子どものように 2005年10月02日(日曜 朝の礼拝)

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子どものように

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 18章15節~17節

聖句のアイコン聖書の言葉

18:15 イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。
18:16 しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
18:17 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」ルカによる福音書 18章15節~17節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝のお話には、子供が出てきます。何人いたのか分かりませんが、その中には乳飲み子、赤ちゃんさえおりました。ユダヤの社会では、13歳で成人式を迎えたといいますから、ここでの子供は、12歳までを指しています。現代でいえば、小学生までです。これらの子供たちは、自分でイエス様のもとにやって来たのではありません。子供たちは、人々によって連れて来られたのです。ここでの人々が誰であるかは記されていませんが、普通に考えれば、子供の親たちであると考えられます。親たちがイエス様に触れていただくために、子供たちを連れてきた。そして、中には乳飲み子さえも連れてきた者がいたのです。「触れていただく」とは、イエス様に祝福していただくという意味です。当時、有名な律法の教師に、子供を祝福していただくという慣習があったそうです。また、当時、幼児の死亡率は、非常に高いものでしたから、親の子供に対する心配は、大きなものであったと考えられます。おそらく、子供を連れてきた親たちは、イエス様についてのうわさを聞いていたのでしょう。イエス様は、あらゆる病を癒すことがおできになる。そう聞いた親たちが、自分の子供をイエス様に祝福してもたらいたいと願ったことは、むしろ当然であったと言えます。彼らは、素朴に、イエス様に触れていただければ、子供が病気から守られると考えたのかも知れません。

 しかし、イエス様と子供たちの間を遮る者たちがおりました。それが、弟子たちであります。「弟子たちは、これを見て叱った」と記されています。なぜ、弟子たちは、この人たちを叱ったのでしょうか。はっきりとは分かりませんが、おそらく、彼らは、子供たちとイエス様とは関わりがないと考えたのだと思います。古代の社会において、子供は十分な意味における人間とは考えられていませんでした。いわば、半人前の存在と考えられていたのです。ですから、弟子たちは、イエス様が宣べ伝える神の国と、子供たちは何の関わりもないと考えたのです。

 また、弟子たちからすれば、そのタイミングも悪かったのだと思います。これがもし、ガリラヤ伝道のころであったなら、もしかしたら弟子たちも人々を叱らなかったかも知れません。今朝の御言葉を読んで、私は微笑ましい光景であると思います。近頃のイエス様の教えは、緊張感に満ちておりまして、学んでいるこちらも疲れてしまう、それほど緊迫した感がありました。そこに、親たちがイエス様のもとに子供たちを連れてきた。ここで、ほっと一息つける、そういう気がいたします。しかし、弟子たちにしてみれば、このような緊迫した時に、子供たちを連れてきた人々は不謹慎に思えたのかも知れません。といいますのは、この時、イエス様ご一行は、エルサレムへ近づきつつあったからです。イエス様は、エルサレムで御自分が受ける苦難と死を予告しておりました。他方、弟子たちは、そのイエス様の御言葉を理解せず、イエス様がエルサレムで、いよいよイスラエルの王として君臨されると考えていました。そのような仕方で神の国は実現すると考えていたのです。そのエルサレムを目前とした大切な時に、のんきにも子供たちを連れてくるとは何事か。今は、大切な時なのだ。そう弟子たちは考え、人々を叱ったのだと思います。 

 ここで、注目しておきたいことは、弟子たちは、自分たちの判断が、イエス様の御心であると考えていたことです。彼らは、イエス様のお気持ちを察して、いわば代弁者として、人々を叱ったのです。これは、私たちもよくする過ちであります。自分の思いを神様の御心であると思いこんでしまう、ということが私たちにもあると思います。神様の御心を、聖書と祈りによって尋ね求めるのではなくて、自分の思いを神様の思いとすり替えてしまう。ここでの弟子たちが、まさにそうでありました。弟子たちは、子供なんかに用はない、と考え、それがあたかもイエス様のお考えであるかのように振る舞ったのです。

 しかし、イエス様は乳飲み子たちを呼び寄せて、こう仰せになります。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」

 このイエス様の言葉は、私たちが教会で子供たちをどのような眼差しで見ればよいのか。子供たちを、どのように扱えばよいのかを教えています。私たちは、しばしば、子供を親によって連れられてきた、おまけのような存在と考えやすいのではないでしょうか。けれども、教会の頭であるイエス・キリストは、子供たちを、御自分の民の一員として見ておられるのです。私は、先程、今朝の御言葉は、ほっと一息つける、微笑ましい光景である、と申しました。しかし、イエス様は、たまに子供と遊ぶのも、いい気晴らしになると言って子供たちを御許に呼び寄せたのではありません。そうではなくて、神の国の一員として、神の祝福を受けるべき者として、イエス様は子供たちを呼び寄せたのです。そして、「神の国はこのような者たちのものである」と仰せになるのです。なぜ、このように言うことができるのか。それは、イエス様が、この子供たちを、乳飲み子さえも、御もとに呼び寄せてくださるからです。あるいは、こうも言えます。イエス様は、この乳飲み子の罪を贖うためにも、エルサレムへと進まれるからだと。私たちは、子供は純真であり、無垢であると考えやすいものです。しかし、それは幻想であります。子供も、自分勝手で、残虐なところを、大人と同じように持っています。罪というのは、大人になって、そして自分で、罪があると認められるようになって、初めてそこで現れてくるものではありません。罪というものは、たとえそれが罪であると認識することができなくとも、確かにその人のうちにあるのです。乳飲み子にさえ、罪はあるのです。ですから、乳飲み子にも、罪からの救いが必要なのです。だからこそ、イエス様は、この乳飲み子を受け入れられたのです。子供たちがイエス様を求めるに勝って、それに先だって、イエス様は子供たちを求められるのです。弟子たちは、子供を連れてきた親たちを叱りました。しかし、親たちは正しかったのです。親たちの振る舞いはイエス様の御心に適ったものでありました。ですから、私たちも、子供たちをイエス様のもとに連れて来なければなりません。たとえ、まだ文字を読むことができず、聖書のお話しが分からなくとも、天のイエス様は、子供たちを祝福してくださるのです。私たちは、そのことを忘れず、子供たちと共に礼拝をささげていきたいと思います。

 続けてイエス様はこう仰せになります。「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」。

 この「はっきり言っておく」という言い回しは、イエス様が権威をもって語るときの決まった言い回しです。それは、旧約の預言者が「主はこう言われる」といって、語り出したのに通じるものがあります。この「はっきり言っておく」を、元の言葉から直訳しますと「アーメン、わたしはあなたがたに言う」となります。「アーメン」とは、祈りや宣言のあとに、いわば終止符のように唱えられる言葉です。私たちも祈りを結ぶ時に「アーメン」といいます。それは、「本当です」とか「真実です」という確証を表す言葉です。それをイエス様は、一番始めに持ってきて「アーメン、わたしはあなたがたに言う」と仰せになるのです。当時、誰もこのような言い方はしませんでした。ただ、イエス様だけが、こう仰せなったのです。ある神学者は、この言葉から、次のような想像をしています。イエス様にしか聞くことのできない、父なる神の御声があって、それに同意するかのように、イエス様は、「アーメン」といって語り出している。そう想像する人もいるのです。これは、大変面白い想像だと思います。ともかく、ここで、イエス様は、神の御子としての権威をもって、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と仰せになったのです。

 ここで、イエス様は弟子たちに、全ての点において、子供のようになれと言っているのでありません。全ての点において、子供が私たちの模範なのではないのです。イエス様は、ここで、「神の国を受け入れる」という点において、子供のようになりなさい、と仰せになったのです。それでは、子供のように、神の国を受け入れるとはどういうことでしょうか。それは、神の恵みを恵みとして、素直に受け入れるということです。私たちは、成長するにつれて、人からの好意や善意を、素直に受け入れにくくなる。どこか遠慮してしまう。無償でもらうことを自尊心がゆるさず、すぐにお返しを考えてしまう。また、タダより高いものはないと疑ったりします。けれども、子供は、それを素直に受け入れるのです。イエス様は、その子供ように、神の国を、神の恵みを、素直に受け入れなさいと仰せになるのです。

 また、「子供のように受け入れる」とは、「子供として受け入れる」とも訳すことができます。ただ、神の御支配を素直に受け入れるだけではなくて、それを父なる神の御支配として受け入れることが求められているのです。神の国に入るという時、そこには、何だか冷たいイメージがあるかもしれません。入国審査を受けて、神の国のゲートを通過する。そういうイメージを持つかもしれません。けれども、私たちが、忘れてはならないのは、神の国での、神様と私たちとの関係は、イエス・キリストにある父と子との関係であるということです。神の国という言葉を聞いて、皆さんはどのようなイメージを持たれるか分かりませんけども、私はこのようなイメージを持っております。それは、親に見守れながら、公園で遊ぶ子供のイメージです。子供は、親が近くで自分を見守っていることを知っているがゆえに、安心して遊ぶことができます。それは、何かあると親が飛んできて助けてくれることを、知っているからです。親に見守れながら、公園で遊ぶ子供のイメージ、それが私の持つ神の国のイメージなのです。こう聞いて、驚く人もいるかも知れません。けれども、今朝のイエス様の御言葉によれば、私のイメージも、それほど的はずれではないと思います。イエス様が「子供」と言われたとき、それは、親から切り離された子供を考えていたのではありません。そうではなくて、親との関係に育まれる子供を考えていたはずです。事実、ここでの子供たちは、親によって連れて来られた者たちでありました。ですから、イエス様が「子供ように神の国を受け入れる」と言われるとき、それは神を父として信頼し、ただその御支配を受け入れるということを仰せになったのです。これは、単なる運命論や宿命論ではありません。私たちの生活に起こることがらを、「運命」や「宿命」という得たいの知れないもので説明して、諦めてしまうことではありません。子供として神の国を受け入れるとは、全ての事柄を、父なる神のご計画のうちにあることと信じて、受けとめていくことです。理解できないこと、納得できないことがあっても、父なる神に信頼して、その神を崇めて生きるということです。

 私たちは、しばしば神との関係においても、大人になろうとする過ちを犯します。神の助けがなくとも、生きてゆける自立した人間になろうとするのです。しかし、それは間違いであります。私たちは、幾つになっても子供であり続けるべきなのです。もちろん、聖書は、成熟した信仰を目指すべきであると教えています。しかし、私たちは、神の国を受け入れるということにおいては、子供のようであり続けなければならないのです。子供は、親に頼らなければ生きていくことができません。そのような無力な存在、それが子供であります。しかし、その無力さのゆえに、子供は、親に全てを委ねて歩むのです。そして、これこそ、神様を「アッバ父よ」と呼ぶ私たちのあるべき姿なのです。

 もし、神の国が、イエス・キリストにある父と子との交わりであることを忘れるならば、私たちと神様との関係は、自ずとよそよそしくなっていきます。気を遣うようになる。居心地が悪くなるのです。しかし、子供は、そのようなことを感じるでしょうか。養ってもらうことを当たり前と考えているのではないでしょうか。お母さんにご飯を作ってもらえること。お父さんが自分を養うために働いてくれること。それを当たり前と考えています。それは、なぜですか。それは、心の最も深い所で、親が自分を養ってくれることを信頼しているからです。その信頼を、イエス様は、私たちにも求められるのです。いや、それ以上の信頼を、イエス様は私たちに与えてくださったのです。私たちが、なぜ、父なる神を恵み深い、愛なるお方として信頼することができるのか。それは、父なる神が私たちを救うために、愛する御子を十字架へと引き渡されたからです。イエス様は、御自分の命をもって、私たちに対する神の愛を明らかに示してくださいました。そればかりか、神を父として信頼する心を、聖霊によって与えてくださったのです。

 私たちは、いつまでも、イエス・キリストにあって、父なる神の御前に、子供として立ち続けたいと思います。社会的には、立派な大人と言われようとも、高齢者と言われようとも、父なる神の御前に、無力な幼子として立ち続けたいと思います。そして、その時、私たちはこの地上を、神に見守られながら、安心して歩んでいくことができる。主にある兄弟姉妹と共に、父なる神を崇めつつ、この地上を歩んでいくことができるのです。

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