取るに足りない僕 2005年8月28日(日曜 朝の礼拝)

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取るに足りない僕

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 17章1節~10節

聖句のアイコン聖書の言葉

17:1 イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。
17:2 そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。
17:3 あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。
17:4 一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
17:5 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、
17:6 主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
17:7 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。
17:8 むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。
17:9 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。
17:10 あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」ルカによる福音書 17章1節~10節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、17章1節から10節より、「取るに足りない僕」という題でお話しします。

 イエス様は弟子たちにこう仰せになりました。「つまずきは避けられない。だがそれをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けて、海に投げ込まれてしまう方がましである。あなたがたも気をつけなさい」。

 「つまずき」と訳されている言葉の元々の意味は「わな」という意味であります。動物を捕らえるために仕掛けられる「わな」であります。そこから、人を倒れさせるもの、「つまずき」と訳されるようになったのです。イエス・キリストに従って歩んでいる者をつまずかせて、倒してしまう。そして、キリストから離れさせてしまう。それが「つまずき」であります。イエス様がここで仰せになっていることは、とても現実的なことであります。イエス様はつまずきが避けられないこと。しかも、そのつまずきが兄弟姉妹の中から出てくることを警告されました。教会の使命、それは神の民をイエス・キリストの下に一つに集めることです。しかし、教会は、集められた神の民をキリストのもとから散らしてしまう危険を持っているのです。5節を見ますと、「使徒たちが」とあります。1節では、「弟子たち」であったのに、なぜ5節では「使徒たち」となっているのか。それは、今朝の教えが特に、教会指導者、今で言えば、牧師、長老、執事といった教会役員に求められることであるからです。牧師、長老、執事、これらの教会役員は、信徒の模範となるべき者たちであります。その模範となるべき者たちがキリスト者らしからぬ振る舞いをする。その時、小さな者、信仰に入って間もない者たちがつまずく危険が生じるのです。もちろんここでイエス様は、教会役員だけではなくて、全ての弟子たちに、全ての信徒たちに、「つまずき」とならないようにと警告されます。そして、「つまずき」をもたらす人は不幸であると仰せになるのです。ここで、イエス様が求めておられることは、「小さな者」への配慮であります。教会の言葉に「牧会」という言葉があります。この牧会という言葉をドイツでは「魂の配慮」と言います。「魂の配慮」が「牧会」なのです。そして、この牧会という働きは、何も牧師だけに求められている働きではありません。プロテスタントの教会は、万人祭司ということを主張します。万人祭司、すべての人が祭司である。そうであるならば、全ての人が他人の魂に配慮を払うべきであるのです。これが「相互牧会」と言われるものであります。互いに挨拶して、安否を尋ね合う。挨拶されるのを待つのではなく、自分の方から相手に声をかける。これも一つの相互牧会、「魂の配慮」であるのです。

 続いてイエス様はこう仰せになります。「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい」。

 ここでは、兄弟姉妹の罪、つまり他人が犯す罪についてどのように対応すればよいかが教えられています。まず、私たちに求められていることは、兄弟姉妹の罪を、見て見ぬふりをするのではなくて、戒めることです。罪を罪として指摘することであります。よく、「大人になると誰も叱ってくれない」と言います。子供のうちは叱ってくれても、大人になるにつれて誰も叱ってくれなくなる。叱る方もいい気分はしません。また、叱られる方もいい気分はしません。ですから、あえて叱ろうとはしないのだと思います。あるいは、いい大人になってから叱ったところでもう生き方を変えることは難しいだろう、そう諦めて叱らないのかも知れません。しかし、イエス様は、「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい、叱りなさい」と命じられるのです。それはその人を断罪して、追いつめて、教会の交わりから追放するためではありません。むしろ、その人を悔い改めへと導くためであります。悔い改めるならばその人を赦す、その寛容な心、愛をもって戒めることがここで命じられているのです。さらにイエス様はこう仰せになります。「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」

 七という数字は、ユダヤでは完全数です。ですから、「一日に七回」とは「一日に何度でも」という意味です。イエス様は、兄弟があなたに対して一日に何度も罪を犯しても、その度に悔い改めるのであれば、赦してあげなさいと命じられるのです。日本のことわざに、「仏の顔も三度」ということわざがあります。「仏の顔も三度」。その意味は、「どんなに情け深くやさしい人でも、度重なるひどい仕打ちを受けると、しまいには怒り出す」という意味です。私たちも1度の過ちを赦すことはできるかも知れません。しかし、それが2度、3度となると赦せるかどうか怪しくなってきます。7度となれば、とうてい赦せないのでなないでしょうか。もう、知らないと愛想を尽かして、関係を絶ってしまう。それが、私たちの姿ではないかと思います。そして、それは使徒たちも同じであったのです。使徒たちは、イエス様が命じられたことは大変難しいと理解しました。ですから、彼らは「わたしどもの信仰を増してください」と願わずにはおれなかったのです。今の自分たちの信仰では不可能である。だからもっと大きな信仰を与えてくださいと使徒たちは願ったのです。しかし、主はこう仰せになります。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」。

 「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば」。この言葉は、2通りの解釈ができます。1つは、事実に反する状況を表すという解釈です。例えば、「もし私があなたなら」というものです。私があなたになることはできないわけですから、事実に反する状況を表しています。この場合、弟子たちには、からし種一粒ほどの信仰もないことになります。そして、もう一つの解釈は、事実にあった状況を表すという解釈です。例えば、「もし私が男なら」というものです。私は男であるわけですから、事実にあった状況を言い表すことになります。この場合、弟子たちは信仰をもっていることになります。私としては後者の解釈を取りたいと思います。つまり、イエス様は、「信仰を増してください」と願う弟子たちに、今の信仰で十分であると励まされるのです。「桑の木」は、最も根が深い木です。よって、その桑の木に抜け出すよう命じるのは、最も困難なことです。また、木が海に植わることなどあり得ないことです。そんなことをしたら、木は腐ってしまいますから木が海に植わることはあり得ない。ですから、桑の木に『抜け出して海に根を下ろせ』という命令は二重の困難を含んでいるのです。そして、それと同じくらい困難ことは、「兄弟の罪を七度赦す」ということなのです。けれども、イエス様は、からし種一粒ほどの信仰を持っているならば、そして、事実あなたがたはその信仰を持っているのだから、それができるはずだと励まされるのです。

 イエス様は、御自分を信じる一粒の信仰があるならば、兄弟の罪を七度赦すことができると教えられ、弟子たちを励まされました。しかし、だからといって、兄弟を赦すことが、その人の功績となるわけではありません。また、赦すという行為によって兄弟に大きな貸しを作ることになるのでもありません。7節以下の「主人と僕」の譬えはそのことを教えています。「あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」。

 イエス様は、この譬えを「あなたがたが僕をもっていたら」と語り出します。当時は、奴隷制度があり、イスラエルにも、主人に身売りをした奴隷、僕がおりました。その僕が畑から帰って来たとき、「すぐ来て食事の席に着きなさい」とは誰も言わない。むしろ「夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい」と言います。これは当然のことでありますね。奴隷が主人に仕えることは当たり前のことです。ですから、主人が命じたことを僕が果たしたからといって、主人は僕に感謝するものではありません。これを聞いて弟子たちも、まったくその通りだと思ったことでしょう。しかし、イエス様は仰せになるのです。あなたがたが、その僕なのだと。主イエスの弟子となること。それはイエス・キリストの奴隷、イエス・キリストの僕となることなのです。ですから、イエス様は弟子たちにこう教えられるのです。「あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」。

 ここで、イエス様が教えておられることは、どのような奉仕であっても、それが功績とはならない。神様からの報いを要求する根拠にはならないということです。このイエス様の御言葉には、ファリサイ派の人々への非難が込められています。なぜなら、ファリサイ派の人々は、神様との関係を帳簿をつけて商取引をするように考えていたからです。神の掟に従えば、貸し方、プラスが増えて行く。しかし、神の掟に背けば、借り方、マイナスが増えていく。そして、最後の審判という総決算の時、少しでも貸し方、プラスが多ければ、神に正しい者としていただける。こうファリサイ派の人々は考えていました。そして、その時、神の救いは恵みではなくて、当然支払われるべき報酬となるのです。ここに、主なる神から感謝を求める誤り、自分の奉仕を誇る誤りがあるのです。しかし、イエス様は、神様に報酬を要求できるような奉仕は何一つないこと教えられたのです。

 「わたしは取るに足りない僕です」。これは、果たすべきことを果たし終えた僕の謙遜の言葉であります。この僕は、主人の言いつけを果たしたからといって、感謝や報酬を求めてはいません。なぜなら、この僕は主人に仕えることに満足しているからです。この僕は主人に感謝と喜びをもって心から仕えているからです。そもそも、この僕は、どのようにして主人に仕える者となったのでしょうか。もしかしたら、この僕は以前は他の主人に仕えていたのかも知れません。前の主人のもとでは、ひどく鞭打たれ、食事も満足に与えられなかった。しかし、今は、親切な主人に買い取られて仕えているとしたらどうでしょうか。おそらく、この僕は一生懸命、主人に仕えると思います。もちろん、今申したことは、私の想像に過ぎません。けれども、私たち自身のことを考えてみるならば、私たちは主イエスの僕となる前、確かに悪い主人に仕える僕であったのです。その悪い主人とは罪であります。聖書は、全ての人が生まれながらに罪の奴隷であること。罪の支払う報酬は死であることを教えています。罪という主人にいくら仕えても、その報酬は死であったのです。そこには何の希望もなかったのです。しかし、イエス・キリストは、そのような私たちを、御自身の命をもって贖ってくださいました。私たちが、役に立つしもべであったからではありません。ただ、神様の一方的な恵みによって、私たちを罪の奴隷から神の奴隷へと贖ってくださったのです。そして、私たちの働きがつたないものであっても、たとえ果たすべきことを果たすことができなかったとしても、神は賜物として、イエス・キリストにある永遠の命を与えてくださるのです。

 使徒パウロは、ローマの信徒への手紙をこう書き始めました。「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロ」。パウロは、ローマの教会に対して、「自分はキリスト・イエスの奴隷である」と自己紹介したのです。この言葉をパウロはどのような気持ちで記したのでしょうか。私はおそらく、誇りをもって、喜びにあふれて記したと思います。わたしはキリストの僕である。パウロはこのことをどれほど嬉しく思っていたことでしょうか。私たちは今朝、自分がキリストの僕とされていること。そのためにキリストがどれほどの犠牲を払ってくださったかを思い起こしたいと思います。その神様の恵みを正しく知るとき、私たちは自らを神の御前に誇る、その誤りから解放されるのです。そして、何の見返りも期待せずに、感謝と喜びをもって主のご用に励むことができるのです。また、主イエスがどれほどの犠牲を払われたのかに思いを向ける時、「つまずきをもたらす者は不幸だ」という御言葉の本当の意味が分かるのです。なぜ、小さな者の一人をつまずかせるよりも、ひき臼を首に懸けられて海に投げ込まれた方がましであるのか。それは、その小さな者のためにも、イエス・キリストが死んでくださったからです。イエス様は、その小さな者のためにも貴い血潮を流してくださいました。だから、私たちは誰もつまずかせてはならないのです。

 また、なぜ私たちは一日に七度兄弟の罪を赦さねばならないのか。それのことも、神の恵みに思いを向ける時、分かってきます。それは、私たちに先立って、神様が私たちの罪を何度でも赦してくださるからです。私たちは、イエス・キリストにあって罪を赦された罪人として、悔い改める兄弟姉妹を何度でも赦さねばならないのです。ここに集う者たちは、イエス・キリストによって贖い出されたキリストの僕であります。そのことを忘れることなく、互いの魂に配慮し合い、主なる神に喜んで仕えていきたいと願います。

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