金持ちの議員 2005年10月09日(日曜 朝の礼拝)

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金持ちの議員

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 18章18節~30節

聖句のアイコン聖書の言葉

18:18 ある議員がイエスに、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた。
18:19 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。
18:20 『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」
18:21 すると議員は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。
18:22 これを聞いて、イエスは言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
18:23 しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。
18:24 イエスは、議員が非常に悲しむのを見て、言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。
18:25 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
18:26 これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言うと、
18:27 イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われた。
18:28 するとペトロが、「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と言った。
18:29 イエスは言われた。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、
18:30 この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」ルカによる福音書 18章18節~30節

原稿のアイコンメッセージ

 ある議員がイエス様に、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねます。

 議員とありますから、社会的に身分の高い人です。いわば、指導的な立場にある人であります。その議員が、イエス様のもとにやって来てました。そして、イエス様を善い先生と呼び、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるのかを尋ねるのです。私たちは、以前にも、これと似た質問を読んだことがあります。それは、10章25節であります。有名な良いサマリア人のたとえの所でありますが、その10章25節に、こう記されています。すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。ここでも、やはり、「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるか」が問われています。今朝の18章で議員がした質問と同じ質問がここでもされていたわけです。しかし、私たちが、知らなくてはならないことは、たとえ同じ質問であったとしても、その動機はまるで違っていたということです。10章で質問した律法の専門家は、イエス様を試そうとして質問しました。この律法の専門家は、永遠の命を受け継ぐために何をすればよいかの自分なりの答えをちゃんと持っておりまして、イエス様がそれを知っているか、どうかをテストしたわけです。いわば、真剣に問うているのではないのです。しかし、今朝の18章の議員は、違います。この議員は、真剣に問うているのです。彼は、21節によれば、幼い頃から律法を守って生活してきました。それだからこそ、人々に信頼され、議員という地位にまで昇りつめたのです。おそらく、この議員も、「律法に従って歩めば命が得られる」という神の掟の大原則を知っていたはずです。けれども、彼は、自分が永遠の命を受け継ぐことができる確信を持つことができなかった。本当に、自分は永遠の命を受け継ぐことができるのかが不安であったのです。永遠の命。それは、この地上の命が、長時間に渡って続くことではありません。今の私たちの人生が無制限に続くことではありません。永遠の命、それは全く新しい神の命に生かされること、三位一体の神との永遠の愛の交わりに生かされることを言うのです。後の世で神から頂く、最高の祝福、それが永遠の命なのです。その永遠の命を、何をすれば受け継ぐことができるのか。何をすればその確証を得ることができるのか。この議員は、真剣に悩んだと思います。そして、イエス様ならご存じかもしれないという期待をもって、イエス様を「善い先生」と呼びかけたのです。

 それに対して、イエス様はこう仰せになります。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」。

 ここでイエス様は、「なぜ、わたしを『善い』というのか。神おひとりの他には、善い者はだれもいない」と仰せになります。これは、イエス様を神の御子と信ずる私たちには、驚くべき言葉かもしれません。しかし、ここでイエス様が仰せになろうとしていることは、永遠の命への道は、神の言葉である旧約聖書に記されているということなのです。この議員は、イエス様を「善い先生」と呼び、永遠の命を受け継ぐために何をすればよいかを教えてもらおうとしました。しかし、イエス様は、それを神の言葉である旧約聖書に求めよと、議論の道筋を正されたのです。そして、イスラエルの民であるなら、誰もが知っていた十戒の後半部分を仰せになるのです。

 これを聞いて、おそらく議員はがっかりしたと思います。イエス様なら、何か特別なこと教えてくださるに違いないと思っていたのに、そこで聞いたことは、子供のころから知っていた掟であったからです。議員は、イエス様に「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えます。しかし、イエス様はこう仰せになるのです。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。

 イエス様は、何もこの議員を困らせようとして、このような無理難題を突きつけられたのではありません。無理なことを頼んで、向こうから断らせようと考えたのではありません。ここで、イエス様は、この議員を真剣に招いております。いわば、この議員以上に、イエス様は真剣になって、この議員を永遠の命へと招いておられるのです。持っている物をすべて売り払って、貧しい人々へ分けてやりなさい。そしてわたしに従いなさい。わたしに従って歩むところに、あなたが求める永遠の命がなんであるかが見えてくるはずだ。そうイエス様は、この議員を招いておられるのです。私たち自身のことを考えてみてもそうではないでしょうか。イエス様に従って歩んで行く時、イエス様と共に歩んでいく時、初めて永遠の命というものが見えてくるのです。永遠の命とは、ただ無制限の人生を指すのではない。永遠の命とは、永遠にいます神を崇めて生きることであることが分かってくるのです。

 なぜ、イエス様は、この議員に「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい」と言われたのか。それは、この議員が、永遠の命を受け継ぐために必要なことであったからです。24節でイエス様は、「金持ちが神の国に入るのは、なんと難しいことか」と言われます。ここでは、永遠の命を受け継ぐことが「神の国に入る」と言い換えられています。つまり、永遠の命と神の国は、言い換えることのできる同義語のようなものなのです。私たちは、前回、イエス様が子供たちを祝福されたお話しを学びました。そこでイエス様は、こう仰せなりました。「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」。

 ここで、イエス様は全ての点において、子供のようになれと言っているのではありません。神の国を受け入れる、その一点において子供のようになれと言っているのです。私たちが子供と聞いて思い浮かべることは、かわいい、純真というイメージかも知れません。しかし、古代の人々にとって、子供と聞いて思い浮かべることは、取るに足りない者、弱さというイメージであります。子供は、親の保護なくして生きていくことができません。そのような無力な存在、それが子供であります。けれども、子供は、その無力さのゆえに、親にすべてを委ねて歩むのです。その子供のように、神の国を受け入れなさい、とイエス様は仰せになるのです。

 この子供と全く反対、対極の姿勢が、今朝の議員の姿勢であります。彼は、無力な子供とは到底かけ離れた存在でありました。なぜなら、彼は大変な金持ちであり、その富によって自らの存在を支えていたからです。だから、イエス様は、持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさいと言われたのです。その時、あなたも幼子のようになれる。自分を支えていると考えていた富から解放されて、本当に頼るべき方が見えてくる。そうイエス様はこの議員を、幼子の視線へと招かれるのです。また、このイエス様の求めは、単なる財産放棄というだけではなかったと思います。貧しい人々にほどこし、彼らの喜びを自らの喜びとするとき、そこに永遠の命が見えてくる。命がいかに豊かで貴いものなのかが、貧しい人々の交わりを通して見えてくるのです。

 しかし、この議員は、これを聞いて非常に悲しみました。なぜなら、彼は大変な金持ちであったからです。イエス様によって、永遠の命を受け継ぐ道が示されたのでありますけども、彼はそれを実行できませんでした。実行するには、彼は多くの富を持ちすぎていたのです。イエス様は、議員が非常に悲しむの見て、こう言われます。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」。 

 私たち人間は、目に見えるもの、手で触れることができるものに弱いものです。目に見えない神様よりも、目に見える富に信頼を置きやすいのです。ですから、イエス様は、財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことかと仰せになるのです。そればかりか、ラクダが針の穴を通る方がまだ易しいとまで仰せになるのです。

 これを聞いた人々は「それでは、誰が救われるのだろうか」と驚きました。それは、彼らが、富を神の祝福である、と考えていたからです。最も神から祝福を受けているはずの金持ちが神の国に入れないなら、一体誰が救われるだろうか、彼らはそう考えたのです。あるいは、このように考えたのかもしれません。自分たちも少なからず、財産をもっている。だから、彼らは「それでは、だれが救われるのだろうか」と問うた。そのようにも考えられるのです。これは、私たちの問いでもあると思います。今朝のイエス様と議員の会話を聞いて、もし、自分がこのように求められたら、どうだろうかと考えずにはおれないと思います。もし、自分が、「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい」と言われたら、そのようにできるか。そう考えてしまうのだと思います。そして、このやりとりを実際に聞いていた人々も、そう考えたのだと思いますね。ですから、彼らは、「それでは、だれが救われるだろうか」と尋ねざるを得なかったのです。

 その問いに対してイエス様はこう答えられます。「人間にはできないことも、神にはできる」。

 誰が神の国に入ることができるのか。誰が永遠の命を受け継ぐことができるのか。それは人間にはできないこと。人間がたとえ何をしてもできないことなのです。それはただ、神にだけできること。イエス・キリストに従うという仕方で、神は私たちに永遠の命を与えてくださるのです。イエス様に従って歩む時、私たちは、富の力から解放されていきます。お金さえあれば何でもできる。お金さえあれば安心だという思いから私たちは解放されていくのです。それは、私たちが、この議員よりも、欲がないからではありません。それはただ、私たちのうちに働く、神の恵みによるものなのです。

 しかし、ペトロは、そのことを理解していなかったようです。ペトロは、こう言います。「このとおり、わたしたちは自分の持ち物を捨ててあなたに従って参りました」。

 この言葉から、ペトロの誇らしげな様子が伝わってきます。議員は、イエス様に従い得なかった。しかし、自分たちは、自分の持ち物を捨てて、イエス様に従ってきた。そのような自負心がこの言葉には溢れています。しかし、もし、ここでペトロが自分たちのことばかりにその意識を集中しているならば、やはりペトロは、イエス様の御言葉を理解していなかったのです。むしろ、ペトロがなすべきことは、自分たちを誇ることではなく、自分たちの内に働かれた神の恵みを誇るべきであったのです。自らを招いてくださった神様、そればかりか、自分の持ち物を捨ててまで、イエス様に従えるようにしてくださった神様に感謝をささげるべきであったのです。そして、これこそ、私たちキリスト者のあるべき姿なのであります。

 イエス様は最後にこう仰せになりました。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける」。

 ここでは、富ばかりではなく、自分の家族、最も親しい人間関係が扱われております。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てることが求められているのです。捨てるというと、語弊がありますが、つまり、神の国か、家族かのどちらかを選ぶならば、神の国を選び取らなくてはならないということであります。

 よく、あなたにとって一番大切なものは何ですかという、アンケートの質問があります。そこで、最も多いのは、おそらく家族ではないかと思います。そして、次ぎに財産であると思うんですね。けれども、私たちキリスト者は、その第1位を、いつもイエス・キリストとしなくてはならないのです。イエス・キリストに従っていく。その歩みを阻むものがあるならば、それが家族であろうと、財産であろうと捨てていく。そして、それが永遠の命に至る道であると、イエス様は教えられるのです。

 私がまだ求道中であった頃、家族の中で自分だけが救われることに、わだかまりがありました。イエス・キリストを信じて救われるならば、信じない家族はどうなってしまうのだろう。そういう疑問を持ちました。そして、中には、それが原因で、イエス・キリストの福音を拒否する人たちもおります。「私だけ救われるのであれば、結構です」と言って教会を去っていくわけですね。しかし、私はそのようには、考えませんでした。礼拝の説教で語られる言葉、「今自分が救われたのは、やがて、家族全員が救われるためである」という言葉を聞いて、イエス様を救い主として受け入れ歩み出すことができたのです。第二テサロニケの2章11節にも、「神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになった」と記されています。

 その神様のご計画、神様の恵み深さ、神様の計り知れない愛を知った時、自分一人でもイエス様に従って歩み出すことができるのです。そして、それも神様が私たちの内でなしてくださったことなのです。私たちが家族を、神の国のために捨てるというとき、それは、どうにでもなれといって、捨てていくのではありません。それは、私たちが自分のものと考えていたものを、神様の御手にお返しするということであります。神様が私たちよりも、家族の救いを欲しておられることを知っているがゆえに、私たちは神の国のために、安心して、たとえ一人でもこの礼拝に集うことができるのです。

 イエス様は、ここで、後の世ばかりではなく、この世においても、その何倍もの報いを受けると約束してくださいました。それは、主にある兄弟姉妹のことでありますね。イエス様に従うということによって、人は新しい人間関係に生きるようになるのです。そして、それが神の家族、主になる兄弟姉妹の交わりなのです。

 私は、最近、こう思います。神様は、人がこの地上で望んでいるものを、後の世にも与えてくださるのだと。私は先程、永遠の命とは、三位一体の神との永遠の愛の交わりであると申しました。神の国、天国とは、神がおられる所であります。天国とは、美味しい食べ物が一杯あって、いつでも温泉に入ることができる所を言うのではありません。天国とは、神様と神の民が共に住む所です。どんなに素晴らしい所でも、イエス・キリストがおられないのであれば、そこは天国ではないのです。そして、そこに入ることができるのは、今、この地上で、イエス・キリストに従うことを第一とする者たちなのです。残念ながら、多くの人々が、教会に無関心であります。イエス様を求めようとしておりません。そうであるならば、彼らは、自ら望んで天国に入ろうとしていないのです。天国が主イエスがおられる所であるならば、地獄は主イエスがおられない所と言えます。ですから、彼らは、自分の望み通り、地獄へ行くことになる、と言うことができるのです。この議員は、真剣に永遠の命を求めておりました。しかし、最後の最後で、彼は永遠の命よりも、この地上の富を選び取ってしまったのです。彼は自らの意思で、自分を永遠の命から締め出してしまったのであります。

 イエス様は、イエス・キリストに従うことを第一としないならば、神の国に入ることはできないと仰せになります。イエス様と私たちの間を遮るものがあるならば、たとえそれが家族や富であっても捨てなければ、永遠の命を受け継ぐことはできないと仰せになるのです。そのことを一体誰ができましょうか。それができるのは、イエス様が仰せになるように、ただ神お一人であります。「人間にできないことも、神にはできる」。私たちは、今、その神の全能の力に生かされているのです。そして、神の全能の力を信じるがゆえに、イエス・キリストを宣べ伝えていくことができるのです。

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