をいよいよ決意しておられるということです。信仰のない、よこしまな世代のために、イエス様は御自分が苦しまなければならないことをいよいよ決意されたのです。

 そして、三度目の死と復活の予告が、今朝の18章31節以下に記されているのです。

 31節から33節をお読みいたします。

 イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへと上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。人の子は、異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」

 イエス様は、いよいよ旅の終着地であるエルサレムへと上ろうとしております。そして、そこで御自分の身に何が起ころうとしているのかをあらかじめ弟子たちに教えられるのです。それは、イエス様のご計画というよりも旧約聖書に記された神様のご計画でありました。人の子について預言者が記したことを実現するために、イエス様はこれからエルサレムへと上っていくのです。エルサレムで、イエス様を待っているものは、私たちがどれも避けたいと思うものばかりです。異邦人に引き渡される。それは、同胞の民から切り離された深い孤独を意味しています。また、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。これらは、どれも耐えがたい屈辱です。私たちは、人から「あいつは馬鹿だ」と言われれば、腹を立てるでしょう。また、不当に殴られたり、蹴られたりすれば、どうでしょうか。さらには、唾を吐きかけられるとは、最大の屈辱ではないでしょうか。さんざん愚弄した後で、鞭を打って殺されてしまう。当時の鞭には、金属片がついており、その肉を裂いたと言われます。鞭を打たれ、肉が裂け、血が流れる。そして、苦しみが長く続く十字架刑によってに殺されてしまう。その苦難の死をイエス様はこれからお受けになると予告されるのです。

 先日、ある人とお話ししておりまして、その方が「死ぬときは眠るように死んでいきたい」と仰っていました。苦しむことなく、安らかに死んでいきたい。これは、私たちの誰もが持つ願いかもしれません。しかし、イエス様の死は、これと何とかけ離れていることでありましょうか。分かりやすく言いますと、イエス様はいじめ抜かれたすえに、殺されるのです。イエス様に、多くの人々の憎しみがぶつけられ、その悪の力にイエス様は飲み込まれてしまうかのように殺されるのです。しかし、イエス様は、それが父なる神に定められた道であるがゆえにエルサレムへと進んで行かれるのです。フィリピの信徒への手紙の2章に記されているように、イエス・キリストは、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで、父なる神に従順であられたのです。

 さて、今朝のお話しは、マタイによる福音書やマルコによる福音書にも記されています。その並行箇所と比べて、気づきますことは、ルカの記述には、祭司長や律法学者たちへの言及がなく、むしろ、異邦人の存在が強調されているということです。もちろん、異邦人に引き渡すのは、祭司長や律法学者たちでありましょうけども、ルカは、祭司長や律法学者という言葉を記さずに、異邦人によって、イエス様が苦難を受け、殺されたことを強調しているのです。このことは、ルカによる福音書が、異邦人に向けて記された福音書であることを思うとき、大変意味深いことであると思います。この福音書を読んだであろう、異邦人の読者が、立ち止まらざるを得ないように、ルカはこの所を記しているのです。私たち日本人も、旧約時代の区分からすれば、異邦人でありますから、ここで少し立ち止まってみたいと思います。私たちは、どこかで、イエス様を殺したのは、ユダヤ人だと考えているふしがあります。もちろん、イエス様の死には、ユダヤ人が大きく関わっております。しかし、ルカはここで、イエス様を殺すのは、ユダヤ人だけではない、あなたがた異邦人もイエス様を殺す罪を犯したのだと訴えているのです。ここでの異邦人は、直接は、イスラエルを支配していた、ローマ人のことでありましょう。しかし、ここでの異邦人には、ローマ人に限定されない、全世界の民が含まれるのです。いわば、イエス様の死には、全世界の民が関わっているのです。イエス様の死に対して、わたしは関係ないと言える人はいないのです。時代や地域を越えて、すべての人がイエス・キリストの死と関わりを持っているのです。

 私たちは、イエス・キリストの十字架の場面を思い浮かべる時、自分を果たして誰と重ねるのでしょうか。色々な人と重ねることができると思いますけども、おそらく、逃げてしまい、遠くに離れている弟子たちに自分を重ねて読むことが多いのだと思います。しかし、ルカがここで私たちに求めていることは、イエス様を侮辱し、乱暴し、ついには殺してしまう異邦人に自らの姿を重ねることなのです。それは、私たちにとって耐えがたいことかも知れません。「あなたがイエス様を十字架につけた」と言われれば、イエス様を主と仰ぐ私たちには耐えられないかも知れません。けれども、私たちはこのことを、率直に認めなくてはならないのです。私たちのうちに憎しみがあることを。自分が人より圧倒的な優位に立ったとき、いかに残酷に振る舞えるかを。そして虐げられる人々を前にして密かな喜びさえ抱けることを。そのような私たちの暗い思いを、すべてその身に引き受けるかのように、イエス様は苦しみを耐え忍ばれたのです。まるで、全世界の民のすべての憎しみを、その身に引き受けるかのように、イエス様は十字架につけられ死んでくださるのです。

 けれども、イエス様は死から三日目に復活なさいます。暴力によって、ユダヤ人も異邦人もイエス様を闇に葬り去ったと思いました。暴力という悪の力は、イエス・キリストに勝利したかのように思えたのです。しかし、イエス・キリストは、その死から復活なされるのです。このことは、何を意味するのでしょうか。それは、暴力が全てを解決する最終手段にならないということです。イエス様は、悪意に悪意をもっては応えられませんでした。むしろ、人々の悪意の只中で、イエス様は、彼らのためにとりなしの祈りをささげられたのです。憎しみに悲しいまでに捉えられている人間をイエス様は、憐れまれたのです。そして、イエス様は、復活されるという仕方で、悪と死の力に勝利してくださるのです。この復活の主イエスと出会うとき、人は、その悪の力から解放されてゆきます。自分が、イエス様を十字架につけた罪を認めつつ、そこに注がれる罪の赦しを味わい知ることができるのです。

 34節をお読みいたします。

 十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。

 イエス様と寝食を共にしてきた12人にさえ、イエス様の言葉が分かりませんでした。もちろん、表面的には、分かったことでありましょう。ここで、イエス様は、たとえを用いて話しているわけではありませんから、イエス様の言っている表面的なことは分かったと思います。それでは、何が分からなかったのか。それは、「イエス様がなぜ、そのような死を遂げなくてはならないのか」ということです。12人にとって、イエス様がエルサレムへと上られることは、イエス様がいよいよイスラエルの王として君臨され、神の国をこの地上にもたらしてくださることを意味しておりました。そのような期待の中で、イエス様は、御自分の苦難と死を予告される。それが、分からなかったのです。なぜ、人の子は、苦難を受け、殺され、復活しなければならないのか。その必然性はどこにあるのか。それがさっぱり彼らには分からなかったのです。12人は、これまでイエス様の奇跡を目の当たりにしてきました。弟子のヤコブとヨハネは、イエス様がサマリア人の村に受け入れられなかった時、「主よ、お望みでしたら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」とさえ提案したほどに、イエス様の力を信じていたのです。そのイエス様が、なぜ、むざむざ異邦人に引き渡されることがあろうか。イエス様が本気を出せば、異邦人などひとたまりもない、彼らはそう信じていたのです。ですから、彼らにはイエス様が異邦人に引き渡されるということが、理解できなかったのです。

 イエス様の言葉が分からなかったこと。それは、弟子たちが単なる無理解であったというだけではなくて、むしろ神によって隠されていたことでありました。つまり、ここでルカが教えていることは、イエス・キリストの十字架と復活は、神の啓示によって、はじめて理解できる神秘であるということです。弟子たちが、このイエス様の言葉を理解できるようになるには、復活されたイエス様によって心の目を開いていただくかなくてはならなかったのです。

 もちろん、私たちは、この弟子たちのように、復活されたイエス様を見ることはできません。しかし、聖書を通して、私たちは復活の主の御声を聞き、復活の主とお会いすることができるのです。聖霊のお働きによって、私たちの心の目が開かれ、イエス・キリストの十字架と復活の意味が明らかに示されるのです。すなわち、イエス・キリストを十字架につけたのは、このわたしであり、そのわたしの罪を赦すために、イエス・キリストは復活されたのだと。私たちの心に渦巻く憎しみ、妬み、欲望、そういったものを全て引き受け、それを浄化させるかのように死んでくださり、三日目に復活されたイエス様。そのイエス様に罪赦されることが、いかに、私たちの生き方を変えてしまうのか。今朝そのことをもう一度、わきまえ知りたいと願います。

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