イエスの弟子となるために 2005年6月26日(日曜 朝の礼拝)

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イエスの弟子となるために

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 14章25節~35節

聖句のアイコン聖書の言葉

14:25 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。
14:26 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。
14:27 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。
14:28 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。
14:29 そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、
14:30 『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。
14:31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。
14:32 もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。
14:33 だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」
14:34 「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。
14:35 畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」ルカによる福音書 14章25節~35節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝の御言葉の前には、「大宴会のたとえ」が語られています。そこには、誰彼構わずに人を招き、宴会の席を一杯にしようとする主人の姿が描かれていました。新共同訳聖書は、24節までを二重カッコで囲み、たとえ話の主人の言葉と理解していますけども、むしろ24節は、イエス様御自身の御言葉として読むことができます。そうすると、イエス様は24節の「言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない」という御言葉により、御自分こそが、その主人であることを明らかにされたと読むことができるのです。こう考えてきますと、前の御言葉と今朝の御言葉との繋がりが見えてきます。25節を見れば、大勢の群衆がイエス様と歩みを共にしていました。この群衆は、前回の譬えで言えば、家に招き入れられた人々です。その群衆に対して、イエス様は、弟子となるための覚悟を求められるのです。

 群衆とは、イエス様に興味本位でついて来た人々を言います。自分本位にイエス様のことを評価し、調子がいい時はついて行くけども、調子が悪くなればイエス様のもとを去っていく。それが群衆であります。その群衆がイエス様と一緒について来たのです。彼らは、イエス様を、この方こそ、聖書が預言するメシアであると期待していたのかも知れません。けれども、それは極めて楽観的な期待でありました。イエス様が、エルサレムへと進む。そして、イスラエルの王として君臨してくださり、ローマ帝国の支配から自分たちを解放してくださる。このような楽観的な期待を持っていたのだと思います。あるいは、よく分からずに、ただイエス様について行けば、御利益にあずかれるかも知れないと軽い思いでついて来た人もいたかも知れません。そのようは群衆に対して、イエス様はこう仰せになるのです。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」。

 十戒の第五戒に、「あなたの父母を敬え」とあります。そしてこの戒めは、旧新約聖書を貫く、共通の教えであります(エフェソ6:1-4参照)。テモテの手紙一の5章8節には、このようにさえ記されています。「自分の親族、特に家族の世話をしない者がいれば、その者は信仰を捨てたことになり、信者でない人にも劣っています」。ですから、ここでイエス様が「あなたの父母を敬え」という掟に反対されているとは考えられません。むしろ、ここで問題とされていることは、イエス様と他のものとの二者択一、究極的な選択なのです。なぜなら、ユダヤ人の言い回しにおいて、「憎む」とは、「より少なく愛する」という意味であるからです(マタイ10:37-38参照)。つまり、イエス様が求めておられることは、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹よりも、更には自分の命よりも、イエス様を愛することなのです。父、母、妻、子供、兄弟、姉妹、ここに夫を加えてもよいと思いますが、これらは最も親密な人間関係であり、私たちが最も愛情を注ぐ人々であります。まして、自分の命と言われれば、これ以上大切なものはないと誰もが考えるものであります。けれども、イエス様の弟子となるためには、その自分の命よりもイエス様を愛さなくてはならないのです。誤解のないように申しますけども、ここでイエス様は、家族や自分の命などどうでもよいと教えているのではありません。ユダヤ人の言い回しにおいて「憎む」とは「より少なく愛する」という意味であります。ここで、イエス様が求めておられることは、最も親しい人間関係よりも、更には自分の命よりも、イエス様を愛するということなのです。

 さらに、イエス様はこう仰せになります。「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」。

 「十字架を背負って従う」。この言葉は9章23節にも記されていました。弟子たちを代表して、ペトロがイエス様を「神からのメシアです」と言い表す。すると、イエス様は、このことを誰にも話さないようにと戒め、御自分がどのようなメシアであるのかを教えられたのです。それは「必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥され、殺され、三日目に復活する」というメシアの姿でありました。そしてイエス様は弟子たちに「日々自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」と命じられるのです。「十字架を背負って従う」。それが今朝の御言葉でも、弟子となる条件として求められているのです。十字架の刑は、ローマ帝国の極刑として、最も残酷な処刑方法として有名でありました。十字架刑に処せられた者は、処刑場まで、自分がはりつけにされる十字架の横木を背負わされたと言います。そのような光景をおそらく多くの人々が目にしていたはずです。そのような群衆にとって、このイエス様の御言葉は衝撃でありました。よく分からないけど、イエス様について行けば、御利益にあずかれるかもしれない、そのような軽い気持ちでついて来た人たちは、面食らったことでしょう。初代教会において、「十字架を負う」とは、死をもいとわない覚悟を持って、イエス様のために苦しみを引き受けることを意味していました。イエス様がお受けになる苦しみ、嘲り。それを自分の苦しみ、嘲りとして引き受ける。その覚悟がなければ、誰であってもわたしの弟子となることはできない。そうイエス様は仰せになるのです。 

 28節以下には、2つの譬えが記されています。それは塔を建てようとする人と戦いに赴こうとする王の譬えであります。この2つの譬えに共通していることは、「腰をすえて計算しないだろうか」「腰をすえて考えてみないだろうか」という、物事に取りかかる前の熟慮であります。十分な費用もないのに塔を建て始める人はおりません。もし、十分な費用もないのに塔を建て始めるならば、「あの人は建て始めたが、完成することはできなかった」と人々から嘲られてしまいます。また、どんな王でも、相手が二万の兵を率いて進軍してくることが分かれば、自分の一万の兵で迎え撃つことができるか。勝利することができるかを腰をすえて考えるはずです。そして、勝つ見込みがないと判断すれば、即座に和を求めるのであります。この2つの譬えの状況というものは、大きく異なっております。けれども、どちらの譬えも、事をはじめる前に熟慮する。腰をすえて考える。その大切さを教えているのです。この譬えを受けてイエス様はこう仰せになります。「だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」。

 この繋がりは少し分かりづらいと思います。イエス様は、先に、「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」と仰せになりました。また、「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」と仰せになったのです。これは、イエス様が弟子に求める条件であります。イエス様の弟子、キリスト者となりたいのであれば、そのような覚悟をせよということであります。わたしが、あなたがたに求める覚悟を、腰をすえて考えて欲しい。そうイエス様は仰せになるのです。イエス様が弟子に求められる覚悟を、腰をすえて考えずに、弟子になろうとするならば、信仰生活を全うできない危険があるのです。私たちの教派ではいたしませんけども、ある教派ですと、伝道礼拝の後に、イエス様を信じる決心をした人を募る、ということがあるそうです。伝道礼拝が終わって、「それでは今日、イエス様を信じる決心を与えられた人がいたら前に出てきて下さい」と呼びかける。礼拝の後で、気持ちが高ぶっているということもあってか、そこで何人かの人が手をあげる。しかし、そのほとんどが、やがて教会に来なくなってしまう、というのです。なぜ、そのようなことが起こるのでしょうか。それは、その人たちがキリストの弟子となることを、腰をすえて考えなかったからです。イエス様が今朝の御言葉を語られている状況も同じような状況であったかも知れません。イエス様の教えを聞いて、その奇跡を目の当たりにして、大勢の群衆が集まってきた。その中には、自分はもうイエス様の弟子だと思っていた者もいたかも知れません。けれども、イエス様はそのような群衆に、一時の感情ではない。腰をすえて考え抜かれた、覚悟を伴う信仰を求められるのです。

 このイエス様の教えは、いま既に、弟子として歩んでいる私たちにも鋭く迫ってきます。なぜなら、家族や自分の命よりもイエス様を愛するという決断は、一度限りのものではなくて、生涯求められるものであるからです。洗礼を受けた時、信仰告白をした時はイエス様が一番であった。けれども、今は、自分の妻が一番、あるいは、自分の夫が一番。そういうことでは、キリストの弟子であるとは言えないのです。この世の財産であれ、親しい人間関係であれ、更には自分の命さえも、捨てないならば、あなたがたの誰一人としてわたしの弟子ではありえない。そうイエス様は仰せになるのです。誤解のないように申しますけども、ここでイエス様は、無一文になれとか、人間関係を捨てて隠遁生活をせよと言っているのではありません。そうではなくて、この世の財産、人間関係、自分の命が、イエス・キリストと私たちとの間を引き裂こうとするならば、私たちはそれを捨てなければならないのです。例えば、私たちが地上の財産に心奪われて、礼拝生活がおろそかになるならば、その財産を捨てる、諦めることが求められるのです。あるいは、親しい人から「教会に行くな」と言われる。「わたしと教会のどちらが大切なのか」と言われることがあるかも知れません。これは大変辛いことであります。けれども、その時、私たちは、その親しい人ではなくて、イエス・キリストを選び取るべきなのです。そうでなければ、私たちが歩み始めたキリストの弟子としての生活を全うすることはできないのです。キリスト者であると言いながら、この世の富や、人間関係、あるいは自分自身をイエス様よりも愛するならば、それは塩気を無くした塩と同じなのです。イエス様は、34節以下でこう教えています。「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味付けられようか。畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい」。

 塩から塩気がなくなるとは、現代の私たちには奇妙なことに聞こえます。しかし、当時は、死海、塩の海から塩を作っており、そこには様々な化学物質が混合していたために、塩の風味がなくなる。塩から塩気がなくなるということがあったそうです。よって、当時の人々は、塩気が無くなった塩が、何の役にも立たないことを良く知っていました。ここでの塩とは、キリストの弟子、キリスト者のことであります。塩が塩気が失うように、キリストの弟子がその弟子らしさを失うということがあるのです。それでは、キリストの弟子らしさとは一体何でしょうか。それは、何よりもキリストを愛し、このお方の御心を第一として歩むということです。もし、私たちが、キリストよりも、この世の財産や人間関係、更には自分自身を優先するのであれば、それはもはや塩気を失った塩と同じであるのです。洗礼を受けた。かつて教会に行っていた。そのように主張したとしても、来る終末の裁きにおいて、神の国の外へと投げ捨てられてしまうのです。イエス様は、ここで、私たちが、キリストの弟子らしさを失うことがないようにと警告しておられるのです。

 さて、今朝の御言葉には、「わたしの弟子ではありえない」というイエス様の言葉が3度記されておりました。ですから、どうしても厳しい印象を受けるのだと思います。もし、イエス様が、ただの人であるならば、この要求は過大であり、正気の沙汰とは思えません。けれども、聖書は、イエス・キリストが、神の御子、神その方であることを教えています。今朝の御言葉を正しく聞き取るためには、イエス・キリストが神の御子であり、全てのものの創造主であり、所有者であることを正しく認識しなければなりません。確かに、神は十戒の第五戒で、「あなたの父母を敬え」と命じられました。しかし、それはその戒めを与えられた神よりも父母を敬えということではありません。むしろ、子が父母を敬わなければならないのは、父母が神によって立てられた権威であるからです。また、父、母、夫、妻、子供、兄弟、姉妹、さらには自分の命を愛することは神の御意志に適っておりますけども、もし、それらを神様よりも愛するのであればそれは正しいこととは言えないのです。ですから、神の御子であるイエス様が、弟子たちに何よりも御自分を愛するようにと求められたことはむしろ当然であるのです。全てのものは神によって創造され、神によって存在しています。両親も伴侶も子供も兄弟姉妹も、すべては神がお造りになり、私たちに賜ったものなのです。そして、私たち自身も、神が母の胎の中で組み立ててくださったものなのです。

 今朝の御言葉を読む時、おそらく多くの方が信仰の父アブラハムのことを思い浮かべるのではないかと思います。アブラハムは、神様の御声に従い、生まれ故郷である父の家を離れて、行く先も分からぬままに出発しました。また、年老いて、約束の子イサクを授かりましたけども、主はアブラハムに、そのイサクを焼き尽くす献げ物として献げよと命じられました。そこにおいてもアブラハムは主の言葉に従ったのです。なぜ、アブラハムは、この不条理とも言える主の命令に従うことができたのか。それは、アブラハムがイサクを自分のものとは考えてはいなかったからです。イサクは主からの授かりもの。すべての命の主は神であることをアブラハムは知っていたからです。ヘブライ人への手紙によれば、アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じていました。そして、事実、神はそのアブラハムの信仰に応えられるように、イサクをささげることを中止させ、アブラハムの手にイサクをお返しになったのです。

 聖書によれば、イエス・キリストは、十字架の死から三日目に復活されました。その復活の主の御言葉として、私たちは今朝の御言葉を聴かなくてはなりません。聖書において、命とは、生物的、肉体的な命のことだけではなくて、神との交わりに生きる霊的な命を表しています。そして、神が全ての人に望んでおられることは、神との交わりである永遠の命に生きることなのです。先程、塔をたてようとする人と戦いに赴こうとする王の譬えから、腰をすえて考えることの大切さを教えられました。私たちが、腰をすえてじっくり考えなくてはならないこと。それは、イエス・キリストにある永遠の命がどれほどすばらしいか、ということであります。使徒パウロは、ローマ書の8章で、キリストを信じる者は、神の子供であり、キリストと共同の相続人であると論じています。そして、現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りない、と述べるのです。これが、永遠の命について、腰をすえて考え続けた使徒パウロの結論であります。ですから、私たちはこの永遠の命を何としても手に入れなければならないのです。もちろん、私たちは、すでにこの命に生かされております。神を礼拝して生きるということは、永遠の命にすでに生かされているということです。けれども、この命が薄れることがある。塩から塩気が無くなってしまうように、信仰がやせ細り、自分がキリスト者であるか、どうかさえ分からなくなってしまう。その危険があるのです。だから、私たちは腰をすえて考えなくてはなりません。めまぐるしい、忙しい世にあって、私たちは何を第一とすべきかを考え、確認しなければならないのです。そして、この礼拝こそがそのことを考え、確認する最も良い時と場なのです。週の初めの日、休みの日である日曜日に礼拝に出席する。それは、世の人から見れば、愚かなことに見えるかも知れません。けれども、私たちはこのように、共に礼拝を献げることによって、私たちが何を第一としているのかを互いに確かめ合うのです。そして、何を第一とすべきかを世の人々に証ししてゆくのです。

 永遠の命、その素晴らしさ。それを、腰をすえて考えるのであれば、何を犠牲にしても確保するに値する。そのことは、よくお分かりいただけると思います。けれども、キリストの弟子である皆さんと、これからキリストの弟子になろうとする方々に、今朝知っていただきたいことは、神ご自身が、誰よりも私たちを愛しておられるということです。神様というお方は、一方的に私たちの愛を求められるお方ではありません。まず神様の方から、大きな愛で私たちを愛しておられるのです。神様は、この地上の両親や配偶者よりも大きな愛で私たちを愛しておられる。このことを端的に教えているのが、イザヤ書49章14節から16節の御言葉であります(旧1143頁)。「シオンは言う。主はわたしを見捨てられた/わたしの主はわたしを忘れられた、と。女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたを/わたしの手のひらに刻みつける」。

 ここでのシオンとは、バビロン帝国に滅ぼされ、荒廃したイスラエルのことであります。異邦人であるバビロン帝国に滅ぼされる。それは神の民であるイスラエルにとって、主から見捨てられたと判断せざるを得ない状況でした。主はわたしを見捨てられた。わたしの主はわたしを忘れられた。そうシオンはつぶやくのです。けれども、そこに神の約束の言葉が響き渡るのです。女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。そんなことはあり得ない。そんなことはあってはなりません。しかし、たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。これが主なる神の私たちに対する約束の御言葉であります。この神様の愛を知らずして、私たちは何よりも神を愛することはできません。神が、誰よりも大きな愛で、私たちを愛しておられる。このことを知らずして、いくら腰をすえて考えてみても、何よりも神を愛することはできないのです。そして、この神の愛は、イエス・キリストの十字架によって、はっきりと示されたのです。イエス様は、御自分の命を捨てるという仕方で、私たちに対する愛を示されたのです。ヨハネによる福音書の15章13節にはこう記されています(新199頁)。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」。

 ここでの友とは、弟子たち、つまり私たちのことであります。そして命を捨てる「自分」とはイエス様ご自身のことを指しているのです。ここで、イエス様は、御自分より大きな愛を持っている者は誰もいない、と言われます。そのような大きな愛で愛されていながら、どうして私たちは世の富や人間関係を第一とすることができましょうか。私たちを愛して独り子を賜った父なる神、私たちを愛して自分の命を捨ててくださったイエス・キリストを、私たちはどうして愛さずにはおれましょうか。

 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、夫、妻、子供、兄弟、姉妹を、更には自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」

 私たちは今朝、このイエス様の言葉を、真っ正面から受け止めたいと願います。

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