神をあがめる信仰 2005年9月04日(日曜 朝の礼拝)

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神をあがめる信仰

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 17章11節~19節

聖句のアイコン聖書の言葉

17:11 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。
17:12 ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、
17:13 声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。
17:14 イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。
17:15 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。
17:16 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。
17:17 そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。
17:18 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」
17:19 それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」ルカによる福音書 17章11節~19節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、ルカによる福音書17章11節から19節より、「神をあがめる信仰」という題でお話しいたします。

 イエス様は、エルサレムへと上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られました。サマリア地方とガリラヤ地方のちょうど境目を通られたのです。ある村に入ると、重い皮膚病を患った十人の男たちがイエス様を出迎えました。十人と言いますから、小さな集団であります。なぜ、ここに重い皮膚病を患った人が10人もいたのか。たまたま、そこに居合わせただけであったのか。それとも、この10人は、いつも一緒であったのか。私は、おそらく後者であろうと思います。つまり、この10人は、いつも一緒に行動していた、生活を共にしていた者たちであったのです。そもそも、この重い皮膚病とは、どのような病であったのか。レビ記の13章を見ますと、その症状が記されています。そのところを今朝お読みすることはできませんが、一言で言えば、重い皮膚病とは、「患部の毛が白くなっており、症状が皮下組織に深く及んでいる」状態を言います。そして、重い皮膚病は、病というだけではなく、宗教的な「汚れ」と考えられていました。祭司から「汚れている」と言い渡された者は、聖所に集うことができなくなる。人々と共に神様を礼拝することができなくなる。そればかりか、イスラエルの共同体からも追放されてしまうのです。重い皮膚病を患った人がどのような境遇に置かれたのか。レビ記の13章45節、46節にはこう記されています。

 重い皮膚病にかかっている患者は、衣服をさき、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は一人で宿営の外に住まなければならない。

 重い皮膚病を患っている者は、宿営の外に住まなければならない。家族からも、イスラエル共同体からも離れて生活をしなければならなかったのです。そうすると、どういうことが起こってくるのか。やがて、村のはずれには、重い皮膚病を患った人々の集落ができたのです。重い皮膚病を患った者同士が、励まし合って生きる群れが、村はずれに生まれたのです。そして、彼らは、道端に立ち、通り行く人に施しを求めたのです。今朝の御言葉にあるように、遠くの方に立ち、声を張り上げて「わたしたちを憐れんでください」と施しを求めたのです。

 「重い皮膚病」、これは以前は「ライ病」と訳されていました。1997年より前に出版された聖書は、「ライ病」と訳しています。なぜ、翻訳が変わったのか。その大きな理由として次の二つがあります。1つは、聖書が記す皮膚病が、現在のライ病、ハンセン病とは必ずしも同一視できないことが分かってきたこと。そして、もう1つは、1996年にライ予防法が廃止され、ハンセン病への社会的関心が高まったことであります。確かに、聖書が記す皮膚病は、ハンセン病とは同一視できない、もっと幅の広い皮膚病を指していると考えられます。しかし、その病を担った者が、どのような扱いを受けてきたかは、大変似ているのであります。今朝のお話を準備するにあたって、私は1冊の書物を読みました。小峯書店から出ている「慟哭の歌人-明石海人(あかし かいじん)とその周辺-」という本であります。いわゆるライ文学と呼ばれるものです。そこには明石海人さんが、ハンセン病を発病するまで、また発病してからの療養所での生活が記されております。以前もお話ししましたが、ハンセン病患者のお世話を始めたのは、クリスチャンたちでありました。また、はじめて療養所を作ったのもクリスチャンたちでありました。ですから、どの療養所の敷地内にも、キリストの教会が建てられています。そして、多くの方が、イエス様を信じる者とされたのです。明石海人さんもあるクリスチャンの女性の献身的な奉仕に感銘を受け、やがて信仰へと導かれます。そして、生涯、俳句や短歌といった多くの歌を作り続けたのであります。この本を読んで私が改めて怖ろしく感じたことは、この病が突然、発病するということです。明石海人さんは、25歳の時に発病いたしました。お風呂に入ると大きな赤い斑点が出てくる。しかし、それはしばらくすると消えてしまう。たいしたことはないと放っておくが、気になるのでお医者に行くと、ハンセン病と診断されたのです。その時の驚きと言ったらありません。まさに目の前が真っ暗となる。仕事をやめ、妻と2人の娘を置いて、独り見知らぬ土地へと赴く、その不安、その悲しみは察して余りあるものがあります。それと同じ悲しみを、重い皮膚病を患った10人も知っていたはずであります。彼らも家族との絆、社会との絆を断ち切られた者たちであったのです。

 重い皮膚病を患った10人の者たち、彼らは、村に入ってきた男がイエス様であることを認めました。彼らは、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と叫んだのです。私たちは、以前、5章でイエス様が重い皮膚病を患っている人を癒されたことを学びました。おそらく、イエス様が重い皮膚病をお癒しになられた、そのうわさは広まっていたのありましょう。イエス様は、重い皮膚病を癒すことがおできになる。そのうわさを、この10人も聞いていたのです。ですから、彼らは、普段以上に、声を張り上げたと思います。汚れた者は、人に近づいたり、人に触れてはなりませんでした。ですから、彼らは遠くに立ったまま、声を張り上げたのです。

 「わたしたちを憐れんでください」。この言葉は元来、道行く人に施しを求める言葉でした。しかし、イエス様は、重い皮膚病を患っている人たちを見て、彼らが最も必要としているものをお与えになるのです。イエス様は、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われます。レビ記の14章には、祭司のもとに行き、清めの儀式を受けて、そこで初めて「清いもの」と宣言され、社会に復帰することができると記されています。その清めの儀式を受けるために、祭司のところに行きなさいとイエス様は仰せになるのです。しかし、ここで注意しておきたいことは、この時まだ、彼らは重い皮膚病を患ったままであるということです。イエス様は癒した後に、祭司のところへ行きなさいと仰せになられたのではありません。むしろ、重い皮膚病のままで、祭司のところへ行けと仰せになるのです。これを聞いて、私たちは、どう思うでしょうか。理屈からすれば、おかしな事です。癒されてから祭司のところに行くなら分かる。しかし、癒されてもいないのに、祭司のところに行けとは一体どういうことか。そう考えることもできます。しかし、彼らは、自分たちの理屈よりも、ただイエス様の言葉を信じたのです。ただイエス様の言葉にすがったのです。そして、彼らは、祭司のもとへと向かう途上で癒されたのでした。

 さて、その中の一人は、自分が癒されたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来ます。そして、イエス様の足もとにひれ伏し感謝したのです。この人は、サマリア人でありました。サマリア人とユダヤ人は、犬猿の仲、いわば敵対関係にありました。ヨハネによる福音書の4章を見ますと、ユダヤ人とサマリア人は交際しなかったと記されています。サマリア人とは、イスラエル10部族と異邦人の混血の民でありまして、ユダヤ人からすれば異邦人同然であったのです。そして、その宗教も異端のように考えられていたのです。そのサマリア人だけが、戻ってきてイエス様の足もとにひれ伏し感謝を献げたのです。

 そこで、イエス様はこう仰せになります。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか」。

 このイエス様の言葉から1人だけが清くされたのではない。10人とも清くされたことが確かめられます。十人とも、癒しされたのです。ですから、イエス様は「ほかの九人はどこにいるのか」と尋ねられるのです。

 重い皮膚病を患っていた十人、おそらく彼らは癒される以前、ユダヤ人とかサマリア人といった民族の違いを意識していなかったと思います。共に重い皮膚病という苦難を負う者として、仲間意識をもって励まし合いながら生活をしていたのです。そして実際に、共に声を張り上げてイエス様に憐れみを乞うたのです。しかし、ここで考えられることは、その病が癒されたとき、再び、民族の違いを意識するようになったのではないかということであります。なぜ、10人とも清くされたにもかかわらず、サマリア人だけが感謝しに戻って来たのか。それは、10人が、ユダヤ人とサマリア人という民族の違いを再び意識するようになったからであると考えられるのです。ユダヤ人からしてみれば、サマリア人は神の民ではありません。ですから、本来ならば挨拶も交わさない、そういう間柄でありました。しかし、重い皮膚病という同じ苦難を負って、民族の違いなどそこでは何の意味も持たなくなった。しかし、癒された今、ユダヤ人としての、神の民として優越感が甦ってきた、そう推測できるのです。それは、神の民である自分たちは癒されて当然であるという思いであります。選びの民である自分たちが、メシアに癒していただけるのは当然のことだ。その選民意識が甦ったと考えられるのです。

 あるいは、一刻も早く祭司に体を見せ、社会に復帰したい。家族と生活を共にしたいと思ったのかも知れません。けれども、そのような思いならば、帰ってきたサマリア人も持っていたことでありましょう。しかし、このサマリア人は、社会復帰や家族に出会うことに先立ってしなければならいないことがあると考えたのです。それは神をあがめること、イエス様に感謝をささげることでありました。清めの期間は、8日間でありました。8日も経ってしまえば、もうイエス様がどこにいったか分からなくなってしまいます。イエス様に感謝を申し上げるのは、今しかないのです。また、以前は、重い皮膚病を患っていたゆえに、イエス様に近づくことはできませんでした。けれども、今は、清められ、イエス様の足下にひれ伏すことができるのです。このサマリア人は、何よりもイエス様にひれ伏す、イエス様を礼拝することを優先したのです。

 サマリア人は、大声で神を賛美しながら帰って来ました。しかし、残りの9人のユダヤ人は帰って来なかった。帰って来た者と帰って来なかった者、その二つを分けたものは何か。それは「感謝する心」であります。「感謝する心」が10人を二つに分けたのです。15節に「その中の一人は、自分がいやされたのを知って」と記されています。ここで「知って」と訳されている言葉は、直訳すると「見て」となります。彼は、自分の手や体が癒されるのを見たのです。そして、彼はそこに神の恵みを見たのです。しかし、残念ながら、ほかの9人には、癒されたことは見ても、そこに神の恵みを見ることはできなかったのです。自分たちは、ユダヤ人である、神の民であるという特権意識のゆえに、同じ恵みを受けていながら、それを恵みとして見ることができなかったのです。

 このことを、私たちに置き換えるならば、真の神様を信じていない人は感謝しに戻ってきたが、クリスチャンは感謝しに戻って来なかったという話になると思います。同じ恵みを受けても、私はクリスチャンだから、イエス様を信じる者だから当然だ、そう考えてしまう危険が私たちにもあるのです。ここで「感謝する」と訳されるギリシャ語は「ユーカリストー」という言葉です。この言葉の元々の意味は、「正しく恵みを覚える」という意味です。正しく恵みを覚える、そのところに感謝の心が生まれてくるのです。恵みを恵みとして受け取るところに、感謝の心が生まれてくるのです。もし、恵みを当然なものと考えるならば、そこに感謝の心は生まれません。そして、ここに、9人のユダヤ人が戻ってこなかった理由があるのです。私たちも祈りの生活の中で、願い事は熱心に祈るが、日々の恵みに感謝をささげることが少ない者たちではないでしょうか。そのことをイエス様はどれほど寂しく思っておられことでありましょう。

 イエス様は、御自分の足もとにひれ伏す人に言われます。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

 イエス様に出会った10人、彼らは全員、重い皮膚病を癒していただきました。しかし、イエス様に「あなたの信仰があなたを救った」と言っていただけたのは帰って来たサマリア人だけであったのです。ですから、ここでの「救い」は、病の癒し以上のものであります。イエス様は、ここで病の癒しに留まらない、永遠の命を宣言されたのです。

 私たちは、このサマリア人のように感謝に溢れて礼拝へと集っているでしょうか。主の恵みに感謝しつつ礼拝へと集っているか。神の恵みに感謝することを忘れて、いつの間にか、それを当然のことと考えてはいないか。もしそうであるならば、私たちはこのサマリア人と同じ、外国人であった。神の救いと関わりのない者であったことを思い起こさねばなりません。私たちがイエス・キリストを信じることができたのは、私たちが何か優れているからではありません。ただ神の一方的な恵みによって、私たちはイエス・キリストに信じる者とされたのです。自分がいかに小さな者であるか。そのことを正しく知る時、私たちを取り巻く神の恵みが見えてくるのです。そして、主イエスを通して、神に感謝をささげることができるのです。そのとき、イエス様は「立ち上がって、行きなさい」と仰せになります。ひれ伏したままでいるのではない。主イエスが立ち上がらせてくださる。たとえ、それが暗闇と言える絶望であっても、主は私たちを立ち上がらせ、新しい週の歩みへと送り出してくださるのです。そして、ただ主イエスの恵みに感謝することしかできない私たちに、永遠の救いを宣言してくださるのです。私は、イエス様を信じている。だから、信じていない人よりも、神の恵みをいただいて当然だ。そんなところに、本当の信仰などありません。ただ、主の恵みを見つめ、感謝をささげるところに、イエス・キリストを信じる信仰もあるのです。主イエスへの感謝から、神をあがめる。そのような信仰に生きる者たちでありたいと心から願います。

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