神からの招待 2005年6月12日(日曜 朝の礼拝)

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神からの招待

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 14章15節~24節

聖句のアイコン聖書の言葉

14:15 食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。
14:16 そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、
14:17 宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。
14:18 すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。
14:19 ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。
14:20 また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。
14:21 僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』
14:22 やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、
14:23 主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。
14:24 言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」ルカによる福音書 14章15節~24節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝の御言葉は、14章1節から始まりました「食卓の教え」の最後の教えになります。この食事会は、ファリサイ派のある議員の家で催されたものでありました。そして、そこに集う人々も、当時の宗教的指導者であった律法学者やファリサイ派の人々であったのです。そのファリサイ派の一人がイエス様のお言葉を聞いて、こう言いました。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなのでしょう」。

 おそらく、この人は、14節の「正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」というイエス様の言葉を聞いて、このように言ったのだと思います。イエス様のお話を12節から読めば、この世のお返しのみを期待するファリサイ派の人々への警告なのでありますけども、おそらく、この人は、自分に都合の良い言葉だけを聞いたのだと思います。ファリサイ派の人々は、死者の復活を信じる人々でした。そして、彼らは自分たちこそ、復活の時に報われる「正しい者」であると考えていたのです。そのような彼らが「正し者たちが復活する」というイエス様の御言葉を都合の良く解釈したのです。

 旧約聖書は、終末的な神の救いを、神の祝宴、宴会として描いています(イザヤ25:6参照)。よって、神の国の食事にあずかることは、永遠の神の救いにあずかることを意味しています。この「客の一人」は、「神の国で食事をする人は、なんと幸いな事でしょう」と言いましたが、これは、第三者のことを言っているのではありません。自分とその仲間たちのことを念頭において、語っているのです。なぜなら、自分たちこそ復活する時、報われるであろう正しい者たちであると考えていたからです。ですから、この言葉は、「俺たちってなんて幸せ者なんだろう」という自画自賛の言葉なのです。この言葉は、自分が、神の国の食事にあずかることを前提としている人の言葉なのです。

 そのような言葉を受けて、イエス様は、ある譬えをお話になりました。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。」

 当時、ユダヤの慣習では、正式な宴会に招待するのに、二度の手続きをとったと言われています。始めに、何日に宴会をしますので、どうぞお越し下さいと招待し、その日が来て、準備が整った時点で、再び招待したのです。この人は、盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招きました。前もってなされる始めの招待では、大勢の人から「よろこんでお伺いします」という返事をいただいたのでしょう。沢山の人がもうすぐ、この家に集って来る。あの人も、この人も来てくれる。ああ、どんなに楽しい時となるだろう。そう期待して、料理や席を整え、宴会の準備をしていたのだと思います。そして、やっと人々を迎え入れる準備ができた。『もう用意ができましたから、おいでください』という言葉には、主人の喜びが溢れています。けれども、そこで予期せぬことが起こるのです。それは、皆が皆、まるで申し合わせていたかのように、招待を断り始めたのであります。これは大変考えにくいことであります。なぜなら、二度目の招待を断るのは、非常に無礼であると考えられていたからです。その無礼なことを皆がそろってしたのです。最初の人は、「畑を買ったこと」を。二番目の人は「牛を二頭ずつ五組買った」ことを理由としています。どちらも、人生の中で、一度あるかないかの大きな買い物と言えます。ですから、宴会の招待を断るには、一見、もっともな理由に聞こえます。けれども、この理由は、よく考えてみますと、理屈に合っていないことが分かります。最初の人は、見もしないで畑を買ったのでしょうか。そんなはずはありません。実際その畑を見てから買ったはずであります。そもそも、すでに購入したのであれば、いつでもその畑は見にいけるはずです。そして同じことは、二番目の人にも言えるのです。ですから、最初の人の理由も、二番目の人の理由も、ただ宴会に出席したくない口実に過ぎないのです。三番目の人は「妻を迎えたばかりなので、行くことができません」と断りました。ある人は、この言葉を申命記の24章にある人道上の規定と結びつけて解釈します。確かにそこには、「人が新妻をめとったならば、一年間は兵役に服さなくてよい」と記されています。しかしながら、このことは招待を断る正当な理由にはなりません。なぜなら、戦争は、生きて帰って来れないかも知れませんが、宴会にはその心配は無用であるからです。当時、宴会に招かれるのは、男性だけでしたから、おそらく、この人は家に妻を一人で残しておきたくなかったのでしょう。あるいは、宴会に行くよりも、妻と一緒にいる方が楽しいと考えたのかもしれません。ともかく、ここで、明かになったことは、招かれた人々が、招いてくれた主人を、実は軽んじていたということです。彼らは、はじめの招待には快く応じたのでありますが、実際準備が整うと、自分たちのことを第一として、宴会への招きを断ったのです。

 イエス様は続けてこうお話しになります。21節。

 「僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』やがて、僕が『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにいしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」

 突然のキャンセルに、当然ながら、主人は怒り出します。宴会の準備はすでにできている。テーブルには、柔らかなお肉や、えり抜きの酒が用意されているのです。もし、誰も来なければ、これらの食事は無駄になってしまう。そこで、主人はどうしたのか。主人は、急いで町の広場や路地へ出て行き貧しい者たちを連れてきなさい、と命じます。主人は、もはやそこに集う人がどのような人であるのかを気に留めません。主人はともかく、予定通り、盛大な宴会を催したいのです。ここに、あるのは、主人の宴会に対する熱心であります。たとえ、招待を断られようとも、盛大な宴会を必ず催す、そのような主人の熱心なのです。

 貧しい人たちや体の不自由な人たちを連れて来ても、まだ、席には空きがありました。そこで、主人は更に僕に命じます。「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」。ここで「小道」と訳されている言葉は、「垣根」と訳すべき言葉であります。新改訳聖書や口語訳聖書を見ますと、「垣根」と訳されています。垣根の所まで出て、人々を連れて来るとは、町の外に出て行って、人々を連れてくるということであります。主人のことを知らない町の外の人たちをも、熱心に説き伏せて連れてくるようにと、主人は僕に命じられたのです。

 さて、この譬えを説き明かしましょう。盛大な宴会は、神の国であり、その宴会を催し、招待する主人は、神様のことを指しています。そして、はじめの招待は、旧約預言者たちの招きを指し、僕による2度目の招待は、イエス様ご自身による福音宣教を指しているのです。また神から招待を受けていた人々とは、聖書に詳しい律法学者やファリサイ派の人々のことを指し、貧しい人や体の不自由な人は、神の救いから洩れていると考えられていた徴税人や罪人たちを指しているのです。そして、垣根を越えた町の外に住んでいる人々とは、神の国と関わりがないと考えられていた異邦人を指しているのです。

 新共同訳聖書は、24節を、たとえ話の主人の言葉として記していますが、実は、この24節は、たとえ話を受けての、イエス様の預言的警告であると解釈する人が多いのです。新共同訳聖書は、省略しておりますけども、「言っておくが」の目的語は、「あなたがた」なのであります。ここで突然、会話の対象が2人称複数形になっているのです。主人に遣わされた僕は一人、単数形で記されておりますから、なぜ、急にここで語る対象が「あなたがた」になるのか分からない。そこで、この24節は、譬えの主人の言葉ではなくて、譬えを受けてのイエス様の警告であろうと解釈するのです。そうしますと、神の国の食事は、「わたしの食事」「イエス様の食事」でもあるのです。ここでイエス様は、御自分が神の国の宴会を催す主人でもあることを宣言されたのです。そして、神の御子であるイエス様にとって、そのように語ることはまことにふさわしいことなのです。なぜなら、神の国はイエス・キリストの国でもあるからです(ルカ22:29、30参照)。

 最後の「わたしの食事を味わう者は一人もいない」は、元の言葉を見ますと、未来形で記されています。ですから直訳すれば、「一人もいないであろう」となるのです。ここでイエス様は「一人もいない」と断言されたのではなくて、「一人もいないであろう」と預言的警告をなされたのです。律法学者やファリサイ派の人々が、神の招きを断ることがないように、イエス様はこのような譬え話をされたのです。 

 さて、このイエス様の譬え話を聞いて、ファリサイ派の人々はどう思ったでしょうか。聖書には、彼らの反応は記されていませんが、おそらく驚いたことでしょう。あるいは、気を悪くしたかも知れません。それは、イエス様のたとえ話において、神の国の食卓にあずかっている者の中に、自分たちと思えるような人がいなかったからです。むしろ彼らが、神の国の祝宴とは関わりのないと思っていた人々が、その席を占めることになっているのです。この譬えでイエス様が教えておられることは、聖書を熱心に学んでいたファリサイ派の人々こそ、その招きを第一に受けるべきであったということです。けれども、彼らは、その神の招きを自ら断ってしまうのです。なぜ、彼らは、神から遣わされたイエス様の招きに応えようとしないのか。それは、彼らが本当のところで神様を軽んじていたからです。先程のたとえにありましたように、この宴会を本当に楽しみにし、待ちわびていたのであれば、何があっても、宴会へと出向いていくはずであります。けれども、その宴会がはじまる直前になって明らかとなったことは、彼らがそれほど、その宴会を楽しみにしていなかった。その宴会を催した主人を重んじていなかったということなのです。

 また、ファリサイ派の人々が、神の招きを断ったのは、彼らが自分たちこそ、その祝宴にふさわしいと思い上がっていたからであります。自分たちこそ、神の国の宴会にふさわしいと思うからこそ、一度断っても、また次があるだろう、と神の招きを軽んじたのです。けれども、貧しい人や体の不自由な人に譬えられる、徴税人や罪人たちはそのようには考えません。彼らは、自分たちが、神の国の食卓にふさわしいとは夢にも思いませんでした。ですから、彼らは神の招きを拒むことをしなかったのです。自分たちが神の招きにふさわしくない。そのことを知るがゆえに、彼らは神の招きに喜んで応えたのです。

 今朝の説教を準備しながら、わたしは、イエス様が宣教を始められた時のお顔を想い巡らしておりました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」そう言った時のイエス様のお顔はどのようであったか。わたしは、おそらく、喜びに満ちたお顔ではなかったかと思います。ちょうど、宴会のはじまりを知らせる僕が「用意ができましたから、おいでください」と伝えたように、その声には喜びが溢れていたと思うのです。神がアブラハムをカルデアのウルから導きだしたのは、紀元前2000年頃でした。イエス様がお生まれになる2000年も昔になるわけです。言うなれば、神様は、神の国の宴会に人々を招くために、2000年もの準備をされたのです。その神の招きを、私たちはどうして断ることができましょうか。また、神様の立場に立って言えば、このようにも言えます。招待を断られたからといって、どうして神の国の宴会を中止することができましょうか。今朝のお話の主体は、主なる神ご自身であります。神が宴会を催し、何が何でも、その宴会の席を満たし、多くの人々と共に喜び祝おうとしているのです。そして、その神の熱心が、私たちを今朝、この礼拝へと招いてくださったのです。

 先程、私は、24節の「わたし」はイエス様ご自身とも解釈できると申しました。そうであるならば、そのイエス様から遣わされ、人々を神の祝宴へと招く僕はここに集う私たちなのです。この会堂にも、まだ席があります。イエス様は今朝、私たちにも、この会堂をいっぱいにするよう命じられるのです。「もう用意ができましたから、おいでください」。私たちは、この神の招きに生涯応え続けたいと思います。そして、主の熱心をもって、人々を神の家である教会へと招き続けたいと願います。

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