義とされる者 2005年9月25日(日曜 朝の礼拝)

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義とされる者

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 18章9節~14節

聖句のアイコン聖書の言葉

18:9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
18:10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
18:11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
18:12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
18:13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
18:14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」ルカによる福音書 18章9節~14節

原稿のアイコンメッセージ

      聖 書 ルカによる福音書18:9-14

 先程、ルカによる福音書18章9節から14節までをお読みしていただきましたが、私は今朝の御言葉を、17章20節からの流れの中でお話ししたいと思います。それは、17章20節からの流れの中で、今朝の御言葉を読まなくては、イエス様がここで教えようとしてることを正しく捉えることはできない、と考えるからです。

 神の国はいつ来るのかと尋ねるファリサイ派の人々に対して、イエス様は、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と答えられました。イエス様はここで、御自分において、神の国はすでに到来していると教えられたのです。続けて、イエス様は弟子たちに、神の国が完成される「人の子の日」について教えられます。「人の子の日」とは、イエス様が栄光の裁き主として、再び天からおいでになる再臨の日のことです。神の国は、イエス・キリストにおいて「すでに」到来いたしました。けれども、その完成は、イエス・キリストの再臨を待たなくてはならないのです。神の国は「すでに」到来しているが、「いまだ」完成していない。私たちは、この「すでに」と「いまだ」の緊張関係に生きているのです。

 それでは、「人の子の日」はいつ来るのでしょうか。イエス様は、弟子たちに「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう」と仰せになりました。つまり、人の子の日は、まだ先のことであると教えられたのです。しかし、同時に「人の子の日」は、ノアの時代のように、あるいはロトの時代のように、突然襲うと教えられるのです。ですから、イエス様は、私たちに地上の富に心奪われることなく、絶えず目を覚ましているよう求められるのです。

 しかし、果たして、いつ来られるか分からないお方を、目を覚まして待ち続けることができるでしょうか。イエス様は、その私たちの弱さを考慮して、18章1節以下で、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えられるのです。イエス様は「やもめと裁判官のたとえ」を受けて、「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでほうっておくことがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる」と教えられました。そして、その裁きの時は、やはり「人の子がくる時」なのです。「人の子の日」は、突然来るだけではなく、速やかに来る。世の不正や迫害に苦しむ弟子たちの祈りに応えて、イエス様は速やかに来てくださるのです。

 栄光のイエス様が全世界を裁かれることと、神の国の完成とは一体的な関係にあります。なぜなら、神の正しさ、神の義が貫かれるところに、神の国が完成されるからです。しかし、そこで貫かれる神の正しさ、神の義とは一体どのような義なのでしょうか。それを教えているのが、今朝の「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」なのです。

 二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこう祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でもなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』

 ファリサイ派は、神の掟である律法を守ることにひときわ熱心な人々でありました。社会的にも尊敬され、民衆にも大きな影響力を持っておりました。最もまじめで敬虔な人たち、それがファリサイ派であります。この祈りの言葉からも、彼が、律法に従って生活していたことがよく分かります。彼は、「盗んではならない」「偽証してはならない」「姦淫してはならない」という十戒の掟を守っていました。そればかり、律法が求める以上のことさえしていたのです。律法は、年に一度だけ断食するように定めていますが、彼は週に二度断食していました。また、十分の一を献げるようにと定められていないものにまで、彼は十分の一の規定を適用していたのです。

 13節。ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』

 徴税人は、ローマ帝国の手先となって、同胞のユダヤ人から税金を集めることを仕事とすることから裏切り者と考えられておりました。また、決められた税額よりも多くの金額を徴収して私腹を肥やしておりましたから、泥棒のように考えられておりました。

 ファリサイ派の人も徴税人も立ってお祈りしました。当時の人は、立って、目を天に上げて、手をあげて祈ったそうです。現在、私たちは、座って、目を閉じて、手を組んで祈ります。しかし、当時の人は、立って、目を天にあげて、手をあげて祈ったのです。しかし、この徴税人は、遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら祈るのです。それは、彼の祈りの言葉からも分かるように、彼が自分の罪にうちひしがれていたからです。神様から罪を赦していただかなければ、生きていけないほどに、徴税人は自分の罪を自覚していたのです。

 さて、ファリサイ派の人と徴税人、このどちらの人が神に義としていただけるでしょうか。もし、当時の人々にそう尋ねれば、全ての人が、ファリサイ派の人であると答えたと思います。しかし、イエス様は、こう仰せになるのです。「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。」。

 これは驚くべきことであります。なぜ、神は、ファリサイ派の人ではなくて、徴税人を義とされたのか。私たちは、今朝、このことを真剣に問いたいと思います。ファリサイ派の人ではなく、徴税人を正しいとする神の義とは一体いかなる義なのでしょうか。

 神の義とは何か。まず、始めに思い浮かべるのは、神の義とは神の完全な正しさを指すということです。それは、罪を罪として罰する厳粛な正しさです。その神の御前に、神様の掟を守っていると自負するファリサイ派の人と、罪を悔いる徴税人の二人が立った。その時、神はどちらを正しいとされるのか。当然、徴税人ではなくて、ファリサイ派の人に分があると考えます。神の義が、罪を罪として罰する完全な義であるならば、私たちは当然、徴税人よりも、ファリサイ派の人が義とされる可能性が高いと考える。しかし、イエス様は、義とされたのは徴税人であると仰せになるのです。そうであれば、私たちは、神の義そのものを問わなければなりません。神の義とは一体何なのか。イエス様が再び来られる日、貫かれる神の義とは、果たしてどのような義なのか。そして、イエス様は、まさに、そのことをここで教えておられるのです。つまり、神の義とは、悔い改める者の罪をゆるすことなのです。悔い改める者の罪をゆるす。それが神の正しさなのです。このことは、神の義を、イエス・キリストの義と言い換えれば、よく分かります。イエス様は、確かに、不信心な者には厳しい警告をなされました。しかし、御自分により頼む全ての者に、罪のゆるし、神の救いを宣言なされたのです。ヘブライ人への手紙1章3節には、御子は、神の栄光の繁栄であり、神の本質の完全な現れであると記されています。ですから、私たちは、イエス・キリストにおいて、はじめて神の義を正しく理解することができるのです。

 先程も申しましたけども、イエス様は、「やもめと裁判官のたとえ」を受けて、「言っておくが、神は速やかに裁いてくださる」と教えられました。そして、弟子たちに、昼も夜も神の裁き、神の義、神の正しさを祈り求めるよう励まされたのです。しかし、私たちが、そこで祈り求める、神の義とは一体何か。ただ、私たちを悩ます者、私たちを迫害する者が滅ぼされることだけを祈り求めるのでしょうか。そうではありません。そうであってはならないことを教えるために、イエス様は「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえを語られたのです。イエス・キリストにおいて表された神の義は、悔い改める者に罪の赦しをもたらす神の義であることを私たちは知らなくてはならない。また、私たちこそが、まず最初に神の裁きの座に立たなければならないことを知らなくてはならないのです。使徒ペトロは、その第一の手紙4章で、神の家から裁きが始まることを教えています。そうであるならば、私たちも自分の胸を叩かざる得ないのではないでしょうか?

 神の義、神の正しさの規準は、私たち人間の規準を越えて遥かに高いものです。それこそ、完全であります。そこに達するには、文字通り律法を完全に守らなければなりません。しかし、それは、生まれながらに罪を持つ人間には不可能であります。ですから、このファリサイ派の人は、上を見ないで、横を見たのです。神様を見ないで、自分と他の人を比べて、自分は正しいと安心し、それを救いの根拠と考えたのです。しかし、それが、神の正しさと何の関わりがありましょうか?神の正しさは絶対的なものであります。相対的なものではありません。あえて譬えるならば、テストで100点をとった者だけが正しいとされる。点数の良い上位5名が正しいとされるわけではないのです。ファリサイ派の人は、神様に、自分の正しさを祈りというかたちで述べました。しかし、人間の相対的な正しさでは、神様から正しいと認めていただけないのです。そうであるならば、私たちはここで、改めてイエス様が「義とされたのは徴税人であった」と仰せになった理由を考えなければなりません。なぜ、イエス様はこのように宣言することができるのか。それは、イエス様が、御自分の民に代わって、律法を完全に守られるからです。そればかりか、御自分の民の罪を背負われ、その刑罰をお受けになられるからです。イエス様は、17章25節で「人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている」と仰せになりました。それは、御自分により頼む全ての者のための贖いの死であります。ですから、イエス様だけが、このように言うことができるのです。イエス様だけが、当時の常識に逆らって、しかも真実な言葉として、「神に義とされたのは徴税人であった」と語ることができるのであります。徴税人は、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈りました。罪人の代名詞のようなこの徴税人が、なぜ、このように祈ることができたのか。それは、彼が、神の憐れみを信じたからです。神は罪をゆるしてくださると信じたからであります。私たち人間の論理からすれば、さんざん不正をは働いておいて、赦してほしいなんて、虫がいいと思うかもしれません。しかし、神は、真実の心から発せられる悔い改めの祈りを、聞かないではおれないのです。それはなぜか。それは神が神であられるからです。ここに、神の正しさがある。罪を犯す者を厳しく裁くだけが神の正しさではないのです。罪を悔い改める者を赦すことも、また神の正しさなのであります。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」、この祈りは、旧約の民の祈りでもありました。詩編を見れば、至る所に、主なる神に、罪の赦しを願う祈りが記されています。その祈りに答えるかのように、父なる神は、愛する御子を遣わしてくださったのです。そして、イエス・キリストにおいて、「罪人の罪を贖い、正しいと宣言する」、その道を開かれたのです。

 イエス様は最後に、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と仰せになりました。元の言葉は、未来形で記されていますから、丁寧に訳せば、「だれでも高ぶる者は低くされるであろう。そして、へりくだる者は高められるであろう」となります。これは、終末の「人の子の日」における預言であります。イエス様が再び天から来られる日、神の大いなる逆転が起こるのです。けれども、徴税人が「義とされて家に帰った」ように、自分の罪を悔い改めるならば、私たちは、今、神様から義としていただけるのです。そして、それはイエス・キリストへの信仰を通していただく、神の賜物としての義なのです。

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