人の子の日 2005年9月11日(日曜 朝の礼拝)

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人の子の日

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 17章20節~37節

聖句のアイコン聖書の言葉

17:20 ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。
17:21 『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
17:22 それから、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。
17:23 『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない。
17:24 稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。
17:25 しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。
17:26 ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。
17:27 ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。
17:28 ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、
17:29 ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。
17:30 人の子が現れる日にも、同じことが起こる。
17:31 その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。
17:32 ロトの妻のことを思い出しなさい。
17:33 自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。
17:34 言っておくが、その夜一つの寝室に二人の男が寝ていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。
17:35 二人の女が一緒に臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。」
17:36 (†底本に節が欠落 異本訳)畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。
17:37 そこで弟子たちが、「主よ、それはどこで起こるのですか」と言った。イエスは言われた。「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ。」ルカによる福音書 17章20節~37節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、ルカによる福音書17章20節から37節より、「人の子の日」という題でお話しいたします。

 ファリサイ派の人々は、イエス様に、「神の国はいつ来るのか」と尋ねました。「神の国」とは、もう少し正確に言えば「神の王国」であり、「神の王的支配」のことです。イスラエルの神が、全世界の王として振る舞ってくださる。その時はいつ来るのかとファリサイ派の人々は尋ねたのです。旧約聖書を見ますと、イスラエルの神ヤハウェだけが唯一の真の神であると教えられています。そして、イスラエルは、その神から選ばれた宝の民でした。しかしながら、イエス様の時代、イスラエルはローマ帝国の属州となっていました。異邦人に支配されるという屈辱の中にイスラエルの民はいたのです。そのイスラエルの人々が一縷の希望としていたのが、神の国の到来でした。主なる神から遣わされるメシア、救い主によって神の国がもたらされる。その時こそ、かつてのダビデ王国のような繁栄をイスラエルは再び手にすることができる。神の王国が到来する時、神の民イスラエルは救われ、真の神を知らない異邦人は滅ぼされる。そう、人々は信じて、メシアによる神の国の到来を待ち望んでいたのです。

 こう考えてきますと、イエス様の宣教の第一声が「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」であった理由が分かってきます。イエス様は、神の国を待ち望んでいた人々に対して、「神の国は近づいた」「神の国はもう来ている」と宣べ伝え始めたのです。ルカ福音書は、イエス様の宣教をナザレでの説教をもって始めていますけども、内容からすれば同じことです。イエス様は、預言者イザヤの書を朗読した後に、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と仰せになりました。イエス様が読まれたイザヤの預言こそ、メシアの働きを預言するものでした。その預言がイエス様の口から読まれ、人々の耳に入った時、実現したと仰せになられたのです。つまり、イエス様は、御自分こそが、イザヤが預言する救い主であると宣言されたのです。そして、それは、御自分において、神の国が到来したことの宣言でもあったのです。

 洗礼者ヨハネが捕らえられ、使いの者を遣わし「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」と尋ねた時も、イエス様は、イザヤの預言を引用しつつ、こう答えられました。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」

 このように、イエス様の自己認識によれば、御自分が旧約聖書の預言してきたメシアであると考えていたことは明かであります。そして、その自己認識をもって、イエス様は、福音を宣べ伝え、悪霊を追い出し、様々な病いを癒されたのです。

 こう考えて来ますと、このファリサイ派の人々の質問はどこかズレている。かみ合っていない気がします。神の国は、イエス様において到来したのでありますけども、そのイエス様に対して「神の国はいつ来るのか」とファリサイ派の人々は尋ねました。それは彼らが、イエス様において到来した神の国を認めていないからです。あるいは、こうも言えます。ファリサイ派の人々が思い描いていた神の国は、イエス・キリストにおいて到来した神の国とは違っていた。ファリサイ派の人々が思い描いていた神の国、それはイエス・キリストにおいて到来したものと違ったものであった。ファリサイ派の人々、彼らは、おそらく地上的、政治的な神の国を考えていたと思います。神が王となられるとき、神の民であるイスラエルも高く挙げられる。イスラエルが全世界を治めることになる。そして、すべての人々がエルサレム神殿に犠牲を献げにやってくる。そのような光景を想像していたのだと思います。これは、分かりやすいですね。今までローマの属州であったイスラエルが、ローマ帝国を蹴散らして、世界を治めるようになる。そして、すべての人が、エルサレム神殿へと集うようになる。これは、大変分かりやすいと思います。一見して、確かに、神の国が来たということが誰にでもよく分かります。しかし、イエス様は、こう答えられるのです。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものではない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」。

 イエス様は、神の国とは、ある領土、限られた空間を指すものではないと教えられます。ある地域だけを指して、そこを神の国と呼ぶことはできないのです。ここで、「見えるかたちで来ない」と訳されている言葉は、「観察されるような仕方では来ない」とも訳することができます。英語で、「観察する」をオブザーブ、「観察する人」をオブザーバーと言います。会議などで議決権のない人や傍聴人をオブザーバーと申します。会議には、参加していないのですけども、後ろの方で会議の成り行きをじっと見ている。それがオブザーバーです。そのようなオブザーバーの立場に自分の身を置くならば、神の国は見えてこないとイエス様は仰せになるのです。神の国を見ようとするならば、自らを神の支配のもとに置かなくてはならない。神を崇め、その恵みに感謝をささげるとき、神の国に生きている自分を発見するのです。

 私たちは、前回、「重い皮膚病を患っている十人の人をいやす」というお話しを学びました。重い皮膚病を患っていた10人の人が、10人とも同じように癒された。しかし、感謝しに戻って来たのはたった1人であったのです。しかも、それはユダヤ人ではなくて、サマリア人、外国人でありました。ここに、「神の国はあなたがたの間にある」、その実例があります。このサマリア人は、神を崇め、イエス様にひれ伏して感謝をささげたとき、まさしく神の国に生きていたのです。私は先程、神の国とは、「神の王国」であり、「神の王的支配」であると申しました。神の王的支配が及ぶところ、そこが神の王国、神の国であるのです。ですから、神の国は、「ここにある」「あそこにある」と限定できるものではありません。私たちが主イエス・キリストを通し、神を崇めるところに、神の国はあるのです。

 そして、「神の国はあなたがたの間にある」と言われているように、人と人との関係を通して露わにされていくのです。神に愛されている者として、隣人を愛する、そのような仕方で神の国は、私たちの間に現れていく。主にある兄弟姉妹の交わりを通して、神の国はこの地上に現れるのです。

 さて、22節以降は、語りかける対象が変わりまして、弟子たちへの教えが記されています。22節から25節までをお読みします。

 それから、イエスは弟子たちに言われた。「あながたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人人の後を追いかけてもいけない。稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子も現れるからである。しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。」

 弟子たちとは、イエス様を主と信じる者たちです。いわば、イエス・キリストにおいて神の国がすでに到来していることを知っている者たちです。その弟子たちに対して、イエス様は「人の子の日」について教えられたのです。「人の子」という名称についてはダニエル書7章の13節と14節に記されています。旧約聖書の1393頁です。

 夜の幻をなお見ていると、見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み/権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない。

 このところから、世の終わりに現れるメシアを「人の子」と呼ぶようになりました。イエス様は、そのような終末的な完全な裁きが行われる日を「人の子の日」と呼ばれたのです。そして、それはイエス様が、栄光の姿で再び天から来られる日であるのです。

 ルカ福音書に戻ります。新約聖書の143頁です。

 「人の子の日」を理解する上で、助けとなるのは、旧約聖書が何度も預言してきた「主の日」であります。主の日とは、まさしく、主が王となられる日、主が全世界を正しく裁かれる日でありました。旧約聖書の最後の書であるマラキ書は、「主の日」の預言をもって終わっています。ですから、ファリサイ派の人々が、神の国を見えるかたちで待ち望んでいたのも無理はなかったのかも知れません。主の日によって神の国が到来する。こう彼らは考えたのです。しかし、神様のご計画はそうではありませんでした。神の国は、イエス・キリストにおいて、隠れた仕方で到来したのです。ちょうど、神の御子が家畜小屋にお生まれになり、貧しいヨセフの子となられたように、神の国も隠れた仕方で到来したのです。そして、その神の国は、人の子が多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥された後に、完成されるものであるのです。私たちは、今この途上の段階に生きております。神の国は、イエス・キリストにおいてすでに来ている。しかし、いまだ完成していない。この「すでに」と「いまだ」の緊張関係の中に私たちは、生きているのです。つまり、イエス・キリストにおいて到来した神の国は、「すでに」という現在的な側面と「いまだ」という未来的な側面を持っているのです。20節と21節でのファリサイ派の人々との問答は、いわば、神の国の現在的側面を教えています。イエス様は、ここで「神の国はあなたがたの間にある」と仰せになりました。すでに来ているわけですね。そして、22節以降では、神の国がすでに来ていることを認める弟子たちに、神の国の未来的側面を教えられるのです。キリストの再臨によって神の国が完成されることを教えられるのであります。

 およそ2000年前、イエス・キリストは私たちの罪を贖う苦難の僕としておいでになりました。しかし、イエス様が再び来られるその日には、全世界を裁く栄光の人の子としておいでになるのです。いわば、神の国の到来と完成の間には、時間のずれ、歴史があるわけです。イエス・キリストにおいて、神の国は到来した。そのキリストが復活し、天に昇られる。それから聖霊を遣わし、弟子たちを通して全世界に福音を宣べ伝える。そして、神の国を完成させるために、再び天からおいでになる。このように、神の国と到来から、完成までには、聖霊の時代、教会の時代があるのです。しかし、ファリサイ派の人々はそうは思っていなかったわけです。いわば、いっぺんにくると考えていた。神の国の完成体が一気にこの地上に到来すると考えていたのです。そして、ここに、ファリサイ派の人々が「神の国はいつ来るのか」とイエス様に尋ねた理由があるのです。

 神の国は、イエス・キリストにおいて到来し、復活されたイエス様が天から再び来られる、「人の子の日」に完成いたします。そう聞いて、なんだか分かりづらいなぁと思うかも知れません。なぜ、神様は、このような手の込んだ仕方で神の国をもたらされたのか。それは、もし初めからファリサイ派の人々が望んでいたように、救い主が世界の裁き主として来られたならば、誰もその裁きに耐え得なかったからです。もし、初めから栄光のメシアが来られて、神の国を完成させるために、神の義を貫かれたならば、そこに入ることのできる者、正しいとされる者は誰もいなかったのです。ですから、イエス様は、「人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている」と仰せになられたのです。イエス・キリストはまず苦難の僕として、御自分の民の罪を贖わねばならなかったのです。

 「人の子の日」、それは、イエス・キリストを信じる者たちにとって、待ちに待った喜びの日であります。しかし、イエス様は、それを望んでも、見ることはできないだろう、と仰せになります。つまり、人の子の日が来るのは、まだ先の事なのです。そして、イエス様はこう警告されます。「人の子があそこにいる」「人の子がここにいる」と言う者がいても、出て行ってはならないし、追いかけてもならない。なぜなら、人の子は、稲妻が大空の端から端へと輝くように、誰の目にも明かな仕方で現れてくださるからです。イエス様はすでに再臨していて、どこかの町におられるということはありません。そのような誤解をイエス様はここで払拭しておられます。その日、人の子は、誰の目にも明らかな仕方で、全世界的な規模で現れてくださるのです。

 先程、人の子の日は、まだ先の事であると申しましたけども、しかし同時に、「人の子の日」は突然訪れる日でもあります。イエス様は、「人の子の日」を当時の人々がよく知っていたノアの洪水とソドムの滅亡に譬えられます。ノアが箱舟に入る、その日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていました。いわば、日常の暮らしに明け暮れていたのです。しかし、そこに突然、大洪水が襲い、一人残らず滅ぼしてしまう。また、ロトがソドムの町から出て行く日まで、人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていました。しかし、ロトが出て行ったその日、突然、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまうのです。ここで、イエス様は、人々の罪については全く触れておりません。旧約聖書を見ますと、ノアの時代の人々が悪かったとか、ソドムの罪を訴える叫びが天まで届いたとか記されていますけども、イエス様はここで彼らの罪には一切触れていないのです。ただ、彼らが日常生活に埋没している中で、神の裁きは突然襲ったことを教えられるのです。32節のロトの妻への言及は、さらに厳しいものがあります。ロトの妻は、救いへと招かれていた者でした。ロトと一緒にソドムの町から出て行ったわけです。しかし、最後の最後に、地上の富に心を奪われ、ソドムの町を振り返ってしまう。振り返ってはならないと命じられていたのに、彼女は振り返ってしまったのです。そして塩の柱となってしまったのです。

 私たちは、今朝、ウェストミンスター小教理問答を通して、復活されたイエス様が、天に昇り、父なる神の右に座しておられること。終わりの日に、世を裁くために、この地上に来られることを告白しました。そして、私たちは、今朝、ルカ福音書を通して、イエス様が再びこの地上に来られる「人の子の日」に、神の国が完成されることを学んだのであります。イエス様は今も生きて、天におられる。そして再びこの地上に来てくださる。このことを信じることは、真に大切なことであります。なぜなら、イエス様の十字架と復活という過去の出来事だけを信じているならば、将来の「人の子の日」に備えることはできないからです。もちろん、十字架と復活を信じることは、大切であります。しかし、そこで留まっていてはならないのです。十字架と復活の主は、今、天におられ、神の右に座し、やがて全世界の裁き主として来られる。私たちは、ここまで信じなくてはならないのです。そして、絶えず、天におられるイエス・キリストに、私たちの思いを向けなくてはならないのです。

 しかし、私たちは、自らを省みる時、果たしてそのような信仰に生きているでしょうか。むしろ、ノアの時代やロトの時代の人々と同じように、日常に埋没しているのではないでしょうか。神様のことを忘れて、食べたり飲んだりしているのではないでしょうか。もし、そうであるならば、私たちは使徒パウロの言葉に耳を傾けるべきであります。使徒パウロは、「あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」と語りました。それは、何をするにしても、神の御前に生きていることを忘れるな、ということでしょう。何をするにしても、自分が神の御前に生かされている。このことを忘れないならば、私たちは日常においても、「人の子の日」に備えることができるのであります。たとえ、いつイエス様が来られたとしても、地上の富を手放し、主に自らをゆだねる、その信仰に生きることができるのです。

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