絶えざる祈り 2005年9月18日(日曜 朝の礼拝)

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絶えざる祈り

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 18章1節~8節

聖句のアイコン聖書の言葉

18:1 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。
18:2 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。
18:3 ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。
18:4 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。
18:5 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」
18:6 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。
18:7 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。
18:8 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」ルカによる福音書 18章1節~8節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、ルカによる福音書18章1節から8節より、「絶えざる祈り」という題でお話しをいたします。

 1節に、「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。」とあります。いわば、ここに、今朝、イエス様が教えようとしておられることの要点が記されています。なぜ、イエス様は、弟子たちに「気を落とさずに絶えず祈らなければならないこと」を教えられたのか。それは、前回お話しした「人の子の日」と深い繋がりがあります。「人の子の日」、それは、天におられるイエス様が、全世界の裁き主として来られる日です。今からおよそ2000年前に、隠れた仕方でこの地上にお生まれになったイエス・キリストが、今度は誰にでも明らかな仕方で、ちょうど稲妻が大空の端から端へと輝くように、栄光の裁き主としておいでになる。それが、「人の子の日」でありました。そして、イエス様は弟子たちに、「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時がくる。しかし見ることはできないだろう」と仰せになられたのです。つまり、「人の子の日」はまだ先であるのです。事実、今日まで、「人の子の日」は到来しておりません。そうすると、そこに一つの不信仰な思いが生まれてきます。それは、「人の子の日」というけれども、イエス様は来ないのではないか。また、もし来るとしても、自分が生きている間ではなくて、もっと先のことではないか。そのような不信仰な思いが生まれてくるのです。そして、そのことを実は、イエス様御自身が心配しておられるのです。今朝の御言葉の最後にこう記されています。「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろか。」。

 イエス様は17章25節で、「人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。」と仰せになりました。そして、イエス様はそのお言葉通り、十字架の待つエルサレムへと進まれるのです。しかし、ここでイエス様が心配しておられることはもっと先のことです。十字架の死、復活、昇天、着座、それらのすべてを経過して、人の子の再臨という最後の最後になって、地上に信仰を見出すことができないのではないか。最後の最後で、神の救いの計画が台無しになってしまうのではないか、と問われるのです。そして、そうならないために、イエス様は、今朝、私たちに「やもめと裁判官」のたとえ話をなされるのです。

 ある町に神を畏れず人を人と思わない裁判官がおりました。裁判官に求められる働きは、人と人の間を裁くことです。それも、正しい裁きをすることであります。正義を宣言すること。そう言ってもよいと思います。申命記の1章で、モーセは裁判人の働きについてこう語りました。「同胞の間に立って言い分をよく聞き、同胞間の問題であれ、寄留者との間の問題であれ、正しく裁きなさい。裁判に当たって、偏り見ることがあってはならない。身分の上下を問わず、等しく事情を聞くべきである。人の顔色をうかがってはならない。裁判は神に属することだからである。」

 ここでモーセは、はっきりと「裁判は神に属することだからである」と語っています。神の民イスラエルにとって、真の裁き主は神お一人であります。その神に代わって裁判官は、神の民を裁く。よって、そこで求められることは、神の正義が宣言されることでありました。そうであるならば、裁判官に求められる資質は、何より神を畏れることであります。しかし、イエス様のたとえ話に出てくる裁判官は、そのような者ではありませんでした。この裁判官は、神を畏れず人を人とも思わない、不正な裁判官であったのです。 

 3節。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。

 やもめとは、夫に先立たれた未亡人のことです。男性社会であった当時において、やもめは社会的弱者でありました。また、しばしば搾取の対象とされました。現代では、お年寄りが悪徳業者のターゲットとされて、お金をむしり取られておりますけども、そのやもめもそのような状態に置かれていたのかもしれません。このような社会的弱者であるやもめに対して、主なる神は、特別な憐れみを示して参りました。例えば、出エジプト記の22章にはこう記されています。「寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。そしてわたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは孤児となる。」

 また、イザヤ書1章にも、こう記されています。「善を行うことを学び/裁きをどこまでも実行して/搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り/やもめの訴えを弁護せよ。」

 このように、旧約聖書の教えからすれば、裁判官はやもめの訴えに耳を傾け、やもめを擁護しなくてはなりませんでした。しかし、この裁判官は神を畏れず人を人とも思わない裁判官でありましたから、やもめの訴えなど取り合おうとはしませんでした。不正な裁判官ですから、お金をいくらかでも包んでいけば裁判をしてくれたかもしれません。あるいは、町の有力者の紹介でもあれば速やかに裁判をしてくれたかもしれません。しかし、やもめにはそのようなものは何一つありませんでした。彼女にできることは、ただ足繁く裁判官のもとに通うこと、裁判官に訴え続けることだけであったのです。

 しばらく、取り合わなかった裁判官も、後にこう考えます。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてしかたがないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすに違いない。』

 ここで、裁判官は、正義感に目覚めて、やもめの訴えを取り上げようとしたのではありません。彼自身が語っているように、彼は依然として神を畏れず人を人とも思わない者であったのです。それでは、なぜ、やもめのために裁判をしてやろうと考えたのか。それは、彼女がうるさくてしかたがなかったからであります。もし、裁判をしなければ、ひっきりなしにやって来て、自分をさんざんな目に遭わす恐れがあったからです。ここで「さんざんな目にあわす」と訳されている言葉の元々の意味は「こぶしで目の下を打ってあざを作る」という意味です。やもめがヒステリーを起こして自分に襲いかかってくるかもしれない、そう裁判官は考えたのです。

 この不正な裁判官を動かしたのは、やもめの熱心でありました。それほどに、やもめは必死であったのです。そして、そこには、自分は正しいという確信があったのだと思います。自分の言い分を神様は必ず正しいと宣言してくださる。そう、やもめは確信していたのです。だからこそ、やもめは、裁判官がうんざりするほどに、訴え続けることができたのです。

 この譬えを受けて、イエス様はこう仰せになります。この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでも放っておかれるだろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。

 不正な裁判官さえ、足繁く通うやもめの訴えを聞き入れたならば、正しい審判者である主なる神が、昼も夜も叫び求める選ばれた人たちの訴えを聞いてくださらないはずはありません。不正な裁判官は、煩わされたくない一心で、やもめの訴えを聞き入れました。しかし、神はそうではありません。神は、私たちの祈りが煩わしいから、それに根負けして願いを聞いてくださるのではないのです。神は、御自分の正義を実現するために、喜んで私たちの訴えに耳を傾け、そして、速やかに裁いてくださるのです。それでは、その裁きはいつ行われるのか。それは人の子の日、イエス・キリストの再臨の日であります。天からイエス様が再び来られる日、神の義が貫かれ、生きている者と死んでいる者とを裁かれるのです。

 さて、このイエス様の言葉を聞いて、皆さんはどう思うでしょうか。私はとても不思議に思います。なぜなら、イエス様は、このように仰せになってから、少なくとも2000年近くが経っているからです。イエス様は、「神は速やかに裁いてくださる」と約束してくださいました。しかし、それからもう何年経ったことか。このイエス様の言葉は本当かしら、と疑いたくなるのではないでしょうか。そして、事実、ペテロの手紙二の3章をみますと、そのような疑問をもった人々がいたことが記されています。新約聖書の439頁です。3章3節からお読みいたします。まず、次のことを知っていなさい。終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、あざけって、こう言います。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。」彼らがそのように言うのは、次のことを認めようとしないからです。すなわち、天は大昔から存在し、地は神の言葉によって水を元として、また水によってできたのですが、当時の世界は、その水によって洪水に押し流されて滅んでしまいました。しかし、現在の天と地とは、火で滅ぼされるために、同じ御言葉によって取っておかれ、不信心な者たちが裁かれて滅ぼされる日まで、そのままにしておかれるのです。

 愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやって来ます。

 ここで、ペトロは、主が来るという約束に不安を覚える人々に対して、「主のもとでは一日は千年のようで、千年は一日のようである」と申します。つまり、主なる神の時間の感覚と私たち人間の時間の感覚は異なることを指摘するのです。そして、もう一つ、主は約束の実現を遅らせているのではなくて、一人も滅びず皆が悔い改めるようにと忍耐しておられるということを指摘しております。イエス様は、私たちを不安にするために、なかなか来てくださらないのではありません。一人も滅びないように、皆が悔い改めるようにと忍耐しておられるのです。そして、ペトロは続けて、主の日は盗人のようにやって来ると語ります。主は忍耐しておられる、そう言いながらペトロは、主の日が盗人のように突然やってくると教えるのです。主は忍耐しておられる。そう語った後にすぐ、主の日は突然やってくると語る。これは、矛盾のようにも思えます。そして、この矛盾は主イエスの教えにまで遡ることができるのです。

 ルカ福音書に戻ります。新約143頁です。

 繰り返しになりますけども、イエス様は17章22節で、弟子たちに「人の子の日を一日だけでもみたいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう」と仰せになりました。人の子の日はまだ先のことであると言われたのです。しかし、18章8節では、「言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」と仰せになるのです。ここでは、人の子の日はすぐに来る、速やかに来ると言われます。そして、矛盾にも思えるこの2つのことが、どちらもイエス様が教える「終末の教え」なのであります。どちらかが間違えているということではありません。どちらも正しいのです。どちらも私たちが忘れてはならない教えなのです。私たちは、人の子の日を将来、到来すると信じつつ、同時に、人の子の日が、突然、速やかに、到来すると信じなくてはならないのです。そして、それが、この地上を信仰をもって歩み続ける私たちに必要な信仰理解なのであります。どちらか一方だけではだめなのです。イエス様が教えられる「人の子の日」は、将来という水平的な視点と、突然、速やかに、という垂直的な視点の両方を持っているのです。もし、将来という水平的な視点だけであるならば、その時を予想して、信仰的に眠り込んでしまうということが起こってしまいます。しかし、突然来るとなれば、眠っていることなどできません。信仰的に絶えず目を覚ましていなければならなくなります。そして逆に、将来という水平的な視点を抜きにして、突然、速やかに、という垂直的な視点だけを強調するならば、日々の生活を腰を据えて営んでいくことができなくなります。それこそ、主の日は近いという理由から、働くことを止めてしまったテサロニケの人々のような過ちを犯すことになるのです。

 ですから、イエス様は、人の子の日はまだ先だと仰せになられたすぐ後に、「神は速やかに裁いてくださる」「人の子は速やかに来る」と仰せになられたのです。それは、人の子が来るとき、地上に信仰を見出したいと願っておられるからです。ここでの「信仰」は、「祈り」と言い換えてもよいと思います。人の子が来る時、果たして地上に祈りを見いだすだろうか。神の義を求める祈りを見いだすだろうか。そう、言い換えることができるのです。なぜならば、信仰と祈りは一つのことであるからです。信仰とは祈ることであるからです。祈りなくして信仰はないのです。私たちは祈ることによって、神様と人格的な交わりを持つことができるのです。祈ることをやめたとき、その人の信仰もやせ衰えてゆくのです。だから、イエス様は、気を落とさず絶えず祈り続けるように教えられたのです。祈ることによって、信仰のともし火を燃やし続けなくてはならない。イエス様が来られるその日まで、教会は信仰の火を燃やし続けなければならないのであります。

 私たちが神様に祈りを献げるということ、それは神様が今も、生きて働いておられることを現しています。私たちは祈ることによって、神様が生きて働いておられることを告白しているのです。私たちがイエス・キリストの御名を通して祈ることもそうであります。私たちは、イエス・キリストの御名によって祈ることによって、イエス様が今も生きておられ、私たちの祈りをとりなしてくださることを告白しているのです。祈りとは、生きておられる神様との人格的な交わりであります。そして、ここに、死者に対して祈ってはならない理由があります。私たちは、死んだ者、力のないものに祈っているのではありません。私たちは、生きておられるお方、力あるお方に祈りを献げているのです。そして、そのお方が、私たちの祈りを待ち望み、喜ばれるゆえに祈ることができるのです。イエス・キリスト御自身が私たちに御言葉と聖霊を与え、祈りの言葉を与えてくださる。そして、気を落とさず絶えず祈り続けるようにと励ましてくださるのです。イエス様は、今朝、私たちにも「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」と問うておられます。その問いに対して、私たちは「見いだすことができます」と答えたいと思います。ここにあなたの義を求める群れがあります。ここに、御国を来たらせたまえ。主イエスよ来てください。そう祈り続ける群れがあります。そう私たちは言えるように、気を落とさず絶えず祈り続けてゆきたいと願います。

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